岸田内閣の「こども」政策って何?
- 2023年 11月 16日
- 時代をみる
- こども政策池田祥子
前々回(9月初め)と前回(10月初め)にわたって、私は日本の保育制度の歴史と問題点を、少々細かく整理してみた。そして、日本では、子どもを「社会の中のこども」として直接的に焦点を当てることなく、子どもの育ちをまずは「家庭の中」に位置づけ、とりわけ「母親」の手による「子育て」を基点にしていること、そのことの問題性を指摘してきたつもりである。
もっとも、6歳から始まる「学校教育」においても、この「家庭・母親・子育て」観は当然のように前提にされているが、それ以前の0歳から就学前の段階では、「乳幼児」という子どものあり様ゆえに、この「家庭・母親・子育て」観は基底的であり、全面的でもある。
そのため、就学前段階では、未だに幼稚園(歴史的な本流)と保育所(派生的)の二本立ての制度が継続している。とはいえ、2003年小泉内閣の下で両者の「一元化」の試みは着手されたのではあるが、しかし、残念ながら、「総合施設」→「こども園」→「認定こども園」と名称を変えながらも、なお「幼稚園」と「保育所」の二元体制は変えられないまま、現在は、制度としても非常に複雑な状況を呈するに至っている。
この、幼稚園、保育所、さらに「幼保連携型認定こども園」の「三立」(三本立て)という現状の問題性は、いま少し丁寧に説明され批判されなければならない。
ただ、岸田内閣成立以降、それに輪をかけて、いくつもの政策が次々と打ち出されている。このままで行くと、さらに「こども政策」は混乱を深めるだけではないか、と私は憂えている。
例えば、2023年4月1日、それまで「こども庁」と称されてきたものが、急きょ「こども家庭庁」という名前に変えられ、そのまま発足し、同時に「こども基本法」も制定され、表向き、岸田文雄首相が先導する「画期的な少子化対策」が着々と進んでいるように見える。しかし、「異次元の少子化対策」や「こどもまんなか社会」「こども誰でも通園制度(仮称)」など、次々にスローガン・言葉・政策が打ち出されてはいるが、はっきり言ってどれもが「その場しのぎ」でしかない。このような中身のない言葉や思いつき的な制度らしきもので、現実の「こども政策」は進みようがないだろう、と私は思う。ということで、今回は、岸田内閣の「少子化対策スローガン」の無内容さと問題点をまずはきっちりと見定めておきたい。
「異次元の少子化対策」!
国立社会保障・人口問題研究所が発表した「将来推計人口」(2023.4.26)によると、今後毎年約80万人が減少するという。もっとも、「少子化」現象は1979年の「1.57ショック」以来警鐘が打ち鳴らされ、1980年代からは度々の「少子化対策」が繰り返されてきた。それでも、2008年の1億2808万人をピークにして、その後は実質的な人口減少社会に突入している。
その意味では、唐突に「異次元の少子化対策」という内実の見えないスローガンを打ち上げるまえに、これまでの度々の「少子化対策」の、何が不十分だったのか、改めての総点検があってもいいはずである。
また、「少子化」傾向は、途上国を除けば、米・欧はもちろん、韓国、香港、シンガポール、台湾などの東アジア・東南アジアでも日本以上の少子化が進んでいる。さらにまた、かつては「一人っ子政策」などで、急激な人口増を強制的に食い止めようとしてきた中国ですら(慌てて「一人っ子政策」を廃止したにもかかわらず)、2030年代以降、人口減少に転じることが明らかになっている。
そのように考えると、「少子化対策」は必ずしも一国だけの問題ではなく、かなりの国々との共有する課題なのである。
少子化に直面する国々、人口増加になお悩む「途上国」含めて、「国家」という壁を可能な限り柔軟にしながら、今後の世界の共通の課題の一つとして、「少子化」対策は考えられなければならないのではないか。
また、同時に「高齢化」も併せて進む。いつまでも、生産年齢を「15~64歳」と区切るわけにもいかなくなるだろう。高齢者の状況も多様化する。健康な高齢者の生産ないしは社会参加の多様な形態も考えられるべきである。
「異次元」という言葉は、仰々しいだけの空疎な言葉である。
「こどもまんなか社会」!
これまた奇妙な言葉である。初めに目にした時は、誰かの冗談だと思った。子どもの親その他による「虐待」が減るどころか増え続けている状況下で、また小・中・高の学校への不登校児童・生徒が増え続けている状況の中で、「こどもまんなか!」というのは、ある種のアイロニーかとすら思ったほどだ。これまた岸田内閣のスローガンなのだ。
『発達』175号(ミネルヴァ書房、2023.8.10)の特集タイトルは「こどもまんなか社会時代の保育・子育て支援」となっている。その巻頭言を執筆している秋田喜代美氏はかつては日本保育学会の会長を務め、現在は岸田内閣の「こども未来戦略会議」の委員でもある。
秋田氏は次のように述べている。
「2023年4月、こども家庭庁が誕生し、こども基本法が施行されました。こどもまんなか社会の原点にあるのは、こども基本法です。/心身の発達の過程にあるすべてのこどもの人権と権利を保障する日本で初めての法律です。」
「人権」と「権利」が並べて記述されているが、はて、どのように違うのだろうか。
しかも、ここでは、初めの「こども庁」が急きょ「こども家庭庁」になった事への言及もなく、当然なのかもしれないが、その事への問題点の指摘もない。
「こども庁」という名称ならば、「こども」に直接焦点が当てられているのだから、あえて「こどもまんなか」という必要もないだろうが、ただ「こどもまんなか」という視点との齟齬は生じない。あえて意地悪な味方をすれば、「こども+家庭=庁」にしたがゆえに、ことさら「こどもまんなか」という幼い!?言葉を持ち出さなければならなくなったのかもしれない。
しかし、あえて「こどもまんなか社会」という言葉をその通りに理解すれば、子どもの主体・権利が尊重される社会のことであり、社会が平等に、一人ひとりの子どもへの配慮や保障に責任を持つ・・・ということになるだろう。
ところが、「こども家庭庁」になったためなのだろう。「こども基本法」の基本理念に次のような1項が定められている(第3条5)。
「こどもの養育は家庭を基本として行われ、父母その他の保護者が第一義的責任を有するとの認識の下、十分な養育の支援を行うとともに、家庭での養育が困難なこどもにはできる限り家庭と同様の養育環境を確保することにより、こどもが心身ともに健やかに育成されるようにすること。」
何ということだろう。国連の「子どもの権利条約」を1994年に批准しながら、児童福祉法の第2条2項を残し続ける日本の「こどもをめぐる家庭」依存の構造が、この「こども基本法」にそのまま温存されているではないか。
因みに、児童福祉法は、第1条で、子どもの権利を謳い、第2条2項で次のように規定している。― 児童の保護者は、児童を心身ともに健やかに育成することについて第一義的責任を負う。
「こどもまんなか社会」を言葉通りに受け止めるならば、子どもの誕生から就労まで、すなわち具体的にいえば、出産費用の社会保険適応、学校給食費無償化、大学の無償化、最低賃金の値上げと保障、非正規雇用の待遇改善etc.が、真面目かつ喫緊の政策課題に上るだろう。
それらの政策課題が取り上げられもしないまま、「児童手当」ばかりが、「所得制限なし」で増額される構想は(2025年4月から)、かつての民主党の「こども手当」構想とは違って、逆に、個々の家庭の経済的な差を、したがってこどもの環境の差を、さらに強めていくのではないのだろうか。
「こども誰でも通園制度(仮称)」!
この間、私は少々しつこく、日本の保育所制度の歴史的経緯を説明してきた。
自然発生的に、止むにやまれぬ救貧的、慈善的施設として登場してきた「託児所」が、社会事業の一つとして「託児所」「保育所」になっていく過程、そして、戦後、幼稚園に近似の子どもの保育施設として、正式に「保育所」として再出発したこと。にもかかわらず、幼稚園との差異化が求められて、入所基準に「保育に欠ける」(日中、母親が保育・養育できない)という規定が設定されたこと、等々。
こうして、救貧施設ではなくなった一般的な児童福祉施設としての戦後の保育所ではあるが、教育機関としての「幼稚園」とは明らかに区別され、結果として差別化された。
なぜなら、戦後の「性別役割」社会の中では、結婚したら、女性は「家庭」に入り、子どもを生み、そして「母親に専念する」。この専業主婦のライフスタイルこそが、女性のモデルであり、幸せであり、子どもにとっても幸せなこと、とされたからである。こうして、0歳から3歳までは「家庭で、母親の胸の下で」育てられるのが「基本=本流」とされ、その時期に、家庭の外の施設(保育所)に預けられるのは、やむを得ない事とはいえ、やはり子どもにとっては「可哀想なこと」という、差異化=差別化がなされてきた。
この幼稚園と保育所の「二元体制」は、女性の社会労働が増加し、かなり一般化した今日でも、かなり根深いものがある。一つは、幼稚園側に、である。幼稚園関係者は、公私ともに「幼児教育」の本家意識が強い。それを支え牽引しているのは文部科学省である。したがって、「幼保一元化」が叫ばれ、子どもの保育=教育の統合のための行政府として「内閣府」が設置された時も、さらに現在に至ってもなお、「幼稚園」は内閣府ではなく、文科省の管轄である。
他方、厚労省(一部内閣府)管轄の保育所は、やはり幼稚園との差異化にこだわり、「保育に欠ける」入所規定を、「保育を必要とする」規定に変えただけで、なお「誰でも入所可」にはなっていない。
このような幼稚園・保育所の歴史的な根深い「違い」が拭えない状況下で、偶々、保育所の「待機児童」問題が下火になり、逆に保育所の「定員割れ=欠員」が逆に憂えられるようになった時、専業主婦家庭での0歳から3歳の子ども達にスポットが当てられた。母親が就労している訳ではないし、母親にとっても子どもにとっても「幸せ」なはずなのに、現実は育児に疲れ切っているケースが目立つ。また、子どもが3歳以上でも、子どものさまざまな要件・状態によって、幼稚園に就園していない子どもたちも皆無ではない。時に「無園児」とも言われるようだ。幼くしての「ひきこもり」に近くなる。
こうした中で、岸田内閣の言う「こどもだれでも通園制度」(仮称)が提唱されたのである。今年度中にも全国で50施設ほどのモデル事業を実施し、2026(令和8)年度から全国実施の方向だという。
しかし、「こども誰でも通園制度」(仮称)の実情は・・・定員割れした保育所の「空き」の部分で、週1~2回程度受け入れる構想だそうだ。なんと小手先だけのみみっちい「構想」なのだろう。本来ならば、今こそ、幼稚園も保育所も含めて「子どもなら誰でも通園!」制度が提唱されるべきだろうし、それが実現してこその「異次元」の「こども政策」になるだろうに・・・。ただ、残念ながらそのような発想も構想も今は望むべくもない。ただ、そこまでは行かずとも、こどもの年令・人数に対する保育者の定員の拡充、さらには幼稚園・保育所・認定こども園含めたすべての保育者(教師)の待遇改善は、何よりも先に、本気で最優先されるべきである。
財源に関しては未だにのらりくらりの岸田首相。一方の防衛費に関しては、新石垣空港や波照間空港など着々とミサイル発射可能な軍民共用空港化が進んでいるという。膨大になる軍事費、「異次元のこども政策」、一体財源はどうする?岸田首相!(了)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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