さて、シュミットです ~カール・シュミット「レヴィアタンーその意義と挫折」を読む~
- 2023年 8月 31日
- スタディルーム
▼まえがき▼
カール・シュミットの「ユダヤ・イデオロギー」批判は、あくまでに法学的・哲学的・思想的なものであって、人種差別やナチスへの加担といった、一般的に流布されているシュミット像とはまったく違う内容のものであることを証明しようとしたミニ・エッセイです。
その証明の過程で近代自由主義の根本をなす考え方を抽出することに成功しました。国内的には差別の拡大を助長する発言の自由=いわゆるヘイトスピーチの問題があり、国際的にはグロバール経済の拡大によって富が一極集中し先進国・発展途上国を問わず中間層の破壊が進み民主主義が機能不全に陥っている現状があります。これらはいずれも自由主義が席巻し民主主義が後退することによって引き起こされている弊害です。近代自由主義の克服を課題として掲げたカール・シュミットの学問の先駆性が問われるべき時期に入っているというのが私の根本認識です。
「さて、シュミットです」 第1章
まずは、ホッブズの『リヴァイアサン』の扉に掲げられた銅版画をご覧下さい.
カール・シュミットによるこの画像の説明です。
――その画はLeviathanの題、「地上の権力には是と並ぶ者なし」というヨブ記四十一章二十一節の標語とともに、一見して異様な印象を与える。無数の小人によって合成された巨人が右手に剣、左手に牧杖をもち、平和な町を上から守っている。(略)
衝撃的題目をもった本は内容以上に有名になる。『レヴィアタン』もその一つであるが、この扉絵もまた同書の衝撃力に貢献した。
(長尾龍一訳カール・シュミット「レヴィアタンーその意義と挫折」=福村出版1972年刊『リヴァイアサン』所収)
途中全部省略して、「レヴィアタンーその意義と挫折」の結論はこうなります。この書の結びの部分です。
――彼が(注:ホッブズが)現在の我々になおもたらしうる洞察と寄与は何か。それこそあらゆる種類の間接権力に対する闘争である。
――今こそ我々は彼の論争の力をありのまま理解し、その思惟の内的誠実を理解する。そして人間の実存的不安を恐れることなくつきつめた不撓の精神と、間接的諸権力の曖昧な使い分けに対する真の戦士の姿に愛情を捧げる。
――彼こそ我々に偉大な政治的熟達を教える真の教師である。先駆者の孤独、自国に受け容れられない政治思想家に附き物の誤解、他人を通すために扉を開くものの報われなさ、それにもかかわらず彼は万世の知者たちの不滅の共同体の一員であり「古代の叡智の唯一の回復者」である。さればいざ、幾百年をこえて彼に呼び掛けよう、
「ホッブズよ、汝の教えは空しからざりき」と。
(同、カール・シュミット「レヴィアタンーその意義と挫折」)
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「さて、シュミットです」 第2章
Leo Strauss (1899-1973)
シュミットは『リヴィアタン』においてユダヤ人の哲学・法学を厳しく批判しています。ところが、シュミットがもっとも評価する同時代の学者が、ユダヤ人のレオ・シュトラウスなのですね。そしてこのレオ・シュトラウスもまた、反ユダヤ思想の持ち主であるシュミットを同時代の学者の中では一番評価している。
いったい何がどうなっているのだ、わけがわからん・・と、ふつうは思いますよね。しかし、事実なのです。この不可思議、もつれた糸をときほぐすのは容易でないです。
竹島博之著『カール・シュミットの政治──「近代」への反逆』 には、二人の関係がこんな風に対照的に記述されています。
~~ シュトラウスが自由主義の克服という課題に取り組んだのは、自由主義が根本的にユダヤ人問題を解決できないという認識があったからだ。しかし、シュトラウスが一時的に加担したシュミットの自由主義克服の試みは、皮肉にも、反ユダヤ主義を積極的に扇動するものであった。
~~ 一九三八年のシュミットの『レヴィアタン』は、キリスト教の伝統の中で解釈された「ビヒモス」像との対立関係から「リヴァイアサン」像を規定する。革命や無政府状態といった、いわゆる自然状態を象徴する「ビヒモス」は、平和を強制する国家秩序の象徴たる「リヴァイアサン」と対立するものだと考えられる。そして「リヴァイアサン」の神話的迫力は、対抗神話である「ビヒモス」から獲得されるのだとされる。ところがこの「ビヒモス」は、ナチ・イデオロギーへの迎合もむろん影響していようが、ナチス期のシュミットによってユダヤ性に還元され、ユダヤ人が内乱や国家の分裂をもたらす象徴に仕立てあげられることになる。このような認識の延長線上で、シュミットは、国家の多元的分裂をもたらした中立化の動因をスピノザ、メンデルスゾーンといったユダヤ人に帰せた精神史を描きだす。
~~ つまり、神話に依拠したシュミットの政治理論は、シュトラウスの問題関心である「反ユダヤ主義」を克服するどころか、逆に「反ユダヤ主義」を積極的に唱えるに至ったのであった。
ふたりの関係をまとめると、シュトラウスはユダヤ人問題を解決するために自由主義の克服という課題を追求した。シュミットは自由主義の克服という課題を追求する結果として反ユダヤ主義に到達した。自由主義の克服という課題を追求する過程において、両者はホッブズの研究に向かった。そしてホッブズの研究の過程で両者は本質的な対話を交わした。そしてその両者の対話はいまなお誰も乗り越え不可能な高みに宙づりになっている。こういうことかと思います。
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「さて、シュミットです」 第3章
シュミットの反ユダヤ主義はほんとうに複雑微妙です。シュミットがナチスの桂冠法学者の地位から脱落したのは、「口先だけの反ユダヤ主義者である。実質的にユダヤ人を擁護する理論を展開し、私生活でもユダヤ人を多数擁護している」という批判が公然とナチスの御用雑誌から巻き起こり、この嫌疑はナチス全盛時には致命的なものでしたから、単なる失脚ですまず、一時は強制収容所入りのおそれもシュミットにはありえました。絶体絶命のピンチを救ったのはゲッペルスです。ゲッペルスは、「たとえ証拠があっても、私の保護下にあるシュミットをこれ以上批判するのは許さない。これは私への侮辱である」という趣旨の弁を手紙で雑誌の担当者に伝えてシュミット批判を封殺しました。ナチス第二位の権威の命令によって、証拠があろうがなかろうが、シュミットのユダヤ人擁護の嫌疑はこれ以上論ずべからずというのが、ナチス体制化の法律となった。そうゆうわけでシュミットは強制収容所入りを免れ、公職活動の自粛、つまり単なる失脚で済んだのですね。
『レヴィアタン』におけるシュミットの反ユダヤ主義は、シュミットの信念から出ているもので、単なるナチズムへの迎合とか、人種差別主義の表明とかではないと私は思っています。なぜなら、この『レヴィアタン』における反ユダヤ主義の議論は、その第一の読者として、尊敬するユダヤ人学者レオ・シュトラウスに向けられているからです。ナチスの有象無象なんかは相手にしてない、高次の論争の中から発せられている。シュトラウスとの孤高の対話的関係の中から生み出された言説としてそれはある。だからシュミットの反ユダヤ主義は一筋縄では解けないのです。そういう基本認識がリュータースなどには欠けている。能力不足でそういうことまで気づかないのなら仕方ないが、気づいていて何も言わないのなら不誠実です。リュータースはナチスのシュミット批判に謙虚に耳を傾けるべきだったのです!?
シュトラウスの自由主義批判について、未詳でしょうから、ご紹介します。竹島博之著『カール・シュミットの政治──「近代」への反逆』からの孫引きによる引用です。
~~ 自由主義国家は、ユダヤ人市民を「差別」しようとはしない。(しかし)自由主義国家が、個人や集団によるユダヤ人「差別」を憲法上防止できないこと、そして防止する意志もないことは、またそれと同じくらい確かなのだ。こうした意味での私的領域の承認は、私的な「差別」を許容し、保護し、その結果、事実上「差別」を助長する。自由主義国家は、ユダヤ人問題に解決策を提示できない。なぜなら、その解決のためには、あらゆる種類の「差別」を法的に禁止することが必要になるのだが、これは私的領域の廃棄であり、国家と社会の区別の拒否であり、つまりは自由主義国家の破壊を意味するからだ。 (シュトラウス『スピノザの宗教批判』英語版への序文:高木久夫訳:『スピノザーナ』第一号、1999年所収)
方向は逆ですけれども、シュミットとシュトラウスは自由主義の克服という問題意識からそのホッブズ論を戦わせ、これまたスピノザ評価を競った。彼らの対話に深く耳を傾けることが、橋川文三の「絶対者の探求と政治」という問題提起を受け止めることにつながるのではないかと思います。
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「さて、シュミットです」 第4章
Thomas Hobbes (1588-1679)
『レヴィアタン』の中におけるシュミットの反ユダヤ主義について述べようとしただけなのに、シュトラウスの話題まで自分で振ってしまって収拾がつかなくなりそう。
さて、『リヴィアタン』ですが、この書物は、ホッブズが国家をリヴァイアサンという神話的イメージをかぶせたことの、後世に与えた影響を考察したものであると言えます。
ところが、不思議なことにホッブズの『リヴァイアサン』には、このリヴァイアサンという言葉は本文の中でたった3回しか出てこない。書物の表題と銅版画のイメージがあまりに強烈だったために、ホッブズと言えば、即リヴァイアサンというイメージが呼び起こされるようになった。そもそもなぜリヴァイアサンなのかという問題があります。
二度目のリヴァイアサンへの言及は、ホッブズの書「第二編国家論第十七章」でなされています。
~~ 人びとを、外敵やかれら相互間の侵害から守り、またそれによって、人ひとが、みずからの労働と土地からの収穫物でその生命を支え、快適な生活を送ることができるように保護してやれる能力をもった共通の権力を樹立するための唯一の道は、かれらのあらゆる権力と力とを、多数決によって、すべての意志を、一つの意志とできるような一人の人あるいは合議体に与えることである。
ホッブズによれば、「各人対各人の信約によってつくられる、まったくただ一つの人格のなかへの、かれらすべての真の統一」が必要なのである。そしてその信約は、あたかも、各人が各人にむかって、「あなたもわたくしと同じように、あなたの権利をかれに与え、そのすべての行為の権限を認めるという条件のもとに、わたくしは、みずからを統治する自分の権利を、この人あるいはこの合議体に与え譲渡する」と宣言するかのようなものでなければならないとされます。
(ホッブズ著『リヴァイアサン』水田洋訳)
この後に「リヴァイアサン」の語句が使用されます。
~~ このこと(注;各人対各人の信約)がなされると、この一人格に統一された群衆は、コモン-ウエルス――ラテン語でキウィタス――と呼ばれるのである。これが、かの偉大なリヴァイアサン、いやむしろ(もっとうやまっていえば)、あの可死の神の生成であり、われわれが不死なる神のもとで、[国内の]平和を維持し、[外敵から]防衛されているのは、この可死の神のおかげなのである。
(同、ホッブズ著『リヴァイアサン』)
つまり、国家=コモン-ウェルス=キウィタス=リヴァイアサン=可死の神、ということであって、リヴァイアサンとは国家の仮のひとつの名称(名づけ)でしかなかったようです。
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完結編「さて、シュミットです」 第5章
Carl Schmitt(1888-1985)
シュミットの「レヴィアタンーその意義と挫折」(1938年)は、次のような章立てを持っている。
緒言
第一章 レヴィアタンとは何か
第二章 ホッブズの用例
第三章 神・人格・機械
第四章 国家の中立化
第五章 主権的人権の死亡
第六章 機械の崩壊
第七章 象徴の失敗
第一章から第四章まで、シュミットは、レヴィアタンの生成を描き、圧縮した鋭利な表現を駆使してその本質を分析している。第五章から第七章までは、表題の「死亡」「崩壊」「失敗」という否定的な語句の選択でもわかるように、レヴィアタンの没落の過程を描写している。そしてこの没落に手を貸し、最終的にレヴィアタン殺害にまで持っていった勢力こそ、シュミットの考えによれば、誰あろうスピノザを筆頭とするユダヤ人の一団なのである。「レヴィアタンーその意義と挫折」は、このような意味で本質的に「ユダヤ・イデオロギー」批判の書という性格を持っている。
スピノザ批判は、第五章「主権的人権の死亡」の中ほどで開始される。そこの部分をそのまま引用してみる。
――ホッブズは『レヴィアタン』四十二章で、国家権力はキリスト教を信じないという「舌先の告白」を要求しうるが、「内面信仰」には強制は及ばないとしている。ここでホッブズは、聖書列王記略下五章十七―十九節を援用し、更に内外区別論を援用する。ブラムホール司教への回答書(一六八二年)においても、これは微妙な論点であるとしつつ、政治体系の中に内的・私的な思想と信仰の留保をとりこんでいる。この留保こそ強力なレヴィアタンを内から破壊し、可死の神を支止める死の萌芽となったのである。
『レヴィアタン』刊行から程なく、この目立たない破れ目が最初の自由主義的ユダヤ人の眼にとまり、彼は直ちにこれが、ホッブズの樹立した内外・公私の関係を逆転させる、近代自由主義の巨大な突破口たりうることを看取した。スピノザは一六七〇刊『神学・政治学論』の有名な第十九章で、この関係を逆転させた。同書の副題自体が既に「哲学する自由」である。
(長尾龍一訳「レヴィアタンーその意義と挫折」90頁)
ここでシュミットが紹介しているホッブズの『リヴァイアサン』第四十二章にはシリアの将軍ナーマンが登場する。ナーマンとは誰か。ナーマンの名はさらにもういちど第四十三章でも語られる。ホッブズが語るナーマンは旧約聖書・列王記下第五章に登場する人物である。
旧約聖書・列王記下第五章
5:1 アラムの王の軍司令官ナアマンは、主君に重んじられ、気に入られていた。主がかつて彼を用いてアラムに勝利を与えられたからである。この人は勇士であったが、重い皮膚病を患っていた。
5:2 アラム人がかつて部隊を編成して出動したとき、彼らはイスラエルの地から一人の少女を捕虜として連れて来て、ナアマンの妻の召し使いにしていた。
5:3 少女は女主人に言った。「御主人様がサマリアの預言者のところにおいでになれば、その重い皮膚病をいやしてもらえるでしょうに。」
5:4 ナアマンが主君のもとに行き、「イスラエルの地から来た娘がこのようなことを言っています」と伝えると、
5:5 アラムの王は言った。「行くがよい。わたしもイスラエルの王に手紙を送ろう。」こうしてナアマンは銀十キカル、金六千シェケル、着替えの服十着を携えて出かけた。
5:6 彼はイスラエルの王に手紙を持って行った。そこには、こうしたためられていた。「今、この手紙をお届けするとともに、家臣ナアマンを送り、あなたに託します。彼の重い皮膚病をいやしてくださいますように。」
5:7 イスラエルの王はこの手紙を読むと、衣を裂いて言った。「わたしが人を殺したり生かしたりする神だとでも言うのか。この人は皮膚病の男を送りつけていやせと言う。よく考えてみよ。彼はわたしに言いがかりをつけようとしているのだ。」
5:8 神の人エリシャはイスラエルの王が衣を裂いたことを聞き、王のもとに人を遣わして言った。「なぜあなたは衣を裂いたりしたのですか。その男をわたしのところによこしてください。彼はイスラエルに預言者がいることを知るでしょう。」
5:9 ナアマンは数頭の馬と共に戦車に乗ってエリシャの家に来て、その入り口に立った。
5:10 エリシャは使いの者をやってこう言わせた。「ヨルダン川に行って七度身を洗いなさい。そうすれば、あなたの体は元に戻り、清くなります。」
5:11 ナアマンは怒ってそこを去り、こう言った。「彼が自ら出て来て、わたしの前に立ち、彼の神、主の名を呼び、患部の上で手を動かし、皮膚病をいやしてくれるものと思っていた。
5:12 イスラエルのどの流れの水よりもダマスコの川アバナやパルパルの方が良いではないか。これらの川で洗って清くなれないというのか。」彼は身を翻して、憤慨しながら去って行った。
5:13 しかし、彼の家来たちが近づいて来ていさめた。「わが父よ、あの預言者が大変なことをあなたに命じたとしても、あなたはそのとおりなさったにちがいありません。あの預言者は、『身を洗え、そうすれば清くなる』と言っただけではありませんか。」
5:14 ナアマンは神の人の言葉どおりに下って行って、ヨルダンに七度身を浸した。彼の体は元に戻り、小さい子供の体のようになり、清くなった。
5:15 彼は随員全員を連れて神の人のところに引き返し、その前に来て立った。「イスラエルのほか、この世界のどこにも神はおられないことが分かりました。今この僕からの贈り物をお受け取りください。」
5:16 神の人は、「わたしの仕えている主は生きておられる。わたしは受け取らない」と辞退した。ナアマンは彼に強いて受け取らせようとしたが、彼は断った。
5:17 ナアマンは言った。「それなら、らば二頭に負わせることができるほどの土をこの僕にください。僕は今後、主以外の他の神々に焼き尽くす献げ物やその他のいけにえをささげることはしません。
5:18 ただし、この事については主が僕を赦してくださいますように。わたしの主君がリモンの神殿に行ってひれ伏すとき、わたしは介添えをさせられます。そのとき、わたしもリモンの神殿でひれ伏さねばなりません。わたしがリモンの神殿でひれ伏すとき、主がその事についてこの僕を赦してくださいますように。」
5:19 エリシャは彼に、「安心して行きなさい」と言った。
ホッブズの『リヴァイアサン』第四十二章の小見出し
≪迫害をさけるためにキリスト教徒はなにをしていいか≫
本文:もし、ある王、あるいは元老院、あるいは他の主権者人格が、われわれがキリストを信じることを禁止したらどうなのか。これにたいしてわたしは、そういう禁止は効果がないのであって、なぜなら、信、不信はけっして人間たちの命令から生じるものではないからだ、とこたえる。信仰は神のおくりものgiftであって、人はそれを、報酬の約束や拷問の脅威によって、あたえることもとりさることもできない。
また、もしわれわれが、われわれの合法的な王侯によって、自分の舌をもって信じないといえと命令されるならば、どうなのだとさらにたずねられるとしよう。われわれはそういう命令にしたがわなければならないのか。舌による告白は、外部的なものごとであって、われわれの従順をあらわす他のどんな身ぶりにも、まさるものではないのだし、そしてそこにおいてキリスト教徒は、心のなかにキリストへの信仰を堅持しながら、予言者エリシャがシリア人ナーマンにゆるしたのと同一の自由をもつのである。
ナーマンはその心において、イスラエルの神に改宗した。すなわちかれはつぎのようにいう(列王下・五・十七) 「あなたの召使は、今後、主のほかの神々にはやいたささげものも、いけにえも、ささげることはないでしょう。つぎのことについて、主よ、あなたの召使をおゆるし下さい。すなわち、わたしの主人が、そこで礼拝をするためにリンモンの家にはいるとき、わたしの手によりかかり、そしてわたくし自身も、リンモンの家で拝礼をします。わたくし自身がリンモンの家で拝礼をするとき、主よ、このことについて、あなたの召使をおゆるし下さい。」
その予言者はこのことを承認し、かれに平和にふるまうように命じた。ここでナーマンは、その心において信じたのだが、しかしリンモンの偶像のまえで拝礼することによって、外見においては真の神を否定したのであり、それはまさにかれがその唇をもってしたかのようであった。
(ホッブズ著『リヴァイアサン』(三)水田洋訳 岩波文庫 212頁)
ホッブズ『リヴァイアサン』第四十三章の小見出し
≪神と政治的主権者への服従は両立しないものではない。その主権者がキリスト教徒であっても≫≪あるいは主権者が不信心者であっても≫
本文:政治的主権者が不信心者である場合に、かれに抵抗するかれ自身の臣民のすべては、神の法に対して罪をおかすのであり、またすべてのキリスト教徒はかれらの王侯に服従するように、すべての子どもと召使はあらゆるものごとにおいてかれらの両親と主人に服従するようにとすすめている、使徒たちの忠告を拒否するのである。そしてかれらの信仰についていえば、それは内面的で不可視なのであって、かれらはナーマンがえたゆるしをもち、それの信仰のために自分たちを危険におとしいれる必要がない。(同 260頁)
シュミットは、ホッブズの『リヴァイアサン』とスピノザの『神学・政治学論』の違いを、最終的に次のように総括している。
―― ホッブズの正面には公的平和と主権があり、個人的思想の自由は背後の最終的留保にすぎないが、スピノザは逆に個人の思想の自由が枠組みの構成原理をなし、公的平和と主権を単なる留保に転化させた。ユダヤ的実存に発した思考過程の小転換が、単純極まりない一貫性をもって、暫時のうちにレヴィアタンの運命に決定的転換をもたらしたのである。
(シュミット「レヴィアタンーその意義と挫折」91頁)
さて、シュミットの「ユダヤ・イデオロギー」批判は、このようにして開始され、次の第六章・七章にかけてより辛辣で攻撃的なものになっていく。しかしその批判は、ここまでの記載内容からも推測されるように、あくまでに法学的・哲学的・思想的なものであって、人種差別やナチスへの加担といった、一般的に流布されているシュミット象とはまったく違う内容のものである。
そのことを、ご理解頂ければ、私の今回のシュミット紹介は目的を達したものと考えられるので、今回の記事をもって「さて、シュミットです」のシリーズは、一旦終了とさせて頂きます。最後までお読み頂きまして、ありがとうございました。 終
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔study1274:230831〕
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