アイデンティティーを求めて 書評:『チベット女性詩集―現代チベットを代表する7人・27選』(海老原志穂編訳・段々社発行)
- 2023年 10月 13日
- カルチャー
- 『チベット女性詩集―現代チベットを代表する7人・27選』宮里政充書評
7人の詩人たち
まず、「チベットを代表する7人」を作者紹介欄から抜粋したい。
ソンシュクキ:十代の終わりから詩作を始める。何冊もの詩集を出版。海外のチベット文学
研究者らの注目を集める。インドへ亡命。現在はオーストラリアのメルボルンに在住。
テキ・ドルマ:大学卒業後、中学教師を経て現在は黄南州紀律検査委員会に勤務。娘、妻、
母の視点で書かれた作品が多い。
オジュクキ:チベット語教師を父に持ち、その影響を受けて大学在学中から詩を書き始め、
女性作家に送られる文学賞を受賞。村上春樹の「ノルウェイの森」「海辺のカフカ」が好
きだという。現在は青海省チベット医薬研究院に勤務。
ホワモ:現西北民族大学で高僧や文法学者に教えを受けた。同大学の教授。詩や論文や随筆
など多数発表。女性文学の地位向上に尽力。チベットにおけるフェミニズム運動のリーダ
ー的存在。
トクセ―・ラモ:チベット医学院卒業後、詩や散文を発表し始め、文学賞も受けている。現
在チベット医としてラサ市内の中学校に勤務。村上春樹の「ノルウェイの森」が愛読書。
(後に紹介する)チベット現代文学の祖とされるトンドゥプジャの作品を愛読する。
カワ・ラモ:大学卒業後に詩や散文を書き始める。優れた詩作品に送られる文学賞を受賞。
現在中学校のチベット語教師。恋愛や結婚、女性の美しさ、、チベット文化への愛情をう
たう。
チメ:現在の青海民族大学を卒業後、ながく地元の中学校でチベット語を教える。30歳ご
ろから創作を始め、チベット文学界の文学賞を多数受賞。バージニア大学やハーバード大
学に招かれてチベット人女性の文学活動について講演。
チベット女性の自立の厳しさ
人間は理不尽で不条理な状況に置かれた時、打ちひしがれたまま耐え忍ぼうとしたり、無関心を装ってやり過ごそうとしたり、状況の打破を目指そうとしたり、いろいろあるだろう。中国政府によって圧迫され続けているチベットという「少数民族」、そしてさらにその中で差別され続けている女性たちの詩集となれば、そこには状況に対するさまざまな発信があるのが当然である。
上記詩人ホワモの作品「私に近寄るな」で彼女は自身を「黒炭」「毒ガス」「涙あふれるひとりぼっちの部屋」「病」「罪」「愛のない冷たい石」「憐みのない殺人者」「棘」「誘惑」「苦しみに向かう生活」「傷をつけるナイフ」「束縛」「監獄」「罠にかかった小鳥」「方角を見失った凧」になぞらえ、最後に「私に近寄ることは金輪際許さない/私は誰のものでもない」と拒絶する。彼女が用いる隠喩はそのまま、チベット女性の社会意識であり、孤独と迷いの中の闘いなのであろう。
発信の多様性
この詩集で詩人たちが発信する内容は、もちろん、フェミニズム問題だけではない。テキ・ドルマは「草原の愛」で「もっと私にください/狭い路地でたくましく生きながらも、足蹴にされる物乞いたち/侵略され爆弾に追われ、押し合い逃げまどう民衆たち/急な階段に打ちひしがれ、立ち止まっては肩で息する足の不自由な者たち/硬い岩に道を閉ざされ、光を求める盲人たち/飢饉の際も無学のゆえに、救いのない貧しき者たち/飢えと渇きにさいなまれ、温かな家も失った孤児たち/老いの苦しみに嘆息し、子には用無しと捨てられる年寄りたち/幾千の言葉を喉に溜めたまま、歌うことのかなわぬ唖者たち/人の世の喧騒から締め出され、聞こえることのない聾者たち/これらすべてを私にください/私は 尽きることのない豊穣なる愛を大地に広げ/思いやりと慈悲を、求められるままに捧げましょう」とチベット社会の現状に目を向ける。
闘いの永遠性
ただ、彼女たちの作品を鑑賞するうえで私に決定的に欠けているのは、彼女たちを長い間育んできたチベット仏教に関する知識である。中国政府の弾圧に対する抗議デモの主体は僧侶であり、まだ数の少ない尼僧である。そしてダライ・ラマ法王十四世は亡命せざるを得なかった。
言うまでもなくコミュニズム(唯物論)と宗教が相容れることは永久にあり得ない。中華人民共和国が現在のまま存在し続ける限り、少数民族としてのチベット民族は中国政府の同化政策に従うしかない。かつては日本と朝鮮半島がそうであったし、沖縄はいまだにそうであるように。
上記詩人トクセ―・ラモが愛読しているというトンドゥプジャは1985年7月に『ここにも激しく躍動する生きた心臓がある』という詩で、「絶望しないでほしい/若者たちよ/『世の人の声には智慧の眼がある』とはいうが/われらにはいにしえより真実の仏法があるのだから/落胆するにおよばない/傷つかないでほしい/ああ、友よ雪の国の若人たちよ/新たなものを創り出す力がないのなら/公正や心理など戯言/因果の法則など空理空論/だが/ぼくの目に映るのは―/幸福の甘露/ぼくの耳に今なお響きわたっているのは―/未来の生活/それは、ぼくの胸で激しく躍動する生きた心臓であり/それは、おそらく君たちの胸の中でも―/激しく躍動する/生きた心臓/であるにちがいない」と訴えかけた。
トンドゥプジャにとっての明るい未来は「真実の仏法」にあった。その中にこそ「激しく躍動する生きた心臓」があった。彼は若者たちにそのことを訴え続けた。だが、夢は実現しなかった。彼はわずか32歳で自らの命を絶った。
私は現代チベット文学がどのように発展していくか分からない。だが、上記7人の女性詩人たちがその指標を示しているのではないか。
訳語「意識 (たましい)」について
残念ながら、私はチベット語がまったくわからない。したがってこの詩集の日本語訳について云々することはできないのだが、ひとつ、「意識」という訳については気になった。というのは「意識」と、「意識 (たましい)」の二通りの訳があったからである。「意識」と「たましい」を繋ぐものは一体何か。海老原氏はどのような思いを込めてこのような訳し方をしたのか…。
トクセ―・ラモは「神々にまもられるチベット人」の中で、「神話を愛するチベット人は/いつも格別な光を享受している/それは神々から与えられた特別な祝福だ/光にまざりあった意識(たましい)は/近くにも遠くにもあるため/神々はまもることができているようでいて/まもることができていないようでもある」とうたっている。
私はすぐに、前に引用したトンドゥプジャの詩を思い出した。トンドゥプジャが「幸福の甘露」「未来の生活」「激しく躍動する/生きた心臓」の根源とした「真実の仏法」のことである。トクセ―・ラモはそれを「光にまざりあった意識(たましい)」と表現したのではあるまいか。
かりにその想像が間違っていないとすれば、「意識(たましい)」は人間(男女の区別なく)として意識した先にある魂の世界、つまりチベット人としての確たるアイデンティティーの世界を意味していることになるだろう。しかもそのアイデンティ-はチベットの神々によって根拠づけられている…。ひょっとして、ホワモが拒否した「甘露」も、トンドゥプジャがいう「真実の仏法」の中にあるのかもしれない…。
ということになると、チベットの現代文学は中国政府の強要するコミュニズムとの対峙なしにはあり得ないことになる。この詩集がトンドゥプジャの挫折を乗り越えているかどうか、私には分からないが、詩の言葉を武器にした闘いが、今後もすぐれた作品を産み出していくことを心から願わずにはいられない。
2023/10/05
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