ミャンマー、よき衝撃の「朝日新聞」報道
- 2023年 10月 3日
- 評論・紹介・意見
- ミャンマー野上俊明
近年、リベラル派には評判のあまりよろしくない朝日新聞である。ミャンマー関連の記事にしても、通り一遍の事実報道が主で、これはというような調査報道や思想的な掘り下げはほとんどお目にかからない。筆者がヤンゴンに住まっているとき、タイ・バンコクに常駐する朝日新聞のアジア総局の責任者とたびたび話す機会があった。おそらく在ミャンマーの日本大使館の紹介であろうが、筆者からヤンゴンの深層事情を引き出したかったのであろう。そのとき知ったのだが、大新聞の特派員は自ら現地に赴いて取材をすることはほとんどない。通信員という資格で現地人を世襲的に(父から子へと)雇い、ほとんどの現場取材を委託しているのである。特派員の仕事は、そうしてネットを通して上がってきた原稿を、オフィスで整理編集して本社へ送ることがメインとなる。これでは危険はない代わりに、特派員という仕事は半ば官僚化したつまらないもの筆者の目には映った。不屈の記者魂から生まれる、いわゆる「ルポルタージュ」で迫真の現地情報をもたらしてくれるイメージとは大違いだ。失礼とは思ったが、筆者は局の副責任者に「あなたは第一志望で記者になったのですか」とぶしつけに訊いてみると、「とんでもない、そうではありませんよ」と、こちらの膝がガクッとなるような答えが返ってくる。かつてのNHKの人気番組、「事件記者」に由来する記者像は、とうに廃れていることを思い知らされた。
それはともかく、記者の置かれた条件にそれほど違いがあるわけではなかろう大新聞であるが、近年ミャンマーに関しては日本経済新聞の特派員の方が情報の質量とも上を行っており、かつて佐高信氏に命名された「日本株式会社の社内報」という汚名返上の勢いである。とすると記者の個人的な能力や資質の差ということかと感じたりもする。
しかしである、今回久しぶりにわれわれのイメージにある朝日新聞らしい、特集記事が目に飛び込んできた。「見えない明日―ミャンマー、クーデタが残したもの」と題した、シリーズ特集のなかの「禁忌の僧侶批判に数千の『いいね』 仏教国ミャンマーで揺らぐ信仰」という、女性記者になる記事(9/30)である。
2021年2月1日の軍のクーデタは、2008年憲法下での国軍と民主派勢力との不安定な均衡状態に立つ政府をくつがえし、Juntaといわれる軍事政権に復帰しようとした。しかし2011年以降の10年間で不完全ながらも進んだ民主化と近代化によってもたらされた変化―とくにZ世代と呼ばれた若者の、自由と権利についての意識変化は、軍事政権の復活はけっして許さないという方向で国民運動を牽引し、内戦状態で多くの犠牲を払いながら、軍政をじりじりと追いつめている。
そこで朝日新聞は、若者の宗教意識の変化に焦点を当て、以下のように述べている―以下、摘要を示す。
「国民の約9割を仏教徒が占めるミャンマーで、僧侶は尊敬の対象だ。市民が托鉢(たくはつ)僧に食べ物を捧げる早朝の風景はいたるところで見ることができる。人びとは、悩みごとがあれば寺を訪ね、僧侶に教えを乞う。よりよい来世を願ってのお布施も欠かさない。仏教と人びとのつながりは、日本人が想像するよりずっと濃密だ。僧侶批判は禁忌であり、考えられないことだった」
「クーデターから2年半が過ぎた。国軍が国民の批判を封じる根拠となっている非常事態宣言は7月末に4度目の延長が発表され、抑圧体制からの出口は一向に見えてこない。国軍に殺害された市民の数は4千人を超す。そんな息の詰まりそうな状況のなかで、仏教や僧侶への帰依が『疑念』に変わりつつある」
なぜなら、国軍が抵抗する市民を虐殺し,無辜の農民たちを空爆で殺し傷つけ、難民へと追いやっても、多くの僧侶は沈黙を守っているからだ。いやそれどころか、「1980年代に当時の民主化運動を支持し、明快な説法で老若男女に人気だったティータグー長老もミンアウンフライン氏のロシア外遊に同行した。ティータグー長老は今年8月、ミンアウンフライン氏肝いりで首都ネピドーに建立された大理石製大仏の開眼式典にも出席して説法をした」。ロヒンギャのジェノサイドの命令者であり、クーデタの首謀者であるミンアウンフライン最高司令官の走狗となり果て、世界からも国民からも孤立する政権に助け舟を出し、支配に正当性(正統性)付与に手を貸す高僧たち。そのため少なくない若者たちは、信徒組織から脱会しているという。
2022年7月のミンアウンフライン最高司令官のロシア訪問に同行し、現地で宗教行事を主宰するティ―タグ―長老(左)やセーキンダ長老(前列右から2人目)朝日新聞
「2021年に国軍がクーデターで全権を握り、反発する人びとを弾圧し始めてから、ミャンマーのSNSにはこんな投稿が目立つようになった。すぐに数千の「いいね」がつく。批判の対象は、仏教僧だ」
こんなことはミャンマーでは空前絶後。なぜなら権力者や富裕な政商と癒着する高僧への批判は、いままでも点としてはあったであろう。しかしクーデタ以後は、個々の僧侶への批判を超えて、上座部仏教の在り方や教義へと批判の矛先が向かう傾向を示している。「妄信するのはやめよう」「批判しても、地獄に落ちることなどない」という批判は、明らかに啓蒙思想に見られる伝統宗教の既成性に対するものと軌を一にしている。
私事で恐縮だが、筆者はミャンマー人の妻と付き合い始めたころ、「人間として宗教を持たないのは、犬畜生と同じです」といわれ、ドキッとしたことがある。仏教への帰依の念の強さでは人後に落ちない彼女は、筆者の宗教批判には必ず言い返してくるのがふつうである。いや、ヤンゴンでは付き合い初めのころ、お互いに声をからして、何時間も言い合いをしたことはいくどかあった。ところが、その彼女、今回朝日の記事を紹介したところ、沈黙したままであった。なるほど、これは朝日の記事の信憑性を裏付けるものであろう。国民の宗教意識に地殻変動が起きている兆しなのだ。脱宗教というよりも、個人の自覚と決断を通して信仰と向き合うこと、それは慣習や習俗としての、民族宗教としての上座部仏教から、より普遍的な意義を持つ世界宗教としての仏教回帰への第一歩なのであろう。圧政の愚民化政策と対になった上座部仏教の既成性から抜け出すこと、それは近代的な国民国家をつくりあげる政治的事業の不可欠の一契機である。しかしそれは、ロシアのようにアモラルな市民なき社会と対になった、伝統的なロシア正教への回帰とはベクトルを異にする大きな動きなのだ。そのためにミャンマー国民は、ほぼ独力で血みどろの闘いをいま勝ち抜こうとしている。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔opinion13272:231003〕
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