関東大震災100周年 朝鮮人・中国人虐殺犠牲者追悼集会に参加して
- 2023年 9月 3日
- 時代をみる
- 朝鮮人虐殺村尾望関東大震災
8月31日に、「関東大震災朝鮮人・中国人虐殺100年犠牲者追悼大集会」に参加した。戒厳令下の官憲のデマを大きな誘因として、自警団を組織した民衆によって、朝鮮人6600余人、中国人750余人とされる人々が、集団的に虐殺された事件は、日本近代史の大きな汚点として記憶されるべきものであることはいうまでもない。
追悼集会では、韓国、中国の遺族の代表者、真相を明らかにし慰霊碑建立などに尽力されてきた市民をはじめ、芸術家、ジャーナリスト、学者、政治家などからさまざまな訴えや発言、報告を聴くことができた。これまで具体的なことに触れる機会は少なかったので、備忘のためいくつかの点を書き留めておきたい。(後で取り急ぎ調べて加えた点も含む)
・内務省や軍隊が震災発生直後に戒厳令を発したのは、朝鮮人が不穏な動きをしているのではないかと直感したためだが、それは植民地化した朝鮮半島出身者の潜在的な敵意について、1919年の三一独立運動で経験していたからだろう。(それは民衆生活の心性にも浸透していただろう)
・政府は予防のために戒厳令を敷いたつもりだったかもしれないが、海軍東京無線電信所船橋送信所から発信された電文は、「朝鮮人は各地に放火し、不逞の目的を遂行せんとし、現に東京市内に於いて爆弾を所持し、石油を注ぎて放火するものあり、既に東京府下には戒厳令を施行したるが故に各地に於いて充分周密なる視察を加え、先人の行動に対しては厳密なる取締を加えられたし」という、民間に流布していた流言蜚語のデマ情報を追認増幅して、その取り締まりを指示するもので、政府や軍が自ら虐殺を扇動したものだった。
・陸軍習志野駐屯地の騎兵部隊が、東京府下へ出動して虐殺された朝鮮人の遺体を荒川の河川敷に多数埋めた事実は、後日、目撃証言で明らかになり、2009年に殉難者追悼碑も建てられている。
・この騎兵部隊は、東京府下や習志野周辺の朝鮮人を保護する目的で、習志野へ集め、陸軍習志野支鮮人収容所」をつくった。しかしそこから周辺の集落の自警団へ朝鮮人の払い下げが行われ、受けとった自警団は朝鮮人を虐殺した。
・当時の新聞のほとんどは、朝鮮人の暴動を事実として報道し、「野獣のごとき鮮人暴動」とまで書いて憎悪を煽ったが、デマと判明してからも反省することはなく、責任をとることはなかった。政府も後の国会答弁で真相を明らかにしていくとしたが、何もしなかった。(事実関係の明らかな例では、首謀者は裁判にかけられてたが微罪ですまされている)
・神奈川県では、虐殺の実態は隠ぺいされてはっきりしていなかったが、目撃した子供の作文などの証言記録の収集によって少しずつ明らかになってきていて、もしかしたら関東で最大規模のものだったかもしれない。(例えば、1924年2月の新聞記事には、「虐殺朝鮮人数百名の白骨、子安海岸に漂着」という記事があり、漁もの師たちが虐殺死体を海中に放棄したことを伝えている)。横浜市久保山墓地にある慰霊碑は、子どもの時に目撃した人が1974年に私財を投じて建てたものである。
・朝鮮人の犠牲者は、政府によって数も氏名も調査されず隠ぺいされたが、朝鮮人留学生たちによる「在日本関東地方罹災同胞慰問班」が多くの妨害の中で調査した結果、犠牲者6,661人と報告された。当時、上海にあった「大韓民国臨時政府」は1923年9月10日に、不法拘禁者の釈放、災害区域内の全ての韓人の氏名・生死の公表、虐殺者の厳重処罰を要求した。
・中国人の犠牲者は750人以上とされているが、浙江省温州市の村からまとまって日本に出稼ぎに来ていた華工が中心で、江東区大島町に集中して居住していたところ、9月3日、この付近で700人くらいが虐殺された。当時の中華民国政府は、犠牲者の名簿を作って日本に抗議と加害者の処罰や賠償などを請求した。1924年に日本政府は閣議で賠償方針を決定しているが履行されていない。犠牲者の孫、ひ孫の世代になる遺族会は、日本政府に謝罪、賠償、記念碑建立、記念館建設を要求している。
・当時、中国吉林省長春出身で日本に留学し、牧師となっていた社会運動家の王希天は、大島町で華工の支援活動をしていた。震災後に虐殺の報を受け真相究明を行おうとしたが、彼を危険人物とみなした軍の命令で、9月12日に野戦重砲兵第一連隊中尉垣内八洲夫によって斬殺された。軍は事件隠ぺいを図るが露見して外交問題となったものの、うやむやとなり、戦後に当事者の証言でやっと真実が明らかとなった。
・福島みずほ、杉尾秀哉両参院議員は、今年の国会質問で、日本政府の認識を問い糺したが、答弁は、「政府内に責任を明らかにし得る資料はみつからない」ということのみであって、国家として真摯に向き合う姿勢は一切みあたらない。不名誉なことは触れたくもない、そのうち忘れられるだろうとして、明白な歴史事実に対する道義的、国家的責任を免れると本当に思っているのだろうか。
・小池都知事は、都が建立に関わった慰霊碑の前で毎年行われている慰霊式典に挨拶文を送らない理由を「ほかの慰霊式典と重複するから」としている。自然災害の犠牲者と、人為的、集団的な虐殺行為により犠牲となった人々の死を同じに扱ってもよいと考えていることになり、その退廃ぶりは目に余るというしかない。
以上
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