知覧、唐突ながら、知覧へ行ってきました
- 2023年 11月 14日
- 評論・紹介・意見
- 内野光子
鹿児島中央駅東口からの東16番の路線バスで、終点特攻観音入口まで、1時間30分ほどかかった。市街地を抜けると、南九州市、知覧へは上り坂が続く。この小旅行で、いちばんつらかったといえば、特攻隊員が出撃の前の数日間を過ごすことになっていた「三角兵舎跡」へとのぼる松林の中の山道であった。今でこそ、階段が整えられ、決して長くはない、この道をのぼる隊員たちの気持ちを思うと胸が痛い。のぼりきった平地は、陽が射さず、コケに覆われ、モグラの仕業か、地面のあちこちがひっくりかえされ、「三角兵舎跡」の碑がひっそり立っているのだった。
少し離れた、軍用施設となっていた二軒の旅館から、出撃が間近くなった隊員が、この地の兵舎に移動してくるのだった。さらに、出撃当日は、ふもとにトラックがやってきて、飛行場へと赴いたという。二本の滑走路近くには「戦闘指揮所」があって、「俺も後から行くからな」という上官や女学生たちに見送られて、機上の人となり、二度と帰ることはなかったのである。
知覧の旧基地の一画には、知覧特攻平和会館(特別攻撃隊戦没者慰霊顕彰会、1987年2月開館)がある。九州、台湾、琉球諸島にあった特攻基地から、1945年4月1日、沖縄本島への上陸米軍への総攻撃が始まり、4月6日の第一次総攻撃から6月21日の第11次総攻撃まで、さらにその前後、とくに、1945年6月23日、牛島満軍司令官の自決をもって、沖縄戦終結後の7月、8月にも、出撃が続いている。その戦没者合わせて1036人の遺影が壁いっぱいに展示され、ケースには遺書や遺品などが並べられている。20歳前後の若者たちが、“志願”の名のもとに、殺されていたかと思うと、遺影とはいえ、彼らの視線には耐えられず、会館を後にするのだった。
松永篤雄さん(19歳)の辞世「悠久の大義に生きん若櫻唯勇み征く沖縄の空」。
掩体壕まで案内してくれたタクシーの運転手さんは、「特攻機も、特攻隊員も出撃までは大事にされてたわけですな」の一言には、複雑な思いがよぎるのだった。
掩体壕のめぐらされた土手の高さは4メートルほど。後方には、茶畑が広がる。
この知覧行には、忘れ難い一件もあった。鹿児島中央駅のバス停で、台湾から来日した若い女性に出会った。上手な日本語で、二カ月の休暇で、北海道から日本を縦断する形で、旅をしてきたという。知覧を最後に、帰国するというのだ。
「日本語はどこで学んだの」には、「塾に通い、あとは独学です」と。「日本に興味を持ったきっかけは」には、「日本のアニメが好きだったのと、池上彰の話を聞いたりして・・・」という。
知覧特攻平和会館では、ちょうど「鹿児島県の戦争遺跡」という企画展も開かれていることも知っていて、私たちもできれば聞きたいと思っていた、その日の企画展に伴う講座のことを話すと、すでに知っていて、参加するという。かなり調べていて、準備不足だった私など教えられることもあって、その学ぶ意欲に脱帽。日本の台湾旅行者で、ここまで調べている若者がいるかな、と。彼女は、終点の一つ手前の武家屋敷群前で「今日、またどこかで会えるかもしれませんね」とバスを降りていった。
初出:「内野光子のブログ」2023.11.12より許可を得て転載
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〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
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