Global Head Lines:ウクライナ戦争についての海外論調から――左翼・リベラル内の亀裂を憂いて
- 2023年 10月 5日
- 評論・紹介・意見
- ウクライナ戦争野上俊明
以下の文章は、9/24付ドイツの左翼系日刊紙Tageszeitungの週刊版wochentaz 掲載のインタビュー記事から採ったものである(ただし抄訳で、かつ機械翻訳をチェック、一部修正の上使用)。題して「NATOの東方拡大についての歴史家―『ウクライナは見捨てられた』」Historikerin über Nato-Osterweiterung:„Die Ukraine im Stich gelassen„
https://taz.de/Historikerin-ueber-Nato-Osterweiterung/!5961608/
インタビューを受けた、メアリー・エリス・サロッテ氏はジョンズ・ホプキンス大学高等国際問題研究大学院(ワシントンD.C.)の歴史学教授で、著書「Not One Step Further East(一歩も東へ進まず)」は、ドイツで出版されたばかりである。プーチン大統領は、ウクライナへの攻撃をNATOの東方拡大のせいとして、ウクライナ侵攻を正当化しているが、歴史家メアリー・エリス・サロッテは、その著書で当時の東西のやりとりを正確に再現している。どうみてもプーチンの戦争は正当化できそうもない。
wochentaz: サロットさん、あなたは歴史学者として、NATOの東方拡大とワルシャワ条約機構の解体の歴史に熱心に取り組んできました。特に驚かれたことはありますか?
Mary Elise Sarotte: ウクライナの重要性です。 NATOの東方拡大に関する本を書き始めたとき、当初はポーランド、ハンガリー、チェコ共和国、バルト三国について書こうと考えていました。・・・しかし権力者たちは、かなり早い段階から「ヨーロッパの平和はウクライナにかかっている」と述べていました。今日から見ると、歴史的資料からこの洞察を引き出すことは驚きです。
wochentaz:当時の主な問題は、ウクライナに配備された核ミサイルでした。
Mary Elise Sarotte: 1991年に独立したウクライナは、突如として世界第3位の核保有国となりました。そこには1000発以上の核弾頭が保管されていたのです。ジェームズ・ベイカー米国務長官は1991年12月にキエフに駆けつけ、「これらのミサイルを誰が管理しているのか」と、尋ねます。 ソビエト時代には兵器がモスクワにより管理されていたため、技術的な理由から管理は依然としてモスクワにあると言われていました。
wochentaz:しかし、そのままである必要はありませんでした。
Mary Elise Sarotte: ウクライナにはそれを変える技術者がいることは明らかでした。 ベイカー長官は戻ってきて、友人でもあるジョージ・H・W・ブッシュ大統領に次のように語ったのです。「ロシアのほかに主にウクライナに保管されている旧ソ連の核兵器を安全化することほど重要な課題はありません」と。その後、彼はベラルーシとカザフスタンにこれらの兵器を廃棄するか引き渡すよう説得しました。しかし、1992年の大統領選挙でブッシュ氏は驚くべきことにビル・クリントン氏に敗れ、ベイカー長官は、早急に解決すべき問題を後継者に残して、辞任しなければなりませんでした。三角形の求積法の問題(解決の困難な問題)でした。
wochentaz:どういう意味でしょうか。
Mary Elise Sarotte: ウクライナ人、ロシア人、そしてNATOへの早期加盟を推進する中東欧諸国が、納得できる解を見つけなければなりませんでした。そのときのアイデアは、多くの国をすぐに NATO に加盟させる代わりに、誰もが所属できる中間地(Zwischenstation=Stopover)を作らなければならないというものでした。これはモスクワの面目を保つものであり、ウクライナにとっては取り残されないための暫定的な解決策であり、中東欧諸国がNATO基準に技術的に適応するのに役立つものでした。こうして1994年、ロシアも参加する「平和のためのパートナーシップ」が誕生したのです。これにより、行動の機会が生まれた。
wochentaz:どのようにしてでしょうか。
Mary Elise Sarotte: 中欧と東欧諸国はNATOに近づくことができたものの、加盟には至らなかったーロシアの民主化がうまくいかなければ、すぐにでも加盟する可能性もあったのでが。しかし1994年、アメリカとロシアは核軍縮で緊密に協力した。そのため、ウィリアム・ペリー米国防長官はビル・クリントン大統領に対し、NATO拡大への動きが早すぎると軍縮が危うくなると警告したのです。
wochentaz:クリントン大統領も当初はこれに同意していました。 彼はヨーロッパに新たな境界線を引きたくなかったのです。
Mary Elise Sarotte:しかしその後、さまざまな理由から、彼は考えを変え、NATOに対してオール・オア・ナッシングのアプローチをとりました。そこでウクライナは取り残されました。個人的には、「平和のためのパートナーシップ」は当時としては非常に良い解決策だったと思います。あのままであってほしかった。でも結果は違ったのです。私は時々、NATOの東方拡大反対論者のように描かれることがあります。でも私は違うのです。中東欧諸国には同盟を自由に選択する権利があり、NATOには彼らを加盟させる権利がありました。私が批判したいのは、やり方が早すぎ、対立的すぎたということだけです。
wochentaz:しかし、これはクリントン大統領だけの責任ではありませんね。
Mary Elise Sarotte:ロシアのエリツィン大統領は偉大な民主主義者であるはずでしたが、再び流血を始めました。1993年10月には自国の議会を砲撃させ、1994年にはひどい流血事となった第一次チェチェン紛争を起こしたのです。ポーランド人とハンガリー人は、「我々はその(ロシアの)やり口を知っている。だからNATO加盟をさらに熱心に推し進めたのだ」と、語っています。
wochentaz:1994年、ウクライナはブダペスト覚書で核兵器を放棄しました。その見返りとして、アメリカ、イギリス、ロシアは、ウクライナの主権と既存の国境を尊重することを保証したのです。 しかし2014年のクリミア併合でウラジーミル・プーチン大統領は合意を破ったのです。
Mary Elise Sarotte:私たち西側諸国は、クリミア併合にもっと鋭く反応すべきだったと確信しています。しかしブダペスト覚書が覚書と呼ばれているのは、条約ではないからです。NATOの第5条のように、NATO加盟国が攻撃された場合に、全加盟国に支援を義務づけるものではないのです。この覚書は、ウクライナが武器を放棄したことを認めたものにすぎなかった。いざという時には、それはただの紙切れに過ぎませんでした。
wochentaz:今日、NATOの東方拡大については2つの語り方があります。ロシア側は、1990年にドイツ統一の代償として、NATOはこれ以上東に拡大しないと約束したのだと言います。ただ、これは文書化されていなかった。西側は、そのような約束はなかったと言い、交渉の最後に重要なのは条約に書かれていることなのだと言う。
Mary Elise Sarotte:約束があったかどうかは、約束という言葉をどうとるかで変わってきます。そのかぎりでは、それは心理的な問題です。一つ明らかなことは、関係者によると、交渉の中でNATOの東方拡大の話題が出たということです。1989年の終わりから1990年の初めにかけて西側の人々はこう考えていました。 ミハイル・ゴルバチョフ大統領にドイツ統一に同意させるには、何を提示すればいいのだろうか、と。 もしかしたら彼は、私たちにNATOは拡大しないと約束してもらいたいのだろうか。ベーカー米国務長官とハンス=ディートリッヒ・ゲンシャー独外相がこの件についてゴルバチョフ氏に話しました。ゴルバチョフ氏は、「それはいいですね。それについてはさらに詳しく話しましょう」と、言ったのです。
wochentaz:それからどうなりましたか。
Mary Elise Sarotte:1990年2月のゴルバチョフとの会談後、ベーカー長官はワシントンに戻り、ブッシュ大統領に会談のことを話しました。ブッシュ大統領はひどく失望したと答えました。それは間違いであり、NATOの将来について交渉すべきではないと、彼は言ったのです。 ベイカー長官はその話を撤回すべきだ、と。ベーカー長官はその後、外務省に手紙を書き、次のように書いた–私は言い換えています、正確な引用と参考文献は私の本の中にあります。混乱を招いてしまって、申し訳ない。ボスからは、NATOの管轄権の将来的な範囲について交渉するつもりはない、とはっきり言われている。しかし、ゲンシャー外相はほとんどこの手紙を無視しました。
wochentaz:それでヘルムート・コール首相はどうしました。
Mary Elise Sarotte:コール首相がワシントンでブッシュ大統領に会ったとき、NATOについてゴルバチョフ大統領に譲歩しないのであれば、何か別のことを彼に提供しなければならないと語った。そうなるとお金の問題になる。ブッシュ大統領はこう答えた。「だからどうだというのです、彼らのかばんは大きんですよ」と。 コール首相はそれを受け入れました。その間、ゲンシャー外相はNATOについて話し続けたのです。 その後、コール首相はゲンシャー外相に何度か連絡を取り、一貫してNATOの話はやめるようと頼んだ。彼は公式の手紙まで送った。コール首相は、「[…]ゲンシャー外相とは立場を共有しておらず、支持していないことを正式にお知らせしたい」と、書いたのです。「さらに連邦政府は、何の協議もなしにこれらの問題を決定することを受け入れる用意はありません」と。
wochentaz: それはどのように解決されたのですか。
Mary Elise Sarotte: 1990年9月にツー・プラス・フォー条約に署名することになり、政治家たちが式典のためにモスクワの地を踏んでいたとき、西側同盟国とゲンシャー外相との間でまぎれもない論争があったのです。最終的に、議定書に関する覚書が合意されました。・・・
wochentaz: それでは、ロシア側が約束と呼んでいるものは、交渉における西側の意見の相違ために長く続いた単なるマインドゲームだったのでしょうか。
Mary Elise Sarotte:そういう言い方もできます。最後に契約書に何が書かれているかが重要だと思います。経験の浅い人や子供の話ではないのです。私たちはモスクワと西側諸国との国際関係について話しているのです。そこでは多くのことが、旧ナチスドイツであるドイツの統一のことが問題でした。ソ連の外交官たちは当時、このことを書き留めることを忘れなかったのです。モスクワは条約に署名し、批准し、そのための対価を受けとったのです。 結局、彼らは150億ドイツマルクを手に入れました。英語では “They cashed the cheque(彼らは小切手を換金した) “と言います。プーチン氏はいつもそのことを忘れるのです。
wochentaz: NATOの東方拡大に対するプーチン大統領の態度は、ここ数年で大きく変わりました。旧ソ連諸国がバルト三国とともに同盟に加盟した2004年の第2次拡大の際も、彼はNATOとロシアの関係に問題はないと言っていました。
Mary Elise Sarotte:プーチン大統領は過激化しました。彼が暴力を振るえば振るうほど、彼にとってこの東方拡大というテーマは、暴力を正当化する理由付けとしてより有用になりました。それはチェチェン戦争とアンナ・ポリトコフスカヤのようなジャーナリストの殺害から始まりました。そして2007年にミュンヘン安全保障会議があり、そこでの演説では、NATOが東への拡大に関して与えたとされる保証を守っていないと不満を述べました。同様に、2014年のクリミア併合に関する演説や、ウクライナへの本格侵攻前の2021年後半の発言では、裏切り疑惑について不満を表明したのです。
wochentaz: 現在ヨーロッパは、ウクライナ紛争が終結した後も、ロシアとの対立が続くという事実に備えつつあります。
Mary Elise Sarotte: 私の著書では、ドイツ、ロシア、アメリカと中欧および東欧諸国の政治的相互作用について書いています。つまりは、最終的にチャンスの窓をより有効に活用できなかったことが悲劇となったことがわかります。冷戦は短命ではなく、長く続くものです。 そして雪解けがあれば、それを尊重しなければなりません。私たちは当時、それを十分にしなかったのです。今、私たちは元の位置に戻ってきたのです。
<若干のコメント>
ドイツ統一以後のNATOの東方拡大の問題につき、言質を取られたくないアメリカと何らかの確約を求めたソ連、さらには東欧諸国との間で、中間的解決(平和のためのパートナーシップ)の方法があったにも関わらず、それが実現しなかったためウクライナは行き場を失って犠牲になったというのが、メアリー・エリス・サロッテ氏の見解であろう。しかしそれにしてもソ連がドイツ統一の代償として、150億ドイツマルクを受け取っていたという話は興味深い。
私は東ヨーロッパの事情に明るくないので、一知半解、舌足らずの言説になりかねないことを怖れつつ、日本の現下のウクライナ戦争をめぐる左翼・リベラル陣営内の意見の食い違いを憂う立場から、思いついたことを羅列してみる。議論の材料の一つにしていただければ、幸いである。
1.プーチンのいう、ウクライナ侵攻は、NATOの東方拡大に対するやむを得ない自衛的措置という政治的根拠づけに同意する意見について。それは、プーチンの政治家としての能力を過小評価しているのではないか。プーチンの所業は、西側の出方への受動的な反作用というようなものではなく、諜報機関出身者に特有のヒューマニティに対する懐疑・疑念もその形成に与ったであろう、専制主義に付きまとわれた、独特の世界観、歴史観にもとづくロシア帝国の復活という誇大妄想の産物だったのではないか。
2.ウクライナの防衛戦争に国際的な法理を認めず、代理戦争論からするどっちもどっち論も登場した。この見解には、私はいたく失望した。グローバリズムの世界においても、EUのような地域共同体の世界においても、国家主権や民族自決権の国際法理としての意義は消滅しない。ソ連邦のチェコ侵入の根拠とされた「制限主権論」の悪しき伝統をプーチンは引き継いでいる。日本左翼においては、ベトナム戦争の際にも一部の学生運動は、代理戦争論を唱えたことがあった。それは、かつて学生運動において一定の影響力をもった世界革命論、永続革命論の残映ではないか、あの観念的で空疎な革命論の呪縛が解けていないのではという気がする。
3.地政学的な分析が流行だが、問題の根は、ソ連邦崩壊に際しての西側の対応の仕方にあったのではないか。ソ連邦の崩壊の時期は、ネオリベラリズムによるグローバリゼーションの最盛期にあたっていた。市場経済の導入が、なかば自動的に開放経済と民主主義をもたらすとする楽観論が支配的であった。しかし市場経済が正常に機能するためには前提条件が必要とされる。たとえば、合理的な生活態度を有する、自立的で中産的な都市市民の大量形成、家父長的で権威主義的ではない、同市民的な社会関係が、すでにある程度の水準において支配的であること。行政機能への市民参加の経験が存在し、それが法的に保障されていること――総じて国民、住民が自分たちを権力者の抑圧から守る何らかの法的慣習的な制度的手段を最低限保持していること。ソビエト70年の歴史において、こうした前提条件を集約的に表現する市民社会は未成熟であった。
しかも社会主義的計画経済からの市場経済化といっても、規制緩和と民営化をもっぱらとする新自由主義的な「改革」でしかなかった。中産的市民層による健全な開放経済ではなく、特権的な党官僚による国家資産、公共的財産の私物化と寄生的な寡占資本であるオルガルヒの形成に帰結した。折しも、英米は新自由主義の旗手であるレーガンとサッチャーであり、ドイツも新自由主義を掲げて政権についたコールであった。社会民主主義がヨーロッパでもっと力を維持し続けていたら、公共資産の保全がナショナル・ミニマムの維持にとって死活的であることを理解し、もう少し漸進的な経済改革のための支援が可能だったのではなかろうか。プーチンの戦争は、歴史の歯車を逆回転させるような、フクヤマの「歴史の終わり」への復讐だったのだ。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔opinion13278:231005〕
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