世界のノンフィクション秀作を読む(36) 藤原ていの『流れる星は生きている』 ――母が子のために書いた感動の記録(下)
- 2023年 11月 17日
- カルチャー
- 『流れる星は生きている』ノンフィクション横田 喬藤原てい
◇三十八度線(下)
南へ南へと牛車は動いていく。私は牛車の傍を歩いている。太陽が昇ると人も牛も暑さの中にうだりながら前進を続ける。新渓で買った四円の草鞋は一晩で擦り切れ、私は裸足になった。足の裏が焼け付くように痛く、石でも踏むとずんと頭に沁みるように辛かった。行く手に大きな山が幾つも見え、三十八度線が近いことが判り、嬉しい。二人の子供は昨夜よく眠れたのか元気。咲子に乳を含ませたが、どうしても乳が出ず、甜瓜(まくわうり)の汁を注いで飲ます。
八月七日夜、夕立でずぶ濡れになった侭、小学校の板の間に寝た。(また明日もこうして歩かねばならないと思うと、この侭静かに死んでしまいたい。)翌日、案外山の近いのに驚く。山を幾つも幾つも越え、最後に小さい三つの川を続けて渡り、牛車はここまで。四百円を牛車に払って、私は心細くなった。もう、金を借りる当てはない。子供を歩かせて三十八度線まで頑張らねばならない。そこを越えればアメリカ軍がいて、助かると聞いている。
八月九日朝、とある集落の外れに日本人の落伍者が五百人ばかり三々五々と集まってきた。全然統制がない雑把な集団の中で、眉間に鋭い気魄の溢れる白髪の老人が目立った。一時間もたつと、この老人が指導者として団を指揮するようになっていた。老人の指揮により牛車が四、五台用意され、前の山を迂回して越える計画が立てられた。
私は五百円の持ち金は牛車賃にほとんど費消している。集団の後に従い、付いていこうとすると、事情を察した老人は正彦を牛車の中に無理に割り込ませてくれた。大きな山を遠く迂回している山道には大きな石が多かった。私の裸足の足は昨日から腫れ上がり、足の裏が破れて出血。化膿したのか、奥の方が疼くように痛んだ。
半日ほど経ち、峠を下った先に大きな川が行く手を遮っている。一番深い処が私の胸位。咲子~正彦~正広と一人ずつ順に抱いて、なんとか渡り切る。途中で飲んだ水が妙に渋くて胃の中に溜まっていた。小さい川、深い川、浅い川・・・幾つ越えたか覚えていない。
日本人の群れに合流すると、私は土手の上につんのめってしまった。呼吸をするのさえ困難。頭が痺れるように痛く、意識がぼうっとした。私が貧血を起こして倒れていても、誰も言葉をかけてくれる者はなかった。
私は野薔薇の上に倒れたまま一晩過ごしていた。日本人はあちらこちらに固まって眠っていた。やがて出発用意の声が聞こえてきた。立ち上がると頭にずきんとするほど足が痛かった。破れた足の裏の肉の中に小砂利がめり込み、血と泥で固まっていた。その内側で化膿しているに違いない。正彦の小さい足は私よりひどく傷ついていた。
行進が開始された。私は例の通り一番後。「痛い、痛い」と泣く正彦を、蹴飛ばし、突き飛ばし、引っぱ叩き、私は狂気のように山の上を目指して登っていった。新渓出発以来、今日で六日目。山道の途中、私は初めて顔見知りの崎山さんと出会った。期せずして手を握り合い、「もうすぐ三十八度線。しっかり行きましょう」と誓い合った。
平坦な道は急に下り坂になり、あっという間に広い処へ出た。久しく見たことのない田んぼがあった。走って行って、泥臭い水を腹一杯飲んだ。私たちは田んぼの土手に休んで大豆を食べ、飯盒の蓋に味噌を溶かして咽喉へ流し込んだ。
田んぼ道を出ると、前に立派な大道があった。人家も立派だし、道は一本道に真っ直ぐ続いていて、前方に何か白い物――三十八度線の木戸があった。数名のソ連兵が早口で何か話し合い、やがてガラガラと音を立ててウィンチが巻かれ、遮断棒は静かに持ち上がる。ああ、この時の感激! 一人の兵隊が子供たちの頭を一人ずつ撫でてくれた。私たちは子供を引きずって、やっと屯所の見えない処まで来て、ほっとした。
やがて日は全く暮れてしまった。「おーい! 日本人はどこかあ!」と声を限りに叫ぶと、遠くの方で「こっちだあ!」と答える。その方向へ向かって狭い田んぼ道を小走りに走って行った。子供たちも、私たちの身に重大な危険が迫っていると直感したのか、泣いていなかった。やがて、私たちは滔々と流れる大河の畔に立った。月も星もない、今にも雨が降りそうな夜だった。私たちは叫んだ。「日本人はどこか! おーい!」
しかし、木霊も返って来なかった。私はもう一歩も進めない。「崎山さん、先に行って下さい」そう言って、川の黒い面を見詰めた。崎山さんは、いきなり平手でぴしゃりと私の頬を叩いた。そして、嚙み付くように言った。「気違い女!死にたけりゃ、さあ川へ入って見ろ、目の前に開城を控えて死ぬ馬鹿があるか!」
崎山さんはぱらぱら涙をこぼしながら、私の腕を取った。「川に沿って上れば必ず橋がある」。神様のような自信を持って河原を上流へ歩いて行った。私は歯を食いしばって後に付いて行った。
◇アメリカ軍に救助される
何か頭の中でじんじん鳴り、はっと目覚めたら、正広と正彦が私に取りすがって呼んでいた。私はトラックの上に乗っていることを知り、アメリカ軍に救助されたのを知った。私は両手をついて、何度も何度も頭を下げて泣いた。辺りには女や子供ばかりが乗っていて、崎山さん一家も無事に乗っていた。トラックはまもなくテントが林立する開城の避難民収容所に到着した。テントは百個ほども立ち並び、一つのテントが七十人位の人を収容。
外れの方にあるテントに着くと、私は立派な毛布の上に身を投げ出し、口走った。――もういいんだ、助かったんだ、生きてきたんだ。そんなことを気狂いのように口走りながら、体だけは妙に抵抗のない処に置かれていた。昭和二十一年八月十一日の朝には未だ間のある夜中であった。
目を覚ました。釘を踏んだように足の裏が痛い。D・D・Tの消毒、予防注射、それらに立ち会うために歩く痛さは針の上を歩くようだった。このテント村には素晴らしく完備した医療施設があり、私はこのテントをくぐった。医師は私の足の裏を見て、「これは酷い」と唸った。私を手術台に寝かせ、ピンセットで肉の中に入っている石の摘出を始めた。
小石を摘み出し、金属の容器に捨てる毎にカチン、カチンと音がした。段々奥の方にピンセットが入っていくと、焼け火箸で刺されるように痛かった。ベッドにしがみついて我慢していたが、遂に痛さのために脳貧血を起こしてしまう。足の裏は完全に掘り返され、血液にどす黒く光っている発掘物が、金属の容器の底に固まっていた。悲鳴を上げる正彦は私にかじり付いてきた。泣き喚くのを無理に抑え付け、手術はどうにか終わった。(正広は丈夫なズック靴のお陰で足の裏はまずまず無事)
八月二十六日夕方、釜山の埠頭に貨車は着いた。翌日、私は子供たちを連れて埠頭に行き、一人ずつ裸にして、瘦せ細って腹の突き出た体の垢を落としてやった。私たちはD・D・Tの消毒を受け、大きな貨物船で九月十二日に博多港に着いた。船中では夜半、「うるさいぞ! なぜ子供を泣かすんだ!」という罵声にびくびくし通し。正彦と咲子は全身おできだらけ。栄養失調の症状の一つで、おできに瘡蓋ができ、睡眠中の夜半、無意識に体を動かして瘡蓋が取れると「ぎゃっ」と悲鳴を上げる。私は子供を抱き寄せ、声を立てさせまいと努めた。
最後の夜、妙に感傷的になり、北朝鮮の丘の上で歌った「流れる星は生きている」のメロディが唇をついて出た。――いつか貴方にまた逢える/きっと貴方にまた逢える/ご覧なさいね 今晩も/流れる星は生きている――
口の中で低く繰り返し繰り返し歌っていると、涙の糸が頬を伝い、耳朶を伝い、船倉の床まで細く細く続いていた。そして自分自身が段々浄化されていくように落ち着いてくると、私は夫が傍に居る時のように久しぶりに安らかに眠りに入っていった。
私は子連れで引き揚げ列車(有蓋貨車)で門司に向かい、長い時間待たされて、東京行きの深夜の普通列車に乗車。座席は取れず、通路にべったり座った。名古屋で中央線に乗り換え、塩尻に朝四時頃到着。新宿行きの汽車で岡谷を通過すると、車窓に諏訪湖が一杯に見える。薄い朝霧の中に沈んだように美しい。汽車は上諏訪に到着。待合室の大きな鏡に映った私の姿は、我ながら恐ろしいばかり。墓場から抜け出して来た、幽霊そのままの姿だった。
駅前から電話をかけ、家族が出迎えに来る。二人の弟の孝平と良平、そして妹のれい子。(あっ!)と声を上げ、体当たりするような勢いで飛びついてきて、激しく泣き出した。大声で泣くれい子の力強い抱擁に、私の張りつめていた感情はどっと崩れてしまった。「おう、てい子」――両親の声が聞こえたが、もう涙で前は見えなかった。
▽筆者の一言 本編を通読し、巻末の辺り、弟妹たちや両親との再会場面に及んで、グッと熱いものがこみ上げた。「ああ本当に良かった!」と安堵の思いだろう。読む者に涙を流させずには置かない強い感銘が全編を貫く。筆者の藤原ていさんは帰国後、体調を崩し、発熱が続いた。この一編は「三人の子供たちに遺書のつもりで書き出した」という。旧軍部と官僚が犯した無責任と非人道ゆえに日本の開拓民・居留民32万人は筆舌に尽くせぬ塗炭の苦しみをなめさせられた。「ヒロシマ」「ナガサキ」に準ずる悲劇と言っても良かろう。それにしても、「母は強し!」。母性愛の気高さには、改めて敬服~脱帽するほかない。翻って、現下のガザの惨状。唯々茫然とし、己の無力さ加減にひたすら胸が痛むばかりだ。
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