新時代を開く「コミュニズム」―その秘策は『資本論』にある!
- 2023年 3月 5日
- カルチャー
- 合澤 清
書評:『人新世の「資本論」』斎藤幸平著(集英社新書2020/21)
「人新世」という耳慣れない言葉に一驚したが、「はじめに」で次のように説明している。
「人類の経済活動が地球に与えた影響があまりに大きいため、ノーベル化学賞受賞者のパウル・クルッツエンは、地質学的にみて、地球は新たな年代に突入したといい、それを「人新世」=Anthropoceneと名付けた。人間たちの活動の痕跡が、地球の表面を覆いつくした年代という意味である。」(p.4)
なるほど、「人類学=Anthropologie」に類縁の言葉らしいと、一応納得した。
最初に、著者の問題提起が那辺にあるかをまず見定め、確定しておきたい。
「…経済成長が、人類の繁栄の基盤を切り崩しつつあるという事実」(p.5)
「…ここには、資本の力では克服できない限界が存在する。資本は無限の価値増殖を目指すが、地球は有限である。外部を使いつくすと、今までのやり方はうまくいかなくなる。危機が始まるのだ。これが『人新世』の危機の本質である。」(p.37)
つまり、資本主義のもたらす悪として彼が指摘するのは、「利潤追求」による「生産性の罠」と「経済成長の罠」であり、その延長線上に出現する大量生産・大量消費社会、そして格差社会の出来と富裕層による不必要な大量消費(贅沢)である。さらに、それらの結果として地球規模での環境破壊がもたらされることになる、これは人類史上の一大危機である。
このような危機に対抗するためには、「資本主義を廃棄する」以外に道はない。「資本主義システムを前提にした改良(修正)」では、ただ社会的な矛盾が拡大再生産されるに過ぎない。今、われわれが真に目指すべきものは、われわれが生きていくうえで絶対になくてはならないもので、主に自然によって万人共通に与えられてきたもの(例えば、空気や水や食料、土地、など)を「コモン」(共有財産)として、社会的に所有することである。そして資本主義が目指す利潤追求の「成長経済」と縁を切り、「成長なき持続社会」=コミュニズム(共産主義)社会の実現を目指すべきである。
おおよそ、こういうことが主張されている。なかなか大胆な意見であるが正論であろう。非常に興味深いのは、コミュニズムを大上段に振りかぶった対案にある。近年の日本では(一部の左翼を除き)コミュニズムを前面に押し出す議論は珍しい。
この本を読みやすく、魅力的にしているのは、これらの主張を裏付けるために、いろんなデータや事例を紹介し、また従来の硬直した「マルクス解釈」を大きくはみ出したマルクス論(新たな資料発見も含む)を展開している点にあるだろう。
例えば、次のような興味深いデータが紹介される。
「世界の富豪層トップ10%が二酸化炭素の半分を排出しているという驚くべきデータもある(Oxfam”Extreme Carton Inequality”2015)。」(p.81)
「リチウムイオン電池―アンデス山脈、アタカマ塩原(チリ)が最大の産出国―リチウム採掘は、地下水の吸い上げと同義―一社だけでも一秒に1700ℓの地下水をくみ上げている/乾燥地帯における大量の地下水のくみ上げは、生態系に大きな影響を与える。また住民たちがアクセスする淡水の量を減少させている。」
「コバルト採掘のために―(最大の産出国)コンゴでは、水質汚染と農作物汚染、景観破壊―奴隷労働、児童労働がおこなわれている」(pp.83-5)
「世界で最も裕福な資本家26人は、貧困層38億人(世界人口の約半分)の総資産と同額の富を独占している。(「朝日新聞」デジタル版2019.1.22)」(p.231)
「『コロナショック・ドクトリン』に際して、アメリカの超富裕層が、2020年春、3か月で資産を62兆円増大させたこと」(p.252)
社会的共有財産を囲い込む(私物化する)資本主義
もう少し詳細にこの本の内容に沿って研覈してみたいが、その前に先ほどの「コモン」との関連で、「水」ビジネスの恐るべき実態について『ウォーター・ビジネス』中村靖彦著(岩波新書2004.2)からほんの一例だけ紹介しておきたい。
「水は人類にとって絶対に必要な資源である。それだけに世界の企業は、水の利権を求めて動く。ただ、これはあくまで利権だから、金にならない地域には手を伸ばさない。…水道民営化の世界状況では、アフリカは極端に遅れていた。財政事情が悪いし、政情も不安定な地域には多国籍企業も手を出さないのである。…安全に収益を確保できそうな地域に、企業は進出する。『公益事業である水道事業は、実に巨大なサービス産業であり、全世界の市場規模は年間4000億ドルに達する』(氏岡庸士「世界から見た改正水道法」)(p.203)」
「将来、需要が供給を上回ることが確実な水を狙って、いろいろな種類のウォーター・ビジネスが動き始めた。飲み水などの生活用水に必要なのは、先ず淡水である。その淡水をボトル・ウォーターにして販売する戦略が発達した。ヨーロッパでは一番古くからこの商売が繁栄し、ついでアメリカ、そしていまや日本を中心とするアジアへと、企業の活動が移ってきている。設備投資をして地下水をくみ上げたりする水だから、当然価格は高い。高くても、質が良い水がこれしかなければ、人々は飲まなければいられない。そして質の良い水を売り物にするマーケティングの力に人々は惹かれてしまう。(pp.34-5)」
ここに働いている論理はただ一つ、「水は利益を生む資源である」ということである。それ故にそこに資本は集中し、庶民はそこから排除されるのだ。
再び斎藤の本にフィードバックする。
先ほど触れた「生産性の罠」と「経済成長の罠」について、次のように述べている。
「資本主義は、コストカットのために労働生産性を上げようとする。労働生産性が上がれば、より少ない人数で今までと同じ量の生産物を作ることができる。その場合、経済規模が同じままなら、失業者が生まれてしまう。だが資本主義のもとでは、失業者達は生活していくことができないし、失業率が高いことを政治家たちは嫌う。そのため雇用を守るために、絶えず経済規模を拡張していくよう強い圧力がかかる。こうして生産性を上げると、経済規模を拡大せざるを得なくなる。資本主義は『生産性の罠』から抜け出せず、経済成長をあきらめることができない。そうすると今度は、気候変動対策をしようにも、資源消費量が増大する『経済成長の罠』にはまってしまう。」(p.70)
つまり、より安い製品を作るためには単位当たりの製造コストを下げる必要がある。そのための生産性向上が失業や低賃金という購買力の低下を招く。だからさらに生産性を増やし、製品コストを下げる必要が生じる。こうした「生産性の罠」は、永続的な「経済成長の罠」へと続き、結局は気候変動や環境破壊を食い止めることは不可能になる。悪循環の拡大再生産。
最近問題視されているCO₂がもたらす環境破壊に関連して、化石燃料を電気エネルギーに転換すべしという主張がある(主要には、ガソリン車からEV車へ、という動向)。しかし、これとて危険な原発エネルギー依存など、資本主義経済システムを前提にしていては環境問題からみて、成立不可能だ、という。
「…将来的な石油の価格崩壊が確実視されればされるほど、売り物にならなくなる前に、化石燃料を掘りつくそうと試み、採掘のペースは上がってしまうのだ。これは気候変動のような不可逆的な問題にとっては、危険で、致命的な過ちとなる。だからこそ、温室効果ガスの削減のためには、市場外の強い強制力が必要なのだ。」
「要するに、これまでの経済成長を支えてきた大量生産・大量消費そのものを抜本的に見直さなくてはならない。だからこそ、2019年には1万人を超える科学者たちが、『気候変動は、裕福な生活様式の過剰消費と密接に結びついている』ことを訴え、既存の経済メカニズムから抜本的に転換する必要性を唱えたのだ。」(p.80)
ここで、著者がこの本の冒頭(はじめに)で掲げた言葉の意味について考えてみたい。それは次のような刺激的なテーゼであった。
「SDGsは『大衆のアヘン』である!『免罪符』=ガス抜きとして使われることで、肝心の問題から目をそらしている」(SDGsとは、持続可能な成長目標のこと=評者)
先ほど「コモン」という社会的共有物について触れた。これは地球上に住むすべての人間に共有されるべき、共有財産のはずである。ところがそれらが、資本主義という制度の下で次々に商品化され、個人ないし会社(あるいは国家)所有に変えられ、いつの間にか一方的に囲い込まれ(利権化)、圧倒的多数の人々がそれから排除されることになる(先述した「水ビジネス」を思い起こしてもらいたい)。このことは、資本主義体制内でのあれやこれやの弥縫策(修正資本主義の政策)では、もはや解決しえない。その最たるものが「地球環境破壊」として現に我々に突き付けられているのである。
すでにお分かりのように、筆者斎藤幸平が提唱するのは、資本主義が求める「経済成長」ではなく、その真逆の発想、「経済成長を拒否すること」である。そして、「経済成長を拒否(脱成長)」しながら、そこで生活する人類全体の持続可能な繁栄を保障する制度こそが「コミュニズム」に他ならないというのだ。
コミュニズム(共産主義)とは何か
それではコミュニズムとは何なのかについて次に考えてみたい。
「社会保障サービスの起源は、あらゆる人々にとって生活に欠かせないものを、市場に任せず、自分たちで管理しようとした数々の試みのうちにある。それが20世紀に福祉国家の下で制度化された…。」(pp.145)
つまり、「労働者たちの自発的な相互扶助(アソシエーション)が〈コモン〉を実現する」機縁になり、それが福祉国家にまで発展したというのである。
「…アソシエーションから生まれた〈コモン〉を、資本主義の下で制度化する方法の一つが、福祉国家だったのである。しかし、1980年代以降、新自由主義の緊縮政策によって、(それらは)次々と解体もしくは弱体化され、〈コモン〉は市場へと吞み込まれていった。 …高度経済成長や南北格差を前提とした福祉国家路線は、気候危機の時代にはもはや有効ではなく、自国中心主義的な気候ケインズ主義に陥るのが関の山だ。…単に人々の生活をより豊かにするだけでなく、地球を持続可能な〈コモン〉として、資本の商品化から取り戻そうとする、新しい道を模索せねばならない。」(pp.145-7)
ここで「自国中心主義的な気候ケインズ主義」といわれているのは、トランプの「アメリカ・ファースト」にみられるように、結局はナショナリズムと相似なものという意味である。中心国と周辺国間の格差、南北問題、これらを無視した「自国中心主義」のことである。しかし、今や危機的な状況下におかれている「地球環境問題」は、そのような自国のみの利益(安全)追求というエゴを全く許容しえない程に深刻さを増している。だからこそ、資本主義という制度の在り方そのものの変革が問題になっているのである。
コミュニズム社会に向けての過渡的な要求や事例としていくつかが提唱されている。その一つが「市民・営化」である。
「〈コモン〉のポイントは、人々が生産手段を自律的・水平的に共同管理するという点である。例えば、電力は〈コモン〉であるべきだ。水と同じように電力は『人権』として保障されなくてはならない、市場に任せてしまうわけにはいかない。市場は、貨幣を持たない人に、電気の利用権を与えないからである。しかし、国有化すればよいわけではない。国有化は、原発のような閉鎖的技術の導入など安全性に問題が残るからだ。火力発電も、しばしば貧困層やマイノリティが住む地域へと押し付けられ、大気汚染が近隣住民の健康を脅かしてきた。〈コモン〉は、電力の管理を市民が取り戻すことを目指す。市民が参加しやすく、持続可能なエネルギーの管理方法を生み出す実践が〈コモン〉なのである。その一例が市民電力やエネルギー協同組合による再生可能エネルギーの普及である。」(p.258)
また「ワーカーズ・コープ」も提唱される。
「『ワーカーズ・コープ(労働者協同組合)』の提唱…労働者自身による「社会的所有」…資本による包摂を受け入れた労働組合とは対照的に、ワーカーズ・コープは生産関係そのものを変更することを目指す。労働者たちが労働の現場に民主主義を持ち込むことで、競争を抑制し、開発、教育や配置転換についての意思決定を自分たちで行う。事業を継続するための利益獲得を目指しはするものの、市場での短期的な利潤最大化や投機活動に投資が左右されることはない。ワーカーズ・コープは、職業訓練と事業運営を通じて、地域社会へ還元していく『社会連帯経済』の促進を目指す。労働を通じて、地域の長期的な繁栄に重きを置いた投資を計画するのである。これは生産領域そのものを〈コモン〉にすることで、経済を民主化する試みに他ならない。…スペインのモンドラゴン、オハイオ州クリーブランドのエバーグリーン協同組合、ニューヨーク州のバッファロー協同組合、ミシシッピー州のコーポレートジャクソン、など。
もちろん、ワーカーズ・コープも一歩外に出れば、資本主義での競争にさらされてしまう。…社会全体を変えていく一つの基盤(でしかない)…。」(pp.261-5)
斎藤は「脱成長コミュニズム」構想ということでこれらを五点にまとめる。
「この構想は大きく五点にまとめられる。『使用価値経済への転換』、『労働時間の短縮』、『画一的な分業の廃止』、『生産過程の民主化』、『エッセンシャル・ワークの重視』」(p.299)
その上で、次のように結論付ける。
「生産力を限りなく上げて、人々が欲するならいくらでも生産しようとする消費主義の過ちを、晩年のマルクスならはっきりと批判しただろう。現在のような消費主義とは手を切って、人々の繁栄にとって、より必要なものの生産へと切り替え、同時に、自己抑制していく、これが『人新世』において必要なコミュニズムなのだ。」(p.302)
著者によれば、以上に述べた変革の指針は、おおむねマルクスの思想の中にある。マルクスの歴史観は、従来、「生産力至上主義と単線的な進歩史観とみられていた」、しかし後期のマルクスの文献(新しく発見された資料も含めて)を調べて分かるのは、そうではなくて、「脱成長」による自然環境との調和(和解)であった、という。
「資本は『修復不可能な亀裂』を世界規模で深め、最終的には資本主義も存続できなくなる。」(p.104)
このことが顕著にみられるのは、マルクスがヴェーラ・ザスーリッチへ宛てた手紙である。しかし、ここではこれ以上この問題に立ち入ることはしない。興味のある方は、この本の第四、第六、七、八章および『マルクス・エンゲルス全集』に直接あたっていただきたい。
読後感と問題点(若干の注文)
最後にこの本についての読後感などを多少述べておきたい。
著者が指摘する第一の問題は、資本主義は絶えず矛盾を拡大再生産しながら延命(問題の先延ばし)しているに過ぎないということである。従来の経済学、特に宇野学派が強調してきたことでは、資本主義は周期的な恐慌(戦争)を必然化することでその危機を何とか収めてきたが、今やそういう余力すら喪失しているということであった。斎藤も危機の認識という点では同じ地平に立っているように思う。違いは、斎藤が地球環境破壊を最大の危機、喫緊の要事として取り上げた点にある。これは、この本の中でも何度か取り上げられているナオミ・クラインの『ショック・ドクトリン』と同様である。
かつてヘーゲルは、『法哲学』の中の「植民論」で、植民政策が飽和になった段階で、西欧社会は初めて「政治問題」に突き当たることになると書いているが、われわれ人間にとっては、自然環境も含めて、どうしても人間中心の社会を築く以外逃げ道がない(考えようがない)ようだ。自然環境の重要さの自覚、またそれとの共生すらも、人間の存続というある種の「人間的思考の産物」(人間にとっての最適な社会実現を目指すこと)につながっている。
斎藤幸平は『資本論』の中にその解決策があると書いている。確かに一つの時代の解決策は示されているかと思う。しかし、共産主義社会をも、人類史の特殊な一段階としながら、新たな矛盾の発生とその解決の追求という「永続的な葛藤」が避けられないとすれば、人類史そのものが「永続革命」に他ならないとも考えられる。
ともあれ、資本主義のもたらす悪として彼が指摘するのは、D.ハーヴェイも言う「利潤追求」(「資本は無限の価値増殖を目指す」)による「生産性の罠」と「経済成長の罠」であり、またその結果としての大量生産・大量消費社会の出現(見田宗介)である。そこから格差社会や環境破壊などの現代的「悪」が生まれているということであろう。
そして、本来、人類の共有財産であるはずの「コモン」が、いつの間にか「私物化され」民衆から奪われてしまっている。「コモン」の社会的所有が目指されるべきである。このことは確かである。問題はそこから先にある。それはいかにして実現しうるのかだ。
歴史の教訓としてわれわれの前に横たわる無数の残骸は、過去の努力の深刻な総括を否応なく迫る(総括は決して後ろ向きでも「後退」でもない)。ネップの総括も必要だろう。あるいは国家所有に至ったことの問題も、ミニ集団(教団や地域コミューン)の所有が国家的規模へと拡大していく段階で持ち上がる、例えば官僚制による管理、支配、などの問題も考える必要がある。
あるいは、現実世界が当面する諸問題、米・中のヘゲモニー争い、あるいはハーバーマスが(『危機の中のヨーロッパ デモクラシーか資本主義か』)で指摘するように、現に「国民国家」が存在する中で、いかにして歴史的条件に由来する格差を払拭するか、更に、EUがヨーロッパナショナリズムへと変貌する危険はないのか、等々。人類にとっての最終的な危機は、環境のみでなく、核所有国によって引き起こされるかもしれない戦争でもある。その引き金になりうる要因も大国主義、移民問題、民族格差、宗教上の違い、など限りなくある。
世界中が危機的な状態に置かれているから、資本主義をなくし、コミュニズムへとチェンジすべきだ、という考え方には賛同するが、それだけではロマンチックな構想に過ぎない。
斎藤はマルクスの『ゴータ綱領批判』の次の個所を引用してコミュニズム構想を言い立てているが、それだけではやはり不十分さが残るのではないだろうか。
「共産主義社会のより高度な段階で、すなわち個人が分業に奴隷的に従属することがなくなり、それとともに精神労働と肉体労働の対立がなくなったのち、労働が単に生活のための手段であるだけでなく、労働そのものが第一の生命欲求となったのち、個人の全面的な発展に伴って、またその生産力も増大し、協同的富(der genossenschaftliche Reichthum)のあらゆる泉が一層豊かに湧き出るようになった後―その時初めてブルジョア的権利の狭い限界を完全に踏み越えることができ、社会はその旗の上にこう書くことができる―各人はその能力に応じて、各人はその必要に応じて!」(p.201)
例えば、分業の止揚はどうすれば可能となるのか、これは専門分化の止揚の問題でもある。医療や知的労働、技術などの分野で、このことをどう考えるべきか。
もちろん、斎藤は先にも紹介したような「市民営化」や「ワーカーズ・コープ(労働者協同組合)」などの実例を引きながら具体的な対案として紹介している。
しかし、地域通貨が地域にとどまっていて、なかなか拡大しないことと同じ問題が起きてくるのではないだろうか。地域は外部世界とつながっているからだ。
また、一時期行われた「工場の自主管理」にしても、業種にもよるが、外部世界との関連で行き詰まることが圧倒的であった。「市民営化」も、圧倒的に小規模にとどまっていること、またその恩恵を受けられる人も依然としてなにがしかの出資金を提供した人々に限られるということ。これでは著者が先ほど批判した、修正資本主義と変わらないのではないだろうか。
この本では実践論と「移行過程」=過渡期の議論が弱いように思う。ある種の理想論に走りすぎている。例えば、バルセロナが「fearless-city]と呼ばれていることは大変すばらしいことではあるが、沖縄の例をそれに対置して考えるとどうなるだろうか。政府は補助を制限し、露骨に沖縄を「兵糧詰め」に置こうとしている。また、当然ながら沖縄の住民すべてが革新の現体制支持でもない。しかも選挙がある。一地方自治体が独力で「反体制的」自治体制を維持し続けるのは非常に難しい。企業も同様で、自主再開、自主生産まで行っても、その後の営業の困難さは、周囲が敵(資本家勢力)によって囲まれていることによる。かつてのソ連を取り囲む「反革命階級連合」の存在をどうすれば打ち破れるか、ここが最大の問題だ。このような事情が、ソヴィエトの政策の「歪み」を引き起こした大きな一因だったのではないだろうか。
PS.この書評を半分ほど書き進んだとき、ちきゅう座に矢沢国光氏による同じ斎藤幸平著の「ゼロからの『資本論』」の書評が掲載されたことを知った。ここにはかなり詳しく「コモン」について、また『資本論』との関連について書かれていたため、この小論では、その部分はただ関説するだけにとどめた。矢沢氏の書評は以下をご覧ください。
http://chikyuza.net/archives/125763 2月26日に、ちきゅう座掲載
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔culture1152:230305〕
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