ロシア帝国主義に抗してーなにゆえに左派はウクライナを支持しなければならないのか
- 2023年 6月 13日
- 評論・紹介・意見
- 野上俊明
ドイツの有力な雑誌「ドイツ政治・国際政治雑誌」Blätter für deutsche und internationale Politikの5月号に掲載された論文の翻訳である(一部略)。著者のセドリック・ヴェアムート氏は、スイスの政治家で、2011年から現在スイス社会民主党の国民評議会(スイス)委員を務めている。現在、マッテア・メイヤー氏とともにスイス社会民主党(SP)の共同代表である。
[本文]
2022年2月24日にロシアのウクライナ侵略戦争が始まって以来、[・・・] ヨーロッパの左派はこの侵略に対する正しい対応について論争してきた。その際、クレムリンに忠実な旧スターリン主義者を除けば、アナーキストから社会民主主義者まで、ウクライナとロシアの左派の立場は、はっきりしている。彼らはウクライナの抵抗の意義と軍事的防衛への支援についても意見が一致している。(他方)私の印象では、ウクライナの抵抗運動を支持することに消極的な(あるいは全く支持しない)ヨーロッパの左派の多くが、この戦争の「性格」を誤解しているのである。
まず、この戦争に間違いなく責任を負うロシアの体制から始めよう。プーチン政権下のロシアは、カール・マルクスの名著「ルイ・ボナパルトのブリュメール18日」にちなんで、しばしば「ボナパルティズム」と表現される。ボナパルティズム体制は、マルクス主義によれば、ブルジョアジーと労働者階級の階級的利害の間の均衡の上に成立する。選挙君主は、両者の利害を調整しようとする結び目として機能する。かくして、プーチンのもとでのオリガルヒにとっての「取引」とは、1990年代の新自由主義的な民営化の波の後、「ハード・オーダー(厳しい注文)」(グセフ)で彼らの富を確保することであった。その見返りとして、幅広い国民が、相対的な、経済的な安定を得たのである。しかし、両者とも広範な政治的な権力をプーチンに譲らざるを得ず、プーチンは自分たちに異議を唱える者をますます取り締まっていった。しかし、このような勢力配置(コンステレーション)が安定することはほとんどない。これこそまさにロシアで見られるものである。増大する内部抵抗に対して、プーチン大統領は、国内的には弾圧の強化によって、またここ数年エスカレートしている攻撃的で民族主義的な対外政策によって対抗している。ウクライナ侵攻以来、ロシアは転換点にある。ロシアの社会学者グレッグ・ユーディンの言葉を借りれば、「権威主義から全体主義体制への発展が、今ここで起こっている」のである。クラウス・レゲウィーは、少なくとも「ファシスト的な特徴」を見ている。特にプーチンとその政権が証明しようとする、ウクライナ民族がロシア民族の一部であるとする妄想を考えると、ユーディンは「ナチス的要素」まであると指摘する。モスクワ在住の知識人・活動家であるイリヤ・ブドレイツキーは、この政権を「ファシスト」と形容すべきとの立場を代表している。彼にとって、遅くとも2022年2月の侵攻開始以降、それは当初の「非政治化された新自由主義的権威主義」から、ファシスト的と言わざるを得ない「残忍な独裁主義」へと発展した。[・・・]
ロシアの立場を偽って擁護するための米国への批判
もちろん、この戦争でも、他の戦争と同じように、いくつかの対立や利害が重なっている。そしてこの場合、単にアメリカが純粋な人間性から行動したわけではないという指摘は正しい。彼らもまた、東欧での利益を追求し、少なくとも地政学的な影響力の増大を目指している。ちなみに、ウクライナの左派はこのことに幻想を抱いていない。しかし、米国とNATOへの批判は、左派サークルをロシアの立場を少なくとも部分的に擁護するようしばしば惑わしてきたし、現に惑わしている。それは、一極的な世界大国である帝国主義アメリカの影響力が縮小し、世界が多極化するのを善しとし、歓迎すべきだという主張である。半分は正しいが、あとの半分はひどく間違っている。より正確に言えば、それは誤解である。もちろん、世界政治の民主化と、それに対応する国連と世界(貿易)秩序の強化と民主的改革は、絶対に必要であり、再び優先的に取り組むべき課題であるべきだ。ただし多極化と民主化は必ずしも同じではない。多極化の代償として、ロシア、中国、インドなどで権威主義的、さらにはファシスト政権の影響力が増大するのであれば、これは左派にとって展望といえるものではない。インドの共産主義者カビタ・クリシュナンが正しく指摘しているように、「国民国家内または国民国家間の政治的対立への対応を、多極化を主張するか、一極化を主張するかのゼロサム選択肢として提示することによって、左派はその最盛期においてさえ常に誤解を招き不正確であったフィクションを永続させることになる」。しかし、このフィクションは、ファシストや権威主義者におもねるための物語や劇的な装置としてのみ機能するため、今日では実に危険きわまりない。
プーチンは、「西洋の支配」に反対する左派的で反帝国主義的なレトリックの背後に、同様に帝国主義的な主張を隠すために、この混乱を宣伝にうまく利用する方法を知っている。[・・・] 普遍的人権と国際法を西側(文化的)植民地主義として退けることによって、プーチン大統領の新しい世界秩序観は、価値自由な多極化に行きつく。ロシアの場合、これは具体的には米国に向けられた反帝国主義の名の下に、「ファシストになる」(クリシュナン)自由に相当する。あるいは、ロシア亡命社会主義運動が「西側の『平和主義者』の幻想」に対して書いているように、「プーチンが世界におけるアメリカの覇権の破壊、さらには『反植民地主義』(!)について語るとき、彼の場合、それはより平等な世界秩序の創設を意味するものではない」。プーチンの「多極化世界」とは、民主主義や人権がもはや普遍的な価値とみなされず、いわゆる大国が地政学的な影響圏でフリーハンドを持つ世界である。それは事実上、第一次世界大戦以前の国際関係システムの再興である。この「うるわしき旧世界」は、独裁者、腐敗した右翼政治屋にとって素晴らしい場所なのだ。しかし、そこは、労働者、少数民族、女性、LGBT、小国、解放運動にとっては地獄となるだろう。プーチンがウクライナで勝利しても、戦前の現状を回復することにはならない。それは、侵略と核脅迫に対する「大国の権利」を正当化する致命的な前例となるだろう。新たな軍事的・政治的惨事のプロローグとなるだろう。だから、左派にとって、価値自由な多極化はありえない。プーチンのプロジェクトは、まずは反米帝国主義ではなく、内部的にはファシスト的であり、外部的には少なくとも反動的である。
偽りの平和
残念ながら、プーチン大統領の実践は暴力のイデオロギーやレトリックとも相性が良い。[・・・]過去12ヶ月以上にわたる戦争の経験を正しく評価しなければならない。ロシア側は民間人に対する組織的なテロ戦略に依存している。 ロシア軍が抵抗をくじくために、民間の公共インフラを爆撃していることからも明らかだ。 しかし、特に、組織的な性的暴力を含む、彼らが占領した領域での犯罪に関しては、それが顕著である。今日ブッチャは、このことの最も残忍な記念碑であると考えられている。まさにそれゆえにプーチン大統領が「平和」について語るとき、ウクライナ人は誤解しないようにと警告するのである。これは我々が歴史から知っていることでもある。占領国はいつでも「平和」を目的としているが、何よりも彼らはこれを自分たちの統治を正当化するためであると理解している。プーチンの場合、明らかに独立国家としてのウクライナの終焉である。そこに住む民間人にとって、ロシア占領下の平和は本当の意味での平和ではなく、むしろ抑圧を意味する。少なくとも、過去数か月の実際行動がそれを示している。
ナショナリズムイコール国粋主義?
また左派の多くが抱く複雑な気持ちは、ロシアとウクライナの二つのナショナリズムのどちらかを選ばなければならないような印象からくる。端的に言うと、この背景には、「国民国家の国境が、どこにあるかが重要なのか」という問題がある。なぜなら、我々左派は基本的に国境の最大の擁護者ではないからである。この疑問は机上では正当であるかもしれないが、実際にはシニカルなものだ。しかし、特にウクライナとロシアの文脈において、この問題に集中的に取り組んできた人物、ウラジーミル・イリイチ・レーニンに語ってもらおう。プーチンがレーニンを嫌うのは、ウクライナとロシアの分断はレーニンのせいだと思っているからだ。まさにこの問題に関して彼の言葉を引用するのには十分な理由がある。レーニンは1922年、民族の問題と、当時のソビエト連邦におけるロシア人多数派と民族的少数派との関係について、次のように書いている。「ナショナリズム一般について、抽象的に問題提起することは問題ではない。抑圧する国のナショナリズムと抑圧される国のナショナリズム、大きな国のナショナリズムと小さな国のナショナリズムを区別しなければないのだ・・・したがって、この場合、プロレタリア連帯、ひいてはプロレタリア階級闘争の根本的利益は、ナショナルな問題に対して決して形式的な態度をとらず、抑圧された(あるいは小さな)国家のプロレタリアが抑圧する(あるいは大きな)国家に対してとる行動の必須の差異を常に考慮に入れることを要求する」。もちろん、レーニンは非常に特殊な時代に彼の考えを発展させた。特にウクライナにおける赤軍の行動に関しては、彼が主張し、行ったことの多くは、今日の知識ではほとんど擁護することができない。しかし、この引用文にある―私にはそう思えるのだが―現在でも核となる考え方は、「抑圧された国家のナショナリズムとして我々に見えるものは、そのほとんどが自決権と他の国家との平等を求めるものである。国民統合の考え方は、異なる利害を持つ社会の異なる派閥(例えば、企業家とその従業員)を一つの目標に向けて統合することを可能とするかすがいをなしている。民族自決権を要求するこの形式は、しばしば優越性の人種差別的イデオロギーを伴う、抑圧された帝国主義国家のナショナリズムと同一視されてはならない。この思想から、レーニンは民族の自決権に関する理論を展開し、多くの反植民地抵抗戦争の理念的な基礎となったのである。もちろん、この譲歩は、引用文からもわかるように、意図せずしてなされたものではない。レーニンによれば、自決権を経由する道のみが、被抑圧国の労働者階級を社会主義革命に引き入れることを可能にする。国連憲章第2条第1項に謳われている国家の平等が、世界秩序を機能させるための必須条件であると確認するのに、すべての点でレーニンに同意する必要はない。歴史の改ざんをおこなわないために、レーニン自身がこの「原則」をケースバイケースで非常に機会主義的に解釈していたことを付け加えておかなければならない。例えば、彼はグルジア民主共和国(1918年〜1921年)の創設を最初に支持したが、その後、グルジアが自分の要求に従わなかったため、赤軍に占領される結果になった。
自決権とはなにか
レーニンは 二つの面で自説を展開した。一方では、ローザ・ルクセンブルクら社会主義運動の人々と、他方では、自由主義的・保守的な世界強国およびその指導者たちと長年にわたり論争を繰り広げてきた。 後者については、たとえばリタ・アウゲスタッド・クヌッセンが、当時のアメリカ大統領ウッドロー・ウィルソンとレーニンの対立をもとに、よく追跡している。クヌッセンにとってウィルソンは、平和と不干渉としての自由の原則に基づく、自由主義・保守主義の自決権概念の創始者である。これとは対照的なのが、平等としての自由という自決権についてのレーニンの急進的な構想である。レーニンが自決によって、民主主義と社会権に基づく人間の権利―それは平和の要請に対して戦うこともできる―を意味するのに対し、ウィルソンと彼に続く自由主義・保守主義の伝統は、何よりもそれぞれの政府の主権を意味している。このように読むと、自決は必ずしも国内の権利の拡大と密接に関係しているわけではない。左派は「下からの視点」ではないと言うだろう。したがって、平和とは、すべての人にとっての包括的積極的な権利の状態ではなく、特に妨げられない「上からの」世界貿易を意味するものでしかない。それゆえ、スイスのロジャー・ケッペルのような右派のリバタリアンが、今、ヨーロッパ中でロシアとの「平和」を唱えているのには、いささかの矛盾もないのである。彼らの平和は、商品の自由な流通を回復することに尽きる。 そうすれば、「市場の見えざる手」が長期的には市民的民主主義の理想の出現を確実にするだろうが、それはまちがいなく現実によって反証されていると言える。この考え方は、スイスにおける権利の中立性という概念の背景にもある。中立性は、例えば人権の欠如など、他国の内政状況が貿易に影響を及ぼさないことを保証するものである。極端な場合、これは「ファシストになる自由」に対する中立でもある。これは、先進国のナショナリズムを示すもので、この国、つまりスイスでは、主にスイス人民党SVPに代表されるように、国家エゴイズムの繁栄モデルを支持して他国民の搾取を正当化するのに役立つものである。だから誤解されないようにいておくが、自決の要求としてのナショナリズムと、帝国主義的あるいは経済エゴイズム的なナショナリズムを区別することは、前者に対する白紙委任ということではない。しかし、19世紀のヨーロッパ、特にスイスの歴史は、(市民的)民主的な国民国家建設Nationbuilding、したがって共和制の制度と民主的な国家の出現が、常に国民という理念を経由していることを示すものである。
そして、プーチンのプロパガンダが信じさせるのとはちがって、歴史家ティモシー・スナイダーがウクライナ史に関する広範な講義シリーズで示すように、ウクライナには共和制闘争の長い伝統がある。 確かに、この国は戦争前であっても完璧な民主主義とは言えず、社会の多くの分野が寡頭制(オルガルヒ)構造によって支配されている。しかし、ともかくもウクライナ国家は鉄のカーテンの崩壊以来、民主主義の形態をめぐって奮闘しており、特に2014年のマイダン抗議活動以来、明らかに進歩を遂げている。それにもかかわらず、西ヨーロッパの民主主義国家で私たちが何度も苦渋に満ちた経験をしているように、国民運動がどのような形であれマイナスに傾く恐れがあることは基本的に真実である。例えば、いま無差別なロシア恐怖症が蔓延し、プーチンの攻撃性が「ロシア人」の永遠に続くとされる攻撃的な性格的特徴に帰するとされるとき、このようなことが起こる。あるいは、スイス駐在の元ウクライナ大使がロシアの反体制派の亡命の権利を拒否するよう要求したとき、あるいはウクライナのナチス協力者ステパン・バンデラが無批判にレジスタンスの模範として様式化されたときもである。 これらすべては断固として拒否され、批判されるべきものだ。このことは、左派にとって何を意味するのだろうか。ウクライナに関して、エティエンヌ・バリバールは「対立物の統一」、すなわち対立物の同時性という弁証法的戦略を提唱している。バリバールに倣って、この矛盾した行動は、スイスの観点からは少なくとも三つの領域にかかわる。第一に、あらゆる可能な手段によるウクライナの防衛である。 ウクライナやその他の国に対する脅威の次元を考慮すると、これには必然的に軍事支援も含まれる。「ナイーブな心情的平和主義」という選択肢はあり得ない。そして同時に左派は、いま世界的な再軍備のスパイラルと、国連に対するNATOの支配のさらなる増大との両方を防ぐための戦後秩序に取り組まなければならない。長期的には、軍事同盟の支配、ひいては強者の法権利、あるいは国際法とその制度の優位性しかありえない。この考え方こそ、スイス社会民主党(私が共同党首を務める)が、国連総会の過半数がロシアの国連憲章違反を承認した場合にかぎり、スイス軍需品を他国からウクライナへ再輸出することを許可することを提案した際に取り上げた考え方である(実際にそうなった)。この提案は、偽りの中立に関して消極的な姿勢を保つ必要も、軍事的論理に対する国際法的世界秩序の優位性を放棄することを強いられることも許さない。このことは、論理的には、スイスからのさらなる直接的な武器輸出に「ノー」を突きつけることになる。国内的には、これらは武器輸出の全般的な自由化とスイスの武器産業の強化という高い代償を払ってのみ、現在の状況下で可能になる。そして、ここで右派はすでにその内容を明らかにしている。ウクライナではなく、サウジアラビアやその他の独裁国家に拡大再輸出する可能性があるのだ。しかし、それは人権と国際法に基づくいかなる政策にも反することになる。
欧米の責任-そして欧米左派の責任
このことは、現在の戦争に対する「西側」あるいはNATOの歴史的な責任という問題に行き着く。この責任はおおくの諸点で存在し、そのどれもが左派にとってタブーであってはならない。一方では、我々(西側)左派は、東欧がプーチンに対して警告したとき、まさにウクライナのケースにおいて、何年も耳を傾けなかったことを認めなければならない。その点、私は私自身と私の党を例外とするつもりはない。これは必ずしも悪意があったわけではなかろうが、少なくともロシアをも巻き込んだ世界的なバランスが必要だという素朴な信念から行われたものである。この見方は傲慢であり無知であり、植民地主義的でさえあった。実際、東欧の人々を、自分たちの歴史の独立した主人公としてではなく、ヨーロッパとロシアの間の地政学的な緩衝地帯の住民として見てきたのである。そして、そう、これはまさに、一部の左派が、ウクライナ人よりも自分の方がよく知っていると思い込んでいるときに、いまだに持っている見解なのである。プーチンの行動は、ひとが少なくともテロとの闘いにおける同盟者とみなしている限りでは、あまりにも長い間、ヨーロッパや北米の公式政策によって積極的に無視されてきた。実際、チェチェンにおけるロシアの極めて残忍な行動以来、プーチンの手法が何であるかは明らかである。にもかかわらず、2014年のクリミア占領後も、少なくとも欧州の10カ国はロシアに武器を供給し続けていた。スイスは最近まで、民生と軍事の両方に使えるいわゆるデュアルユース商品を含む問題物資をモスクワに売却していた。
プーチン帝国主義の前史
現在のウクライナ戦争が、プーチン帝国主義の結果であることは論を待たない。それについては言い逃れの余地はない。しかし、当然前史があり、実際すべての戦争と同じようにエスカレーションのスパイラルがある。例えば、今日、ヴェルサイユ条約とその結果としての賠償金の負担が、少なくともナチスがその後利用することができたルサンチマン(怨恨)の基盤を準備するのに役立ったことは、議論の余地がない。しかし、分別のある人間ならば、(だからと言って)国家社会主義を免責しようとは思わないだろう。同様に、今回の場合でも、少なくともソ連邦の崩壊にまで遡るエスカレーションの歴史があることがわかる。その後、NATO が国連と OSCE (欧州安全保障協力機構)の役割にますます疑問を呈し始めたこと、そして世界の安全保障構造の信頼を失墜させる結果となる攻撃的な軍事作戦に、NATO 諸国が責任を負っていること、これらを本気で否定することは、イラク戦争を引き合いに出すまでもなく、ほとんどできはしない。ウクライナの左派もこのことを十分に認識している。例えば、活動家のタラス・ビルスは次のように書いている。「私はNATOのファンではありません。冷戦終結後、このブロックが防衛的な機能を失い、攻撃的な戦略を追求したことは知っています。NATOの東方への拡大が、核軍縮と共通の安全保障体制の構築に向けた試みを損なったことを私は知っています。NATOは国連とOSCEの役割を軽んじ、それらを『非効率な組織』として信用を失墜させたのです」。独立した、真にヨーロッパの安全保障の枠組み(アーキテクチャー)の見通しを発展させることが、信頼できる左派にとって中心的な課題であると思われる。
第二に、ウクライナの左派を支援する場合、「対立物の統一」という戦略をとる必要がある。それは、同時にいくつかの場所で戦われている。軍事的には、何よりもウクライナの存続、少なくとも国家としての存続のために、ヴォロディミル・ゼレンシキー政府側についているが、同時にこの国家をどのように構築すべきか、という問題についてはウクライナ政府に対して戦っている。もちろん、この2つの闘争の間には明確なヒエラルキーがある。存在しない国家をめぐる闘争はありえないからだ。しかし、戦後のウクライナをめぐる対立はすでに始まっている。残念なことに、西側諸国の利害からの圧力もあり、ゼレンスキー政権はこれに関してアンビバレンツな役割を果たしているが、それだけではない。戦争のさなかに、社会予算の削減を進め、民営化計画を推し進め、労働と労働組合の権利を攻撃している。ジャーナリストのアンナ・ジハレワは「戦争の影の規制緩和」について語っている。ウクライナのエネルギー相は、ルガノで開催された復興会議の傍らで、「戦争中は、政府として法律でより多くの権力を持つことができるのが良い点だ」と、極めてあけすけに語っている。「だから、投資家は必要なことを私に伝えればいいだけなんです」労働組合への攻撃はあまりにも進んでおり、現在では国連の国際労働機関、ILO、および欧州連合の機関でさえ懸念を表明しているほどである。
政府の迫りくる権威主義的新自由主義との闘いにおけるウクライナ左派の最も重要な要求の一つは、ウクライナの債務を帳消しにすることである。実際、ちょうど 70 年前、ロンドン債務協定が発効した。 ドイツの戦時中の債務は半分に減らされた。これによって初めて、連邦共和国は経済を再建することができたのである。ウクライナも債務免除が必要であることは間違いない。そうでなければ、軍事衝突に勝っても、債務負担が何十年もこの国を押しつぶす恐れがある。そして、それが新自由主義的な計画にとって何を意味するかは、容易に推測できる。
ロシアのオルガルヒ資本主義とスイスの金融センター
西側諸国の主要な失敗は第三に、少なくともプーチン大統領とロシアのオルガルヒとの間のマフィア複合体の台頭を助長する状況の出現を容認、あるいは促進さえしたことである。それには、何百万人もの国民が劇的な衰退を経験した旧ソ連のターボ資本主義再編が含まれており、そこから新興のオルガルヒと一部の西側エリート層が莫大な金を稼いだ。プーチンの社会モデルは、昔も今も新自由主義的な世界秩序に完全に組み込まれている。これには、ヨーロッパが自ら招いたロシアの化石エネルギーへの依存も含まれる。ナイーブなことに、ヨーロッパは電力やエネルギーの供給を市場に委ねてきた。「見えざる手」のおかげで、プーチン大統領はガスや石油供給の陰に政治を容易に隠せるようになった。この欧州のロシア依存が、プーチンが次々と「レッドライン」を越えても、もっと早く止められなかった明白な理由の一つである。結局のところ、ここで支配的な経済リベラリズムは、欧州が連帯して行動する能力を弱めていたのである。コロナのパンデミックや気候変動との戦いにおいてすでにそうであったように、ここでもまたそれが明らかである。政府の計画が少なすぎ、市場が間違った場所にありすぎることが、地政学的リスクである。この考え方に従えば、現在「中立性」を理由に阻止されているスイス製弾薬の再輸出は、確かに重要な意味を持つが、特にスイスがウクライナを支援できる決定的なテコではないことも明らかである。特にスイスにとっては重要なのは、プーチンをはじめとする権威主義政権の戦争マシンが、金融センターを通じてもはや稼働し続けることができないようにすることであろう。この場合にも、まっとうな左派には、一方では左右の抵抗に負けず、ウクライナを支援する覚悟で連合の一員となる、という対極的な戦略を持つことが必要とされる。そして一方で、欧州政治の内部矛盾を覆い隠そうとするレトリックに取り込まれることを許してはならない。ウクライナとの真の連帯には、金融・原材料取引センターの厳格な規制だけでなく、プーチン政権が資金を調達し、欧州を圧迫している化石エネルギーの管理・販売から一貫して撤退することが必要である。スイスは、恥ずかしながら、腐敗した権威主義的な政府に資金を供給するための中心的な交換ステーションとなっているが、それだけではない。問題は結局のところ、グローバルな経済秩序なのである。すでに引用したグレッグ・ユーディンも、国際的な連帯が始まるべき決定的なポイントだと見ている。「プーチン大統領が世界中の政治家やビジネスエリートを腐敗させることに成功したのは、貪欲と利己心が資本主義の基礎であるということを知っていたからである。彼は、お金ですべてが買えると固く信じている。[・・・] 我々は、プーチンに買収された他の国のすべての人々に対して行動を起こすべきである。我々は巨大な財産のための透明な国際登録機関の確立を推進すべきである。今こそ、プーチンの穢れた金によって大きく拡大した不平等と戦うための正念場なのだ。世界はようやく資本がもたらす危険に気づいている。この機会を利用して、この戦争につながった無慈悲な世界秩序を変えるべきだ」。
言うまでもなく、スイス国内の保守派、リベラル派、キリスト教民主党の各派は、この方向への実質的なあらゆる努力を阻止していることは言うまでもない。 他の国でもあまり変わらないかもしれないが、そのため、より一層左派の中心的な責任となる。
Blätter für deutsche und internationale Politik
https://www.blaetter.de
Gegen den russischen Imperialismus-Warum die Linke die Ukraine unterstützen muss von Cédric Wermuth
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔opinion13074:230613〕
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