世界のノンフィクション秀作を読む(8) 福沢諭吉の『福翁自伝』――「門閥制度は親の仇」と喝破した当人による自叙伝(下)
- 2023年 5月 27日
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- 『福翁自伝』ノンフィクション横田 喬福沢諭吉
◇事情探索の胸算 病院なるものの、その入費の金の案配は? 銀行なるものの金の支出入は? 郵便法とは? 徴兵令の趣向もとんと判らず、選挙法とはどんな法律で、議院とはどんな役所か、諸々不明。入り組んだ事柄になると、五日も十日もかかって、ヤッと胸に落ちるというような訳で、ソレが今度の利益でした。
◇露国に留まることを勧む ぺートルスボルグ滞在中に接待員という者があって、色々饗応する。ある日、その一人が私に対し、秘かに説いた。「日本は小国だ。このままロシアに留まらないか。面白い愉快な仕事は沢山あり、金持ちにもなれる」。私はそんな気はないから、適当に受け流しておいた。ロシア以外の国で留まれと言った人はついぞない。これは政治上また国交際上の意味を含んでいるに違いない。どうも気の知れぬ国だ、と思うた。
◇再度米国行き 慶応三年(1867)、また私はアメリカに行った。これで三度目の外国行。
幕府が八十萬㌦で軍艦建造を頼み、その受け取りと鉄砲買い入れが目的。アメリカに南北戦争と言う内乱が起こり、派遣が延びていた。私は派遣の委員長に決まった小野友五郎に随従を頼み、許された。便船はコロラドという四千㌧の飛脚船。ワシントンで向こうの国務卿と談判し、ストーンウォールという甲鉄艦(日本では東艦と命名)を買い入れ、事が済んだ。
◇攘夷論の矛先、洋学者に向かう 井伊直弼がこの前殺され、今度は老中の安藤対馬守が浪人に傷を付けられた。外国の書を読んで異国の制度文物を論ずるような者は、不埒な奴、売国奴だと、ソロソロ浪士の矛先が洋学者の方に向いてきた。私は慎めるだけ身を慎んで、もっぱら著書翻訳のことを始めた。
◇長州征伐に学生の帰藩を留める 幕府から九州の諸大名にも出兵命令が下り、豊前中津藩から江戸留学中の学生、小幡篤次郎ら十人に呼び返しが来た。私は不承知だ。流れ弾に当たっても死んでしまう。病気と言って断り、一人も返さない。その罪は中津にいる父兄の身に降りきたって、何でも五十日か六十日の閉門を申し付けられたことがある。
◇王政維新 慶応三年暮れ、世の中が物騒になり、学生は次第に少なくなる。明ければ慶應四年即ち明治元年正月早々、伏見の戦争開始。将軍慶喜公は江戸に逃げて帰り、これが王政維新の始まり。その時に私は少しも政治上のことに関係しない。私は軽輩の藩士はもとより、町人百姓に向かっても見下して威張ったりなどは、ちょいともしない。
◇官賊の間に偏せず党せず 私の処には官軍方の人も賊軍の人も出入りし、官でも賊でも依怙贔屓なしに扱っていたから、双方ともに朋友でした。塾生には薩州や土州など官軍一味の者がいて、仙台など賊軍の者もいる。塾の中で混じり合って、何も風波がなく、私は腹の底から偏頗な考えがない。その趣意で貫いていたから、無難に過ごしたことと思う。
◇授業料の濫觴 生徒から毎月金を取るということも慶應義塾が始めた新案。教授もやはり人間の仕事だ、人間が人間の仕事をして金を取るになんの不都合がある。授業料という名をつくって生徒一人から毎月金二分ずつ取り立てることにしました。今では授業料なんぞは普通当然のようにあるが、ソレを初めて行うた時は実に天下の耳目を驚かしました。今日それが日本国中の風俗習慣になって、なんともなくなったのは面白い。
◇日本国中ただ慶應義塾のみ 兵馬騒乱の中にも、西洋の事を知りたいという気風はどこかに流行。生徒は続々入学してきて塾はますます盛んになりました。世間を見れば徳川の学校はつぶれてしまい、維新政府は学校どころの場合ではない。日本国中いやしくも本を読んでいるところはただ慶應義塾ばかり。「慶應義塾のあらん限り、大日本は世界の文明国である。世間にとんじゃくするな」と申して、大勢の少年を励ましたことがあります。
◇塾の始末に困る 塾生の始末には真に骨が折れました。去年から出陣、奥州地方で散々戦って除隊し、国に帰らず塾に来たというような少年生がなかなか多い。血なま臭い怖い人物で一見まず手の付けようがない。私は極めて簡単な塾則をこしらえて、塾中金の貸し借りは一切あいならぬ、寝起きや食事は時間励行、落書き禁止など規則を定めた。違反者はミシミシやっつける。私は柔術も何も知らないが、剣幕や気色、体の法螺で吹き倒した。
◇初めて文部省 維新の騒乱もほどなく治まって天下泰平に向いてきたが、新政府はマダマダ後の片付けが容易なことでなくして、明治五、六年までは教育に手をつけることができない。もっぱら洋学を教えるは、やはり慶應義塾ばかりであった。ソレカラ文部省(設置は明治4年)というものができて、政府もたいそう教育に力を用うることになってきた。
義塾は相変わらず元の通りに生徒を教えていて、塾生の数は常に二百から三百ばかり。英書を読み英語を解するように教導し、古来日本に行われる漢学には重きを置かぬというふうにしたから、その時の生徒の中には漢書を読むことのできぬ者が随分あります。
◇教育の方針は数理と独立 私が日本に洋学を盛んにし、西洋流の文明富強国にしたいという熱心の趣きは、慶應義塾を西洋文明の案内者にし、東道の案内者~西洋流の一手販売、特別エゼントと仕立てたい願望。元来私の教育主義は自然の原則に重きをおいて、数と理と、この二つのものを本にして、人間万事有形の経営はすべてソレカラ割り出していきたい。
古来東洋西洋相対し、国勢の大体より見れば、富国強兵、最大多数最大幸福の一段に至れば、東洋国は西洋国の下におらねばならぬ。国勢の如何は果たして国民の教育より来るものとすれば、双方の教育法に相違がなくてはならぬ。ソコデ東洋の儒教主義と西洋の文明主義と比較してみるに、東洋になきものは、有形において数理学(数と理とを基礎とする学問という意。Physical Scienceの訳語か)と、無形において、独立心と、この二点である。
今の開国の時節に古く腐れた漢説が後進少年生の脳中にわだかまっては、とても西洋の文明国に入ることができない。日本国中の漢学者はみんな来い、俺が独りで相手になろうというような決心であった。ソンナ事かたがたで私の著訳書は古風な人の気に入るはずはない。ソレデモその書が大いに流行したのは、文明開国の勢いに乗じたことでありましょう。
◇義塾三田に移る 慶応義塾が芝の新銭座を去り三田の唯今の処に移ったのは明治四年、塾の人は方々の空き屋敷を捜して回り、いよいよ芝の三田にある島原藩の中屋敷が高燥の地で海浜の眺望もよし、塾には適当だと衆論は一決。が、これを手に入れるには東京府に頼み、政府から島原藩に上地を命じ、改めて福沢に貸し渡すという趣向にしなければならぬ。
塾の先進生総がかりにて運動するうちに、ある日私は岩倉公(具視:維新十傑の一人、贈太政大臣)の家に参り、公けに面会、色々塾の事情を話して、つまり島原藩の屋敷を拝借したいということを内願して、これも快く引き受けてくれる。(この間、東京府から諭吉に対し警察法に関する照会があり、洋書の該当部分を翻訳~提出)ソコで東京府も私に対して自ずから義理が出来たようなわけで、屋敷地の一条もスラスラ行われる。
島原の屋敷を上地させて福沢に拝借と公然命令書が下り、塾を移したのが明治四年の春。真に広々とした屋敷で申し分なし。御殿を教場に、長局を書生部屋にし、なお足らぬところは諸方諸屋敷の古長屋を安く買い取って寄宿舎を作りなどして俄かに大きな学塾になると同時に入学生の数も次第に多く、この移転の一挙を以て慶應義塾の面目を新たにしました。
◇後の要約 私の夢は至極変化の多い、賑やかな夢でした。旧小藩の小士族出の少年がヒョイと外に飛び出して故郷を見捨てるのみか、生来教育された漢学流の教えもうっちゃって西洋学の門に入り、以前に変わった書を読み、以前に変わった人に交わり、自由自在に運動して二度も三度も外国に往来すれば考えは次第にだんだん広くなって旧藩はさておき日本が狭く見えるようになってきたのは、なんと賑やかなことで大きな変化ではあるまいか。
私の生涯のうちにでかしてみたいと思うところは、全国男女の気品を次第次第に高尚に導いて真実文明の名に恥ずかしくないようにすること。仏法にてもヤソ教にてもいずれにしてもよろしい、これを引き立てて多数の民心を和らげるようにすること。大いに金を投じて有形無形高尚なる学理を研究させるようにすること。およそこの三か条です。
<筆者の一言> 「百聞は一見に如かず」。幕末の非常時に、福沢は裏口的なコネに縋ってでも、欧米渡航を三度も志した。己の私利私欲を図ってではなく、日本全体の公益に利することを願っての発心である。その異才ぶりが通じてか、当時のロシアで危うくスカウトされかかった逸話も記され、さもあろうと心中肯く。彼の一番の功績は、主義主張に捉われぬ平易で日常的な視点から「攘夷は不可」と周辺や門下生らに開国の勧めを説いたことだろう。
明治初期に出版された彼の著書『学問のすすめ』は三百万部余(当時の日本の人口は約三千万人)が売れたとされる当時の一大ベストセラーだ。「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」と、かの有名な主張を展開。「人は生まれながらにして貴賤上下の別はないが、ただ学問を勧めて物事をよく知る者は貴人となり富人となり、無学なる者は貧人となり下人となる」。即ち、学問の有る無しが人生の大筋を決定してしまう、と説いた。
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