歴史教育の誤りを糺す―「日本」という国号と「天皇」という称号の同時「創作」
- 2023年 8月 19日
- カルチャー
- 合澤 清
書評:『「日本」とは何か』網野善彦著(講談社「日本の歴史」第00巻2000)
前書き: 歴史の見直し―歴史教科書の『常識』を再検討する
最近になって網野善彦を再読しながら、彼の問題意識の斬新さに改めて驚かされている。
不精なため、長い間、網野学説と言えば、【〈「島国日本」=世界から切り離された閉鎖的な孤島〉という旧来の「常識」を糺して、「海民」の存在を評価し、「海国」とは海上交通を利用して広く諸外国に開かれていたことの意味であり、それ故、日本は断じて「閉鎖的な孤島」などではない】という単一的な見解にすぎないと思い込んで済ませていた。
今回改めて網野の『「日本」とは何か』(講談社「日本の歴史」第00巻2000)を読み返して、これまでの自分の読み方のいい加減さを恥じている。
歴史教科書の「常識」が戦前(あるいは少なくとも明治維新以降)の「皇国史観」のコンテクストの中で形成され、受け継がれてきたものであることは、すでに多くの歴史家が指摘しているとおりである。
しかし、いまだにこの歴史観が堂々とまかり通っていて、「不幸な受験生」たちが、これを「無批判的に丸暗記」させられ(そうしないと合格させてもらえないからだが)、挙句の果てが、その「常識」に縛り付けられて、いつの間にか自分たちの考え方(思想)のバックボーンを形作ることになっている。まさに体制側の狙い目通りである。
このことは、ただに日本史だけの問題に限らない。世界史の領域においても同じことが行われているのだ。(ここで、あえて「日本史」とか「世界史」とか、今日ではそれ自体が問題をはらむ用語を使っていることは、十分承知している。むしろ両者は「区別なき区別」(ヘーゲル)の関係にあるというべきであるが、ここでは、網野の「日本」に関する問題提起に合わせて、使っていると理解していただきたい)。
例えば、アラブ研究の第一人者、板垣雄三が絶えず強調しているのは、この「世界と地域との有機的関連」に他ならない。この視点を欠けば、アラブ問題も、今日のウクライナ問題もその真相は見えてこない。
本題に入る前のイントロとして少し関説したいのは、この書物に挟まれた「月報」の中身である。この中で、網野はヨーロッパ史が専門の樺山紘一と対談している。これがなかなか興味深いので、かいつまんで、いくつか引用紹介してみたい。
まず、「関ケ原の合戦」が行われた1600年について、こう述べている。
それまで日本列島には、「東日本と西日本という極めて性格の違う二つの社会が…存在した」。その境目である「関ケ原」での衝突は、「徳川家康と石田三成の対立以上に、地勢的、地理的に日本列島史にかなり重要な意味があった気がする」。この合戦は、「東国中心に展開するのを方向づけた戦争」であり、「戦国から太平へという転換点」であるとともに「現在まで引き継がれる東西関係が、固定、結実した時点」でもある。信長・秀吉の時代から「国民国家」が形成され始めたともいわれるが、「この合戦以後、…海を通じての列島と列島外地域の間の自由奔放な動きが抑えられていき、日本は陸中心の国家と」なった。
1600年を世界史的に見れば、1600年4月にオランダ船リーフデ号が九州に漂着、「既にポルトガル人やキリスト教宣教師がいるところへ、オランダ、次いでイギリスがやってくる」。
この年、イギリスは東インド会社を設立し、1602年にはオランダが連合東インド会社を設立している。そして、100年間続いた大航海時代はこの辺で終わる。
上の指摘は非常に面白い。一方で極めて独立的・閉鎖的な「国民国家」が形成されていく、しかし他方では、否応なしにヨーロッパが侵入してくる。この二律背反の中で、「日本」はますます閉鎖的、自閉症的に「日本的文化」の形成と「鎖国」へと傾斜していく。
先程触れた「日本史」「世界史」という区分も、「日本を一体と考える発想(単一民族国家)」「『国民国家』の歴史」が前提されてのものだということを反省すべきである。
歴史学者、川北稔の挙げる「戦後歴史学の欠陥」が、「一国史観・進歩史観(発展段階論)・ヨーロッパ中心史観・生産重視・農村主義」にあるという点も併せて考えたいと思う。
「倭国」から「日本国」へ―「日本」という国号は7世紀末に決まった
本書ではこれまで「日本史の常識」と考えられてきた色々な「通念」に対して批判的な再検討がなされている。その大本となるものは、やはり「日本」という括り方にある。そしてそれはまた「天皇」という「この国の統治者」を称する権力者の称号に結び付いている。
詳細な判読はここでは省略せざるを得ないので、是非直接この書に向かい合っていただきたいと願う。この小論では、大まかな視点のみ紹介し、コメントするにとどめたい。
≫「日本」という国号、国の名前がいつ定まり、「天皇」という王の称号がいつ公的に決まったかについては、研究者の間では大筋では一致している。大方の見解は7世紀末、689年に施行された飛鳥浄御原令とするが、それと異なる見解にしても7世紀半ばを遡らず、8世紀初頭を下らない。「日本」はこの時初めて地球上に現れたのであり、それ以前には日本も日本人も存在しない。(p.020)≪
≫「日本」という文字に即してみれば、決して特定の地名でも、王朝の創始者の姓でもなく、東の方向を指す意味であり、しかも中国大陸に視点を置いた国名であることは間違いない。そこに中国大陸の大帝国を強く意識しつつ、自らを小帝国として対抗しようとしたヤマトの支配者の姿勢をよくうかがうことが出来る…『万葉集』の中で「日の本」がヤマトの枕詞となったのは一例しかなく、しかもそれは「日本」という国号の決まったのちであり、岩橋小弥太の説は成り立ちえないであろう。この国号はまさしく「分裂症」的であり、中国大陸から見た国名であった。参議紀淑光の疑問はその点を的確についたのであるがそれより前、延喜4(904)年の講義の際にも、「いま日本と言っているのは、唐朝が名付けたのかわが国が自ら称したのか」という質問が出たのに対し、その時の講師は「唐から名付けたのだ」と明言している(『釈日本紀』)。(pp.93)≪
以上を要約すれば、中国の史書に倣ってつくられた国史(『日本書紀』)が、「日本国」及び天照大神以来の万世一系の「天皇」家を権威づけるために捏造されたものであること。このことに関しては、すでに多くの研究書がある。「天皇」という称号もここに初めて用いられるようになったこと。それまでは「大王」という称号であったこと。これらはすべて、大帝国(唐)への対抗上つくられたということ。それゆえに、中国の皇帝への公式文書では、これ以後も(天皇ではなく)「大王」と名乗っていたこと。「日本」という国名と「天皇」という称号が不可分の関係にあること。またそれは「天武」以後に制度化されたことであり、それ以前からあったがごとく書かれた「教科書」は、間違ったことを教えていることになる。
私自身、これらの事柄については、以前にも小論をちきゅう座に掲載させてもらったことがあるので、ここで繰り返すことはしない。
ただ、後述との関連で注目したいのは、 李進熙の「古代朝・日関係史研究の歩み」での次の重大な指摘である。
1890年〈明治23年〉に持ち上がった「日本先住民論争」に関して、 李進熙は「 その基底には『優秀な大和民族が野蛮で低劣な先住民を追い払ったのだ』という前提があった-朝鮮は『野蛮で無礼な国』であり、『優秀で勇敢な大和民族』の属国であるとの『征韓論』に関連」しているという。
さらに驚いたのは、有名な「広開土王(好太王)陵碑文」-4世紀末に倭国軍が高句麗まで攻め入ったというものーが、日本の参謀本部によって碑文の一部が改竄されていたということである。
「1889年〈明治22年〉古代における朝鮮支配を立証する朝鮮側の金石資料として、広開土王(好太王)陵碑文が初めて『会餘録』第五輯に発表された-帝大教授・菅政友、那珂通世、三宅米吉が論文を発表-その資料を学会に提供したのは旧参謀本部だった」。改竄の事実は今や学会でも認められつつあるという。
日・朝関係史から日本の古代史を見直すという立場はもっと検討されてしかるべきであろう。
「壬申戸籍」―天皇家はなぜ姓を持たないのか
「壬申戸籍」とは耳慣れない言葉である。試みに、手元の辞書をめくってみると、「壬申にあたる年に作られた戸籍」とあり、関連して二つの説明がある。第一は、延喜2(902)年に作られた戸籍。第二は、明治5(1872)年作成された最初の全国的戸籍。身分によらず、居住地による登録で作られたが、士族・平民・新平民などの族称を残していた、というものだ。
「ヤマト」というごく狭い範囲の古代王権が、先にみたように「日本国」を名乗る。その時、(日本)列島には、まだそんなものを全く認めていないあまた多くの勢力が存在していた。北海道の「蝦夷」、あるいは関東から東北にかけての諸部族、さらには九州の「隼人」「熊襲」や沖縄(琉球人)。だからこそ、「日本人」は、そういう人々との接触の際には、自分たちのことを「和人」とか「大和」と称したのである。
このごく限られた領域の「ヤマト」王朝が、唐の制度に見倣って「文書主義」をその統治機構に取り入れる。「戸籍制度」の始まりである。
≫「日本国」の当初の国制―「律令制」は、この国家がそれを支配下に置いた地域社会に徹底して実現しようとする強い国家意思を持っていたためもあって、実際には10世紀以降には大きく変質して、ほとんど機能しなくなってからも…支配機構には影響を及ぼし続けた。戸籍の制度もその一つということができる。「日本国」は…班田制を実現するために、6年に一度、その支配下にはいった人民のすべての氏名、姓、実名を記載した戸籍を作成し、調・庸などの課役賦課の台帳として、性別、年齢、一人一人の身体的特徴までを書き上げた計帳を毎年つくったのである。…一般の人々の中には、この戸籍の作成によって、はじめて氏名・姓を定めた人が多かったと考えられる点である。…この氏名・姓は建前の上で天皇から与えられることになっていた。(p.115)≪
≫明治になって壬申戸籍以降、戸籍の制度は完全に復活し、…天皇家を除く全人民について、これまでの氏名・苗字にあたる姓と実名とが記載されることになり、…敗戦前、「大和民族」の全人民は天皇の子孫と言われたように、氏名・姓を天皇が与えた「日本国」の当初の制度が、ここにもなお潜在的に生きていると言わざるを得ない。(p.118)≪
「日本国民は皆、天皇の赤子である」と言われた時代があった。われわれはみんな天皇の子供だ、という意味であり、子は親のために喜んでその命を投げ出すものだ、と続く。
志願を強制されて、大切な命を「特攻」に捧げたり、戦場で死ぬときには「天皇陛下万歳」を唱えるべしと教えられたり…、これらはすべてその淵源をここに持っていると言える。
つまり、「日本国」も、そこに居住するわれわれ人民も、すべて天皇の所有物であり、その生殺与奪の権は天皇が握っているということになる。
戦後、「天皇裕仁」がマッカーサーに、「沖縄は好きなように好きなだけの期間使ってください」と約束したそうだが、まさにそういう意味なのだ。沖縄の悲劇の一因もここにある。
「日本海」は大きな「内海」だった
この本の初めに掲げられたカラーグラビア(折り返し2ページ)に大陸から見た「日本」列島の地図写真(環日本海諸国図)が載っている。
確かにこれを見れば、網野の主張するように、海洋交通の重要性がもっと強調されるべきだということが理解できる。普通に「日本海」と呼び習わされている海は、巨大な「湖」、あるいは入り江に見える。太古の世界で、「日本」列島が大陸と地続きであったことが十分うなづける。
ただ、正直なところこの網野史観には一抹の疑問が残る。
それは、「海洋交通の重要性」の見直しということと、「日本」が、大陸その他から孤立して、孤島の憂き目にあっていたはずはない、という「開かれた日本」の主張とは必ずしもマッチしないのではないだろうか、と思うからである。
日に数本の電車しか通わない閑村の駅と、10分おきに電車が通る東京の駅とでは、同じく「開かれている」といってもその違いは「質的な差」になるであろう。
紀元前2世紀前半の前漢時代に、武帝の命令で西域の大月氏に使節として出向いた張騫が、13年もの労苦を経て帰国したからといって、それで武帝の漢が西域と「開かれた」文化交流をしていたとは到底言い切れない。
この本で網野が投げかける問題は多岐にわたり、しかもいずれも非常に重要な内容のものである。しかし、今回の書評のような小論で、それらを網羅的に扱うのは到底無理である。次善の策としていくつかの主な問題を簡略に紹介するだけで、ご寛恕いただくことにしたい。
重要問題の登録(ペンディング)
まず「ヤマト中心史観」について触れたい。この史観は、先ほど来述べている「日本国」や「天皇」の出自と重なっている重要な問題である。
網野によれば今までの歴史は、「大和王朝」勢力による列島制服の過程を、「文明化したヤマト」による「野蛮な国々〈民族〉」の制服というように描き出してきた。その延長線上に、次のようなまことしやかな「通念」が作り上げられた、という。
≫未開な後進国東国」の誤り…これまで鎌倉については、頼朝がここに幕府を置くまでは「海人野叟」、漁撈に携わる「田舎者」のほかに住む人もいなかったと『吾妻鏡』自体が記述しており、草深く未開発な「後進地域」という通念を背景に多くの研究者もこれを「常識」としていた。しかし近年の発掘成果や文献資料の再検討を通じて、この「常識」が全くの誤りで、頼朝の事績を際立たせるために『吾妻鏡』の記述者の作り上げた虚像であることが明らかにされた。鎌倉は三方を山で囲まれた要害の地というだけでなく、鎌倉郡の郡衙の所在地であり、前方に開けた海はすでに安定した海上交通の展開していた太平洋への道に通じ、早くから要津として都市的な場が展開していたのである。(p.195)≪
≫江戸についてもこれと同じ誤った常識が今も広く通用している。…こうした「神話」はすでに江戸時代からあり、豊臣秀吉が「江戸という草深い武蔵野の一隅に、東海五か国をおさめてきた街道一の弓取りを追い」やったのだとされ、さらに家康によって「荒れ果てた葦原」が大都市になったと、「家康の卓見」を強調するために「荒野の中の貧しい漁村」としての幕府以前の江戸のイメージが広く定着していたのである。しかし…江戸はまさしく「江」の「津」、「湊」にほかならず、関東の河海の世界、「常総の内海」と「武蔵の内海」を、既に古くから安定した海上交通の道であった太平洋の航路に結びつける要津として、遅くとも平安後期には、すでに都市的な集落となっていた。このように東国の交通の要衝であるとともに、太平洋を通じて東国を広い世界に結びつける窓口であった江戸については、鎌倉期には江戸氏、室町期には太田氏、戦国期には後北条氏がそれぞれ重要な拠点としており、家康がこの地を新たな「東国の都」と定めたのは、そうした江戸の都市としての長い伝統、東国支配の要となりうる条件を十分に認識していたが故に他ならない。(p.196)≪
このことはまた、「穢多」「非人」という差別語や、被差別部落の存在にも絡んでくる。また、「日本」は「瑞穂国」であり「日本は農業社会」であったという「常識」にも結び付く。その根底には「百姓=農民」という全くの虚偽意識が実証されないまま作り上げられたこととも関連する。
これらはいずれも大問題である。ここではあくまで問題のペンディングということで済ませたいのであるが、次の引用部への注意のみを喚起しておきたい。
≫「日本国」成立の当初、律令の制度通りに全人民に水田を与えるためには、水田は全く不足していた。そして調・庸の多様な品目から推測されるように、製塩を主たる生業とする「百姓」をはじめ、農業以外の生業を営む人々、海民や山民、樹木に関わりを持つ人々、そして商人、工人等々、多様な人々が列島に生活していたことは言うまでもない。…延喜2(902)年3月12日の御厨整理令で「山河池沼』を「禁制」されることによって「生産の便を失う」と言われた「百姓」が、決して「農人」などではなく、海民、山民等の人々だったことは明らかと言ってよかろう。(p.279)≪
漢和辞典には、確かに「百姓」が「農民」であらねばならないという意味の定義はどこにもない。むしろ普通に、「百姓」とは「庶民」一般である。
付論:網野史観と異なる意見の紹介
一応、異論もあるため、『聖武天皇と仏都平城京』吉川真司著(講談社「天皇の歴史02」2011)から、次の引用をしておきたい。
≫これまで全く注目されてこなかった文献史料…鎌倉後期の東大寺僧凝然(ぎょうねん)の『三国仏法伝通縁起』が引く、7世紀の入唐留学僧道光(どうこう)が著した『依四分律抄撰録文』の序文…そこには「戊寅(ぼいん)年九月十九日大倭国浄御原天皇大御命勅大唐学問道光律師撰定行法」とある。戊寅年(678)に天武天皇の勅をうけて道光が撰した行法の書、といった意味であろう。「浄御原宮」が命名されたのは朱鳥元年(686)、「律師道光」が賻物(ふもつ)(死者への贈り物)を下賜されたのは持統八年(694)であるから、序文はこの間に書かれたもの…興味深いのは、「大倭国浄御原天皇」という表記である。「大倭国」は「浄御原天皇」にかかっており、すぐ下の「大唐学問」と対をなしているから、日本全体を指すものと解した方が妥当なようである。とすれば、686~694年には、天皇号はあったが日本国号はなかったことになる。…日本国号は大宝律令とともに定められた、と見た方がよさそうである。(pp.51-2)≪
≫持統太上天皇は大宝二年(702)12月に逝去…飛鳥岡で荼毘に付され、天武陵に合葬された。天皇が火葬されるのは史上最初のことで、仏教の強い影響がうかがわれる。(p.52)≪
おわりに
実はこの小論を最初に思い立ったときは、最近の中国の古代社会、シュメール(メソポタミア)史、などの関連本とと見比べながら日本古代史を読み返してみたいと考えていた。やり始めた途端に、そのあまりに大きすぎる視野に吾ながら驚き恐れ入ってしまい、結局、こういう書評という形をとった次第である。また、この書評は、8月15日の「敗戦の日」に間に合わせたいと考えて90%以上書き上げていたのだが、不注意から、パソコンの原稿が一瞬のうちに消えてしまい、意気消沈しながらやっと書き終えた代物です。不手際が多々ある点はお見逃し下さい。
2023年8月17日記
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〔culture1211:230819〕
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