世界のノンフィクション秀作を読む(21)エドガー・スノーの『中国の赤い星』(筑摩書房刊、宇佐美誠次郎:訳) 中国共産党の実態を初めて世界に紹介した歴史的著作(上)
- 2023年 8月 26日
- カルチャー
- 『中国の赤い星』エドガー・スノーノンフィクション横田 喬
上記の著作は米国のジャーナリスト、エドガー・スノー(1905~1972)の手で日中戦争が本格化した直後の1937年秋に出版された。彼は前年6月、外国人として初めて中国陜西省北部のソヴィエト地区に入り、毛沢東や周恩来ら中国共産党幹部と起居を共にし、ありのままの姿をつぶさに観察した。中国では1949年に共産党政権が成立。その後の転変は周知の通りだが、この著作は、いわば中国共産党の原点ともいうべき草創期の姿を知る上で重要な手がかりを与える。
◇紅都への道 「我々の肉を食う地主を打倒せよ!」「中国を日本へ売る漢奸を打倒せよ!」「中国革命万歳!」「中国紅軍万歳!」
私が紅区での最初の一夜を過ごすことになったのは、肉太の文字で書かれたこれらのやや騒々しい布告の下でだった。私たちはその日には安塞(中国革命の聖地:陜西省延安市の一画)に着かず、夕方、辺鄙な小さな村にやっと着いた。五、六十人の農民と物見高い子供たちが私のロバ一頭の隊商を迎えようと押し寄せてきた。
私の世話をする貧民会分会主任は二十歳そこそこの青年で、私を歓迎し、非常に親切にしてくれた。彼の世話で私は村の集会所で一泊した。彼の話では、近くには白匪(農民の暴動を鎮圧すべく国民党が設置した「民団」)が出没し、私の身の安全を保証し難いという。主任が手配した一青年の案内で数時間後、黄河の支流・延水の対岸にある安塞に着いた。
◇周恩来との会見 まもなく立派な黒いヒゲを蓄えた細身の青年将校が「ハロー」と英語で話しかけてきた。高名な紅軍指導者の周恩来で、翌日、私と会見して冒頭、こう言った。「あなたが中国民衆に友情のある信頼できるジャーナリストで、本当のことを言ってもよい、間違いのない方だという報告を受け取りました」「あなたは見たことは何でも書いてかまいません。あなたがソヴィエト地区を調査するためにはあらゆる援助を与えましょう」。
明らかに私に関する当「報告」は西安の共産党の秘密本部から来たのである。共産党は上海、漢口、南京、天津を含む中国の全ての重要な都市と無線連絡を持っている。白区の都市で共産党側の無線設備をしばしば押収したにも拘らず、国民党は紅区との連絡を長期にわたって断絶するのに成功しなかった。周の言うところによれば、紅軍が白軍から拿捕した装置で無線部を初めて設けた時以来、国民党は紅軍の暗号を解くことができなかった。
周の無線所は彼の司令部から少し離れた処にあり、彼はソヴィエト地区のあらゆる重要地点とあらゆる前線とに連絡を保っていた。総司令官・朱徳と直接連絡を持っていたが、当時朱徳の主力は西南方数百キロの四川・チベットの国境に駐屯。西北の臨時ソヴィエト首府・保安には紅軍の無線学校があり、約九十人の生徒を専門技術者として訓練。彼らは南京、上海、東京の毎日の放送を捉え、ソヴィエト中国の新聞にニュースを供給していた。
周は小さな机の前に蹲り、無線電報に目を走らせた。紅軍の「東部戦線」たる山西省側の黄河に沿ったあらゆる地点に駐屯する部隊からの報告だった。彼は私のために旅程を作成し始め、九十二日の旅行の様々な項目を記入した紙を私に手渡してくれた。彼は毛沢東や他の要人がいる臨時首府への私の出発の手配もしてくれた。
会話の間に私は周を深い興味をもって詮索した。彼は中国では多くの共産党指導者と同じく伝説同様の人物だったからだ。彼はすらりとした方で、中背やせ型の屈強な体格。長い黒いヒゲにも拘らず、見たところ子供みたいで、大きな温かそうな深く窪んだ眼を持っていた。確かに彼には一種の魅力があった。
それははにかみと、個人的な魅力と、指導への自信ある悠々たる態度との奇妙な組み合わせから出てくるようであった。彼の英語はやや口ごもった調子だったが、かなり正確で、五年間も英語を使わなかったと言った時にはびっくりした。
◇来歴(上) 周については彼の一旧学友と、外国人が中国「国民革命」と呼ぶ1925~1927年の大革命の時代に彼と一緒に工作した国民党の人々から少しは聞いていた。しかし今、当人に会って私はもっと多くのことを知ることができた。彼は特に一つの理由から私の興味を引いた。彼は確かに中国の全ての人物のうち最も珍しい人であり、その行動が完全に知識と組み合わされた純粋の知識人だった。彼は反逆児に転向した学者であった。
彼はある大官の子弟で、祖父は清朝の高官。父は声望篤い教師で、母もまた非凡だった(実際に近代文学の愛好者で、読書家の女性だった)。周恩来自身は小さな子供の時から優れた文学的才能を発揮し、学者としての生涯を運命づけられているようだった。が、国民的覚醒時代に教育された同時代人の多くと同じく、彼の文学への関心は他へ方向を変える。
第一革命(1911年)後、中国の純真な「文学革命」が真剣な成長を遂げ始めた時、やがて中国を根底から揺すぶった、あの社会革命運動に周恩来は身を投じる。彼は英語を学び、アメリカのミッション事業たる天津の南開中学~南開大学で「自由」教育を受けた。
次いで、日本の「二十一箇条要求」~袁世凱の帝政を復活しようとする陰謀。全中国にわたる反乱の開始。民主主義と社会変革の運動~1919年の学生の暴動が起こる。学生の指導者として周は逮捕され、一年間天津で投獄された。彼と一緒に投獄された愛国者の中には天津師範学校の急進的な女学生がいて、彼女は現在彼の妻であり、同志である。
釈放後、周はフランスへ渡る。第一次大戦後の共産主義勃興の機運に影響され、彼はパリで中国共産党の組織を援助し、かつ中国で作られた組織の創立者となる。パリで二年間学び、英国に数カ月滞在、ドイツで一年間勉強した。1924年、彼は中国へ帰ったが、既に有名な革命組織者として任じ、当時国民革命を準備していた孫文に広州で直ちに荷担した。
◇来暦(中) 二十六歳で周は広州の政界の指導的人物として、有名な黄埔軍官学校の秘書となり、当時現地のロシア人主席顧問で現ソ連極東軍司令官ブリュッへル将軍の腹心となった。当時、この軍官学校長だった蒋介石にとって、この若い共産党員は禁物だった。が、それにも関わらず、蒋は彼の急進的士官候補生たちに対する大きな影響力ゆえに、彼をこの軍官学校の政治部主任に任命せざるを得なかった。
1925~27年、国民党と共産党との連合推挙で蒋介石は総司令官となり、北伐が進行。周恩来は暴動の準備をし、国民党の上海占領を援助するよう命ぜられる。正式の軍事訓練も受けず、労働運動の経験も少なく、いかに暴動をやるかを教える手引きもない。二十八歳の彼は革命的決意と強力なマルキシズムの理論的知識で武装しただけで、上海に到着する。
三か月のうちに共産党は三十万人の労働者を組織化し、ゼネスト指令が可能になる。が、暴動は実現せずに失敗する。武装もなく訓練も受けず、労働者たちは「都市を占領する」にはどうすべきか、判らなかった。彼らは経験によって、労働者の武装せる中核体の必要を学ばねばならなかった。そして、それを軍国主義者が彼らに提供した。
◇来歴(下) 旧式な北洋軍閥は多数の斬首を行っただけで労働運動自身の阻止はできなかった。周恩来と上海の指導者らは五万人の糾察隊の組織化に成功。フランス租界で建物を手に入れ、二千の幹部に対し隠密裏に軍事訓練を行った。上海に密移入されたモーゼル銃で、三百人の狙撃者の「鉄団」を訓練。これが上海労働者の持った唯一の武力だった。
1927年3月21日、共産党員はゼネストを指令。上海の全工業は停止~奮い立った六十万の労働者は革命のバリケードで勇戦。警察や兵器廠、警備隊を占領し、五千の労働者が武装され、「人民政府」を宣言。それは近代中国史上、最も注目すべきクーデターだった。
上海入りした蒋介石は戦闘の勝利を確認するが、一カ月後に豹変。右翼クーデターを断行し、急進派の殺戮を始める。有罪人筆頭は、かの危険な青年・周だった。以来、国民党亡命者としての暮らし~やがて中国に紅旗を掲げる第三革命指導者としての生活が始まる。
上海暴動で周恩来と密接に協力してきた指導者たち十余人が捕えられ、処刑された。
「上海虐殺」の代償は五千人の生命と推定されている。周恩来も蒋介石配下の第二師団の手に捕えられ、死刑を宣告された。が、たまたま師団長の弟が黄埔軍官学校での教え子だったので、九死に一生を得、周は逃亡することができた。彼は武漢~南昌と逃がれ、中国紅軍の歴史的発端である、かの八・一暴動を援助する。次いで華南の大海港・汕頭へ赴き、共産派の労働者を指導。それから広州へ行き、かの有名な広州コミューンの組織をこしらえた。1931年、江西と福建のコミューンに入り、紅軍政治委員に任命される。
周は狂信者に違いない、と私は秘かに思っていた。が、そうした面影はどこにも見当たらず、彼は私に冷静な論理的かつ経験主義的人物という印象を与えた。彼の穏やかな口ぶりは、共産党員を「無知の匪賊」「略奪者」とする蒋介石~国民党の宣伝や色とりどりの形容詞によって中傷した彼の過去に対比して、奇妙な対照を示した。若い頃の彼は美貌で、少女にも見まがうしなやかな姿だった、と言われている。
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