映画『アイダよ、何処へ?』を観る(上)/ボスニア紛争とスレブレニツァ
- 2023年 3月 9日
- 評論・紹介・意見
- 岩田昌征
映画『アイダよ、何処へ?』(原題:QUO VADIS, AIDA?)を観た。一九九五年七月十一日から一週間、ボスニア戦争(一九九二年四月〜一九九五年十一月)最終局面に起こったボスニア・ムスリム人成人男子数千人が侵攻したセルビア人軍によって組織的に殺害された惨劇の中で、夫と息子三人を生かそうと必死になって国連保護軍のオランダ軍人に特別配慮を頼み込むが成功せず、遺骨も遺品もないまま、戦後、その悲劇の町スレブレニツァで殺害者のセルビア人と共生するしかないムスリム人知識人女性、彼女こそアイダである。
映画を観た日本人観客は、その悲劇を何か特別な例外的事件であると思うかもしれない。残念ながら、ボスニア・ヘルツェゴヴィナの歴史を見ると、そうではない。同じような悲劇が繰り返されていた。
旧ユーゴ諸民族の歴史的関係
第一次世界大戦始期、オーストリア・ハンガリー軍がボスニア方面からセルビア王国に侵攻したとき、セルビアに隣接する東ボスニアのセルビア人がオーストリア・ハンガリー軍に協力するボスニア・ムスリム人の加害対象となった。それでも戦後、新国家セルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人王国(後に改称して、ユーゴスラヴィア王国)の中で加害者と被害者はいっしょに暮らした。
第二次世界大戦の時、クロアチアは、ナチス・ドイツの保護同盟国となって、ボスニアと合体して、クロアチア独立国を創建した。そのセルビア人狩りに協力したかなりのボスニア・ムスリム人があった。そんな条件下で、ヤセノヴァツ強制収容所群が運営されて、老若男女のセルビア人が数十万人殺害された。それでも、戦後、社会主義ユーゴスラヴィアの下で、クロアチアではクロアチア人加害者とセルビア人被害者が、ボスニアではボスニア人加害者とセルビア人被害者がいっしょに暮らした。
わたし=岩田は、映画『アイダよ、何処へ?』に見られる「国際社会」の一般論にしたがって、一民族を加害者、他の一民族を被害者とする単純な筆法で、第一次大戦と第二次大戦における旧ユーゴスラヴィア諸民族間の関係を記してしまったが、もちろん、多民族社会の戦争は、加害と被害、殺戮と犠牲が毎日、毎週、毎月に逆転反転するのが実態である。
ボスニア紛争における国連安全地帯設定
第一次大戦と第二次大戦の時代におけるボスニア多民族戦争と一九九〇年代前年のそれとの間に大きな質的相違がある。それは、国連による安全地帯の設定である。一九九三年四月に、スレブレニツァは国連指定の安全地帯となった。すなわち、スレブレニツァの非軍事化、スレブレニツァを攻撃してはならないし、スレブレニツァに国連保護軍以外の、たとえば、武装せるボスニア・ムスリム人軍が存在してはならない。軍人以外の一般市民の武装もあってはならない。それを保証するために、オランダ大隊が四五〇人駐屯していた。また、スレブレニツァ安全地帯の外からセルビア人軍が大規模に攻撃してくる場合は、近接支援空爆か本格空爆が想定されていた。
安全地帯の実像についての証言
わたしの手元に極めて参考になる書物がある。カルロシ‐ブランコ著『バルカン戦争、ジハティズム、地政学そして情報歪曲 国連で勤務したあるポルトガル人将校の体験』(ベオグラード、クニーガコメルツ社、二〇一九年、ポルトガル語原著は二〇一六年)のセルビア語版がそれである。著者カルロシ‐ブランコ少将は、一九九四年八月十五日から一九九六年二月五日までボスニア・ヘルツェゴヴィナのモスタル、国連保護軍の本部があるクロアチアの首都ザグレブ等に駐在して、現地のスレブレニツァ体験はないにせよ、本部で秘密資料を読める立場にあったし、スレブレニツァのオランダ大隊の責任者K少佐とかれが一九九五年八月に帰国する際に、長時間情報交換しており、一九九五年七月十一日からの一週間に何が起ったかその実像を、学界人や報道陣のように戦略情報操作されることなく、把握していると自負する。自分の現地体験と情報分析に基づいて、きわめてボスニア・セルビア人に同情的である。
映画『アイダよ、何処へ?』に描かれた大量殺害事件の前提になったと思われる諸事件が本書に示されている。ここではその一部を要約紹介しよう。
︱︱オランダ大隊の役割は、status quo現状維持である。セルビア人軍に応答し、対処する。ボスニア・ムスリム人軍に非軍事化を納得させる。スレブレニツァへ国際的人道援助を無事に到着させる。
ボスニア・ムスリム人軍の重装備・重火器はオランダ大隊監視下の武器集積所に集められていたとはいえ、ムスリム人軍は武装解除されていなかった。オランダ大隊は武装解除のために実力行使することを認められていなかった。オランダ大隊が毎日出会っていた武装市民グループに関しても同様であった。国連職員たちは見て見ぬふりをしていた。
スレブレニツァ安全地帯なる飛び地の南端でボスニア・セルビア人軍が若干行動を起こした後、ボスニア・ムスリム人軍は、飛び地の西南角、バンデラ・トライアングルで国連職員たちに禁足を課した。一九九五年一月のことだ。一月二十八日、オランダ大隊はボスニア・ムスリム人軍の制止を無視して、禁足地に入った。それに対して、ムスリム人軍はオランダ大隊兵士一〇〇人を人質として取った。この事件の後、バンデラ・トライアングルを地域オランダ大隊が巡視パトロールすることはなかった。
セルビア人軍とオランダ大隊との関係もまた悪くなった。それは、ムスリム人軍が飛び地の周囲の村々に住むセルビア人住民を絶え間なく飛び地から出撃して襲うからである。その攻撃はしばしば残忍な殺戮になった。攻撃が終わると、ムスリム人は飛び地に隠れた。国連安全地帯=飛び地はムスリム人軍のシェルターとなった。
ボスニア・セルビア人軍は、一九九五年三月から、飛び地に駐兵するムスリム人軍がセルビア人住民を攻撃するのに、オランダ大隊がそれを阻止していないとオランダ大隊を非難し始めた。そして何回か安全地帯=飛び地に人と食料の流入を許さない行為に出た。しばしば追撃砲による攻撃が行なわれ、あるとき七人の村人が殺された。セルビア人軍の反応は攻撃的であった。︱︱ 一六六ページ
スレブレニツァの地形
ここで、悲劇の虐殺事件の舞台となったスレブレニツァについて若干説明する。スレブレニツァには三つの意味がある。スレブレニツァ・オプチナ(セルビア語ではオプシティナ)であって、基礎自治体が第一。その中心をなす町スレブレニツァが第二。スレブレニツァ町を含むが、オプチナに含まれる安全地帯=飛び地としてのスレブレニツァが第三。
スレブレニツァ町は幅一キロメートル、長さ二キロメートルの小さな田舎である。
スレブレニツァ飛び地=安全地帯は、一片の長さ、一二・五キロメートル四方の正方形、約一五五平方キロメートルであって、近隣から逃げて来たムスリム人を含めて約四万人の人口であった。ここで飛び地とは何かを説明する。ボスニア・ムスリム人の主要支配地域から飛び地を離れて、ボスニア・セルビア人主要支配地域内にぽつんと孤立して存在するボスニア・ムスリム人の小地域のことである。
スレブレニツァ・オプチナは、五二八平方キロメートル、戦争前の統計では三万七○○○人、そのうち六○○○人がスレブレニツァ町の住民であった。宗教別に見ると、七五パーセントがムスリム人であった。
歴史をさかのぼって、一九一〇年の統計では、町のことか、それとも周辺全体のことか、分別できないが、ムスリム九〇九人、セルビア正教五七六人、カトリック九九人、ユダヤ教二一人である。
ところで、わたしが住んでいる東京都世田谷区は、面積わずかに五〇・〇五平方キロメートル、そこに九四万人もの人びとが生活している。スレブレニツァ安全地帯は、その形状が世田谷に似ているが、世田谷区の三倍広く、人口で二四分の一である。映画『アイダよ、何処へ?』を観る時に、またその地域の戦争を考えるときに、念頭に入れておいてよい数字だろう。
実現しなかったムスリム人の武装解除
映画では、スレブレニツァの人びとは、オランダ大隊の保護活動に満足していないように見える。ましてや感謝の気持はまったく示されていない。ムスリム人成年男子の悲惨な運命を知れば、それもまったく当然であるとは言え、四五〇人のオランダ軍兵士に何ができたであろうか。一五五平方キロメートルの飛び地一二箇所に監視所を設置したからと言って、安全地帯への侵入を安全地帯からの出撃を阻止できるはずがない。監視所が出入りの要所要所に置かれているにせよ、出撃者も侵入者も出撃地と侵入地を自分たちで選びとれるのだ。一二分の一に分散された四五〇人に対応できることではない。
安全地帯設定の最大受益者は、映画の主人公を含むスレブレニツァの非武装住民であろう。最大不利益者はセルビア人軍であろう。その損益中間点にムスリム人軍がいる。とすると、スレブレニツァの非武装住民は、国連保護軍のオランダ大隊に徹底して協力して、ムスリム人部隊の完全一〇〇%の武装解除を実現すべきだっただろう。それが実現されていれば、飛び地=安全地帯からの出撃も安全地帯からの追撃砲攻撃によるセルビア人村民の死傷もなかったろう。そうすれば、あのセルビア人軍の侵攻作戦があの時点で行なわれ、あんな大量虐殺に展開することもなかったかもしれない。
純粋な非武装地帯ではなく、建前としての安全地帯であったことを知っていたからこそ、明石康国連事務総長特別代表は、スレブレニツァに攻撃をしかけたセルビア人軍に対する本格的空爆をためらったのだろう。(以下次号)
初出:新聞『思想運動』2021年12月1日号より許可を得て転載
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
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