『南相馬日記』その3 鄭周河 (写真家)
- 2023年 12月 18日
- 評論・紹介・意見
- 南相馬原発事故小原 紘鄭周河
韓国通信NO733
<佐々木孝先生のこと>
11 月 2 日、佐々木淳さん夫妻と再会した。5年前に 彼の父親である佐々木孝先生( 2018年逝去79才 )がなくなった。それまで弔問できなかったのはコロナ渦で暫くの間日本とご無沙汰していたためだ。
先生と同居している子息の淳さんとはよく夕食をともにした間柄である。 素敵な料理と娘の愛ちゃんの可愛らしさが心に残っていた。言葉が通じなくても家族をあげての歓待は忘れられないものになった。
認知症の妻を看病していた先生が亡くなり、残された奥さんがどうしているのか、南相馬に来てからずっと気になっていた。
11月1日、夕食に原町通りにある釜山食堂に出かけた。その店は以前 何度か行ったことのある食事のできる「飲み屋」である。店内に客はなく、白く冷たい光だけが窓越しに照らす淋しげな食堂をぼんやりと眺めていた。食欲もなく酒も飲む気も失せてホテルに戻ろうとした時、右側の小さな路地が佐々木先生の家に行く道だと気がついた。何回も通ったはずの 道だったが、夕闇で気づかなかった。
佐々木先生のお宅へ行こうと思った。日本のお悔やみの仕方がわからない不安があり、突然の訪問に先方が当惑するのではないかと考えたが、翌日、とにかく 出かけることにした。
先生とは長い付き合いではなかったが格別なものだった。やさしい人柄の先生からたびたび自宅に招かれた。胸襟を開いてこれまでの人生と人生観を語ってくれ、夕食に親しい友人を呼んで紹介してもらったこともある。
先生は日本、中国、韓国の青年たちとの交流、学習会、一緒にコーラスをする活動に力を注いでいた。
それは 3·11東日本大震災後から始まった。私の拙い英語力で知りえた先生について記しておきたい。
佐々木先生の夫人は中国人。 在日朝鮮人の徐京植先生との出会いが佐々木先生に大きな影響を与えたようだ。
何回も聞いた話である。幼い頃、外出先から南相馬に戻ってくると遠くに無線塔が見えて「ああ、家に帰ってきた」とほっとした思い出。 3·11以後、福島に住む在日朝鮮人たちの生活難。また無線塔の建設作業に従事した多くの朝鮮人が犠牲になったことを知った。 何をすべきか考えた末に始めた活動である。だがその夢もこころざし半ばで消えてしまった。
<写真/佐々木孝氏/「モノディアロゴス」ネット記事より転載>
韓国でも翻訳された名著『原発禍を生きる』の著者として知られる先生はスペイン思想の研究者だった。 清泉、純心女子大学の教授を務めた後、2002年に祖父の家がある南相馬に移り住み、原発事故当時、年老いた母親と妻の美子さんを看病していた。 彼は国の避難指示を拒否してそのまま南相馬に暮らし続けた。日常の不条理をかみしめながら、活動範囲を家から半径1キロ以内と定め、原発事故に抵抗し闘った。 この時期に書いた記録が上記の本だ。 苦悩を全身で受け止めながら、真心と親切、反逆の心で武装して生きた。
南相馬のもう一人の友人、西内さんは対照的な付き合いだった。西内さんは私の写真撮影にいつも付き合ってくれた。南相馬に到着したその日からずっと案内役をしてくれた。一仕事終えると馴染みの飲み屋で寿司と刺身で酒を酌み交わした間柄。佐々木先生とは対照的に自宅に行ったことも家族と会ったこともない。今回は体調を崩して会えずじまいだった。お見舞いに行くにも家がわからない。気がかりな日本人の友人である。
佐々木先生の死を考えると気持ちの整理がつかない。遺影に向かって「三拝」しても、気持ちは晴れなかった。夫人は寝たきりの状態のまま。 運命は天が与えるものなのだろうか。 健康だった先生が癌で亡くなり、先生の介護を受けていた認知症の妻は生き続けている。それも 植物人間の状態で。挨拶しようと枕元へ近づくと、いびきをかいて眠っていた。 いや、いびきをかいて生きながらえていたというべきだろう。
淳さんに「写真をとっていいか」と聞くと構わないという。撮影することの倫理的な意味を考えしばらく躊躇った。夫人の姿を見るのは最後と思いシャッターを押した。夫人は少し口を開いたまま眠っていた。
暇乞いをして玄関に行くと、下駄箱の上に先生と孫娘の愛ちゃんが一緒に写った写真が思い出の品とともにかざられていた。 敦さん夫妻と孫娘と昏睡状態の妻が今でも先生の存在の重さを感じて暮らしているように見えた。
別れ際に淳さんが一冊の本を差し出した。岩波文庫の『大衆の反逆』。 著者はヨセ・オルテガ・イ・ガゼット、訳佐々木孝である。先生はガゼットを大変尊敬して、亡くなるまで研究を続けたという。 2006年から翻訳を始め、2018年に脱稿。亡くなる直前の2018年12月に子息に出版を言づけた。
訪れるたび、冬でも夏でも小さな部屋の片隅にあるパソコンの前に座って私を迎えてくれた先生を思い出す。 介護と絶望と希望の日々にパソコンから放出する荒い粒子に飲みこまれるかのように体を悪くしたのがわかったような気がした。15歳になった愛ちゃんは、2泊3日で東京へ公演を見に出かけて会えなかった。
黒い静寂の中を、よろめくようにホテルに戻った。夜来の 雨が降った道路は夜になると冷たく空気を下ろす。 生と死とその境界にいっぺんに出合い、帰る足は冷たかった。その晩、 酒は飲めなかった。
<なにかチグハグ…>
希望の牧場の牛たちと別れたのは午前9時50分。 ちょうどいい時間と思いながらカーナビを検索したら福島駅到着は12時5分と出た。乗る予定の新幹線は11時30分だ。 何とか間に合わせようと、必死になって車を飛ばした。 喉が渇いて手に汗がにじんだ。前を行く大型トラックが高速道路にもかかわらず80キロで走っているのがもどかしかった。
福島駅に到着して、新白河駅の待ち合わせの時間がなんと 11時30分だったことに気がつき、またもや慌てた。待ち合わせの時間と乗る時間を取り違えていたのだ。アウシュヴィッツ平和博物館の事務所に1時間半の遅れを連絡した。私のためにはるばる長野、千葉からやってくる塚田さんと小原さん、また小渕館長には申し訳ないことをしてしまった。
<嗚呼、牛たちよ、君たちは幸せか>
列車が走り出すと、5日の間に南相馬で見て感じたことが頭の中に押し寄せてきた。 何よりも「希望の牧場」で別れた牛たちの姿が脳と目に鮮明に浮かんできた。 お腹の下まで糞につかりながら食べている白菜の葉っぱと草は体にいいのだろうか。 草はベージュ色の1トンバックに盛られていたもので、すでに発酵していた。草がどこから来たのか、どんなに危険なのか私は知っていた。 南相馬を中心に数キロ内外には平地の田んぼと畑は二種類だけになっている。 一つは太陽光パネル。もう一つは客土を入れた工事現場である。
除草すべき土地にしみ込んだ放射能は洗い流すことができず、含まれた危険とともに切り離され、1トンバックに入れられた草を牛が食べているのだ。
牛は安全なのか? 牧場主の吉沢正巳さんは道徳倫理的に悪人なのか? 自分の信念と目的のために牛の殺害を拒否したのは適切なことなのだろうか? 残酷ではないか? 牛たちは幸せか? それらの牛に不適切な餌を提供し、強制的に生存させる意味があるのか? 私たちは吉沢さんをどう見るべきか? 彼が腐ったカボチャと放射能を含んだ草を餌にすることは間違いと非難できるのか? あの牛たちは人間の所業を証明する最後の証言者だが、その労苦に対する償いは何だろうか? もしかしたら、眺めているだけの私が間違っているかもしれない。
この不条理な状況に直面して、カミュが遂げられなかった克服の帰結のように、結局は順応して再び転がり落ちた石を山の上に押し上げながら人生の誇りを感じるのは最善だろうか? 神が与えた刑罰を私たちの人生に自負心として受け入れることは最善なのだろうか? それが最善の拒否であり反抗なのだろうか?
絶え間ない疑問が、車窓をかすめる風景とともに、私の脳裏をぐるぐると駆けめぐる。しばらくは何もできそうにない。 アウシュヴィッツ博物館の塚田さんはすべてわかった表情で日本酒を勧め、私は遠慮せず酔うに違いない。その夜、私たちは本当に酔った。 私も小原さんも塚田爺も一緒に! <南相馬日記3終わり>
『奪われた野にも春は来るか』-鄭周河写真展の記録(高文研2015.8.1)―には各地で開かれた写真展の主催者、来館者の発言が収められている。事故の「風化」が指摘されるこの時期にこそお勧めしたい刺激に溢れた内容である。巡回展のスタートとなった南相馬ての成功は今回登場した故佐々木孝氏の理解と努力に負うところが多い。何故、タイトルが「奪われた野にも春は来るのか」なのか。不気味なほどに美しい写真から何を感じるか。佐々木孝、徐京植、高橋哲哉氏らが語った内容については次回に紹介したい。間もなく14年目を迎える原発事故について鄭周河さんとともにあらためて考えてみたい。
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〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔opinion13440:231218〕
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