「憲法九条は死んだ」などとは言わせないために
- 2023年 3月 19日
- 時代をみる
- 憲法長谷川孝
◆安全保障の基礎は生活の安心・安定
さがみ九条の会役員会で、安保政策の改編、軍拡に関して話し合う中で、軍事力では本当の安全保障は実現しない、食の確保ができなくて国民の安心・安全は守れない、という意見が出ました。
論議に加わりながら私は、江戸時代の二六〇年の平和は、庶民の暮らし、つまり食や仕事などの安定と、祭りや文芸などの文化の広がりがあったから、という話を思い出していました。知的好奇心のある暮らしの文化で、思想史家の故渡辺京二氏は「江戸文明」と言っていたそうです。
もう一つ思い浮かべたのは、「文化国家」です。憲法の前文、条文にはありませんが、天皇の憲法公布記念式典の勅語で、「自由と平和とを愛する文化国家を建設するように努めたい」とあります。
憲法九条は、この文化国家とセットで理解される必要があると思うのです。暮らしの文化が大事なのですが、戦後日本はもっぱら、経済主義国家、マネー文明国家を歩んできたように思うのです。
◆「文化国家」が憲法の精神の心髄
じつは憲法前文は、文化国家のいわば心髄をうたった<すごい文章>だと考えたいのです。例えば、第2段落の「…われらの安全と生存を保持しようと決意した」という文脈には、〈相手がどうかではなく、「まず自らが決意する」という信念〉がたぎっているように感じます。
文化国家を支える自立・自律の精神と言いたくなります。戦前の軍事国家を許してしまった無思考・無知(反知性)、無関心とは無縁の文化国家を築くための精神、憲法はこれを主権者ピープルに求めているのではないでしょうか。だから、大改悪前の元の教育基本法は、憲法前文とその最終段落を受けて、「民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようと決意した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである」とうたっていたのです。
この自立・自律でふと思い出すのは、詩人の石垣りんさんの作品『表札』です。
《自分の住むところには 自分の手で表札をかけるに限る。/精神のあり場所も ハタから表札をかけられてはならない 石垣りん それでよい。》
この〈精神の在り場所〉が肝腎です。戦前の高等小学校卒で働いた石垣さんは、まさに詩作という文化活動によって、この『表札』の精神を創られたのだと思います。(なお、静岡県南伊豆町教育委員会発行の『石垣りん未刊詩集――生誕一〇〇年記念事業』が、市立相模大野図書館にありますので、お読みください)。
◆「九条だけ」を叫ばずに…憲法全体の中で
国際的に人権後進国の日本は、文化国家とは恥ずかしくて言えません。でも憲法前文はすでに、冷戦終結後に言われ始めた「人間の安全保障」をずばりとうたっています。欠乏からの自由、恐怖からの自由、尊厳ある人間生活(平和のうちに生存する権利)です。
九条だけを護ろうとするのではなく、前文はもちろん、13条(個人の尊厳)、14条、97条(基本的人権)などと合わせて、文化国家=非戦国家づくりに取り組みたいと願います。
たとえ自衛のための戦争でも、非戦・普選の努力を欠いた「政府の行為による」戦争です。それによる惨禍から世界のすべての人々が自由に……その願いがある限り、「九条は死んだ」などとは言わせない、と肝に銘じたいと思います。
初出:「さがみ九条の会 ニュース56号」2023年3月1日より許可を得て転載
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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