習近平の父習仲勲はどんなひとだったか
- 2023年 6月 23日
- 評論・紹介・意見
- 習仲勲習近平阿部治平
――八ヶ岳山麓から(431)――
中国牧畜民出身の男が40年前日本留学時代にわたしの学生になった縁で、中国からときどき読書感想を送ってくる。最近、中国共産党最高指導者習近平の父・習仲勲についてのノートが届いた。そこには彼のマイノリティーとしての体験から来る痛切な思いが込められていた。
それというのは10年前、雑誌「炎黄春秋」(2013年12号)に載った「習仲勲は『異なった意見の保護法』を提案した」という文章の読後感である。この筆者は高鍇(こうかい)。習仲勲の部下で、かつて全国人民代表大会法制工作委員会民法室で仕事をし、法制工作委員会研究室の主任だった人である。
高鍇の論評を掲載した「炎黄春秋」という月刊誌について。
この雑誌は、1991年毛沢東の秘書だった李鋭や胡耀邦元総書記の長男胡徳平ら改革派幹部の支援のもと、元新華社記者楊継縄や研究者が設立したもので、おもに中国近現代史を扱っていた。従業員数僅か18名の小さな出版社ながら約500名の執筆陣を擁した。
ときに中共の過去の非人道的行為や腐敗や人権問題などを取りあげたことから、人権派・リベラル派の言論誌とみられていたが、読者は徐々に増え2015年には創設時の10倍の約20万部となった (Wikipedia)。習近平氏中共総書記になってから、記事内容や人事への干渉など嫌がらせがひどくなり、2016年7月当局に乗っ取られた形で廃刊になった。
また習近平主席の父習仲勲(1913~2002)についてもひとこと。
彼は陝西省富平県(現渭南市)に生れた。少年時代に共産党に参加、1934年、21歳の若さで陝甘寧辺区ソヴィエト政府(革命成功前の華北中共支配地域)主任になった。中共が建国に成功した1949年11月、彭徳懐を司令員とする第1野戦軍西北軍区が成立したとき、習仲勲は政治委員に就任した。
いまや、息子習近平が中国最高指導者となったので、西北軍区が置かれた青海省では西寧など主な町に習仲勲の名前が掲げられている。
1952年に党中央宣伝部長、1953年からはのちの国務院秘書長を務めたが、毛沢東の側近康西の陰謀によって1962年8月西北反党集団の一員として全職務を解任された。この事件は文化大革命の前兆の観があって、かれはそれから1978年まで、16年間も拘束されていた。
文革が終って2年後、鄧小平が最高権力を掌握すると、1982年9月習仲勲は中共第12回大会で中央政治局委員・書記処書記に復活し、さらに全国人民代表大会法制委員会第二主任を兼任することとなった。
以下は高鍇の文章の抜粋である。
わたし(高鍇)は習仲勲同志の法制委員会時代の部下として、在任期間中の習主任の演説と発言を幾度も聞いている。
法制委員会が「民法通則」を起草するための討論を始めたとき、習仲勲は言語学者の呂叔湘(1904~1998)に会議に参加するよう懇請した。彼は呂先生に文言の校閲を頼むにあたって、法制委員会の委員職員らに力を込めてこう言ったのだ。
「文章の手直しをするときには、呂先生に聞いてくれ。呂先生は言語学の専門家だ。わたしに聞く必要はない。わたしには書面語はわからないから」
彼のこのような態度に動かされて、呂教授は文章の校閲に当って彼らを真剣に援助した。
習仲勲は法制委員会の討論会でこう言った。
「誰でも自分に都合の良い言葉を受入れる、また自分に賛成する言葉ならよく聞くが、これらの言葉の多くは嘘で、追従もあれば、適当な応対もある」
「私は長い間、どのように異なる意見を守るかを考えていた。……だから、私は『異なる意見保護法』を制定するのはどうか(と考えている)。どんな場面でも異なる意見の提出が許されるとし、たとえその意見が間違っていても処罰を受けるべきではないと規定するのだ」
彼はまたこうもいった。
「私の意見は、誰もが違う意見を述べる権利を持つべきだということだ。(意見が言えるのは)人民代表だけでない。人民代表は何人いるというのか?各種の会議だけでなく、普段でも違う意見を言うことが罪を犯すことになるのか?」
仲勲同志が参加した人民代表大会(での小会議)は特色があった。つまり、彼は指導者としてかかわっただけではない、一般の代表としての態度で小グループの会議に参加した。彼は近づきやすい人で、もったいぶったところがなかった。……わたしは彼をことさらに賛美しているのではない、本当のことを言っているのだ。
次はわたしの元学生の感想である。
習仲勲の意見は憲法に根拠がある。1982年公布された「憲法」第35条は「中華人民共和国公民は、言論・出版・集会・結社・街頭行進・示威の自由がある」と規定している。この条文は今に至るも不変である。もしも「異なった意見保護法」などの法律があれば、「憲法」のこの規定はもっと実現していたであろうに。
習仲勲は自分の無知を自覚していたのだ。彼は孔子の「知之為知之,不知為不知,是知也(わかることをわかるとし、わからないことはわからないとする。これがわかるということだ)」ということばを体験し、努力実行した人物だ。
「知」を誇るのはたいしたことではない。むしろ「不知」という自覚の方が価値がある。異なった意見の必要性と重要性を認識することはさらに偉大である。
今年は習仲勲逝去20周年だ。来年は生誕110周年である。わたしはこの大人物を追悼する高鍇の一文を読んで「さらなる偉大」を待つことしきりである。
(2023・06・12)
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