世界のノンフィクション秀作を読む(53) 太田哲男の『レイチェル・カーソン』(上)
- 2024年 3月 1日
- カルチャー
- 『レイチェル・カーソン』ノンフィクション太田哲男横田 喬
太田哲男の『レイチェル・カーソン』(清水書院刊)――「環境の世紀」の到来を語った人(上)
二〇世紀は「経済の世紀」から」環境の世紀」への転換点と捉え、著書『沈黙の春』で地球環境の悪化に警告を発したのがアメリカの生物学者レイチェル・カーソン(1907~1964)だ。筆者の太田哲男氏(1949~、桜美林大学名誉教授:倫理学)は「地球環境の変化に警鐘を鳴らした先覚者」の素顔を紹介し、地球規模の喫緊の課題への危機感の共有を呼びかける。
◇若き日々
レイチェルは二〇世紀の初頭、アメリカ北東部ペンシルヴァニア州のピッツバーグ近郊の小さな町に生まれた。ピッツバーグは「鉄鋼王」カーネギーの本拠で、当時は鉄鋼の街として巨大な発展の最中。既に環境破壊の明白な事例と成っていて、製鋼工場の煙の充満する煤けた都市だった。だが、市民は煙にたじろがず、産業発展の象徴と見做していた。
彼女の父はピッツバーグの人で、農場経営や保険の仕事などに従事。母は学校の元教員だった。両親は、姉や兄とやや齢の離れた末っ子のレイチェルを事のほか可愛がり、早くから読み聞かせをしていた。彼女自身も小さい頃から知的好奇心が旺盛で、大きくなったら作家になると決めていたという。
十歳の時、児童向けの雑誌に投稿して銀賞を得、十ドルを受け取る。これを機にしばしば同誌に寄稿し、二年後には金賞を得ている。25年、地元のハイスクールを優等生の成績で卒業。ピッツバーグにあるペンシルベニア女子大学に入学する。彼女を優秀と見込んだ同大学の学長らが個人的な奨学金を用意してくれての進学だった。
作家志望だったレイチェルは、二年の頃に生物学にすっかり惹き付けられる。動物学を専攻し、実験室に籠って日々を過ごし、生き物の魅力に心を奪われていた。世界恐慌が始まった29年、第二位の成績で大学を卒業。奨学金を受け、メリーランド州のジョンズ・ホプキンス大学の大学院に進学。32年、修士号を得て同大学院を卒業する。
大恐慌後の時代で、暫くは職を見つけるのも困難だった。そんな時期に「初級水産生物学者」採用の文官試験があり、レイチェルはトップの成績で合格し、36年夏、米国漁業局に正式に採用される。合格者の中で女性は彼女一人で、給料は年間二千ドル。レイチェルの文筆の才能を認めていた漁業局の上役の許で、ラジオ放送の仕事も一年間続けた。
レイチェルは地元紙の編集者に注目され、その日曜版に海洋に関する原稿を執筆する段取りに。翌年秋、有名な海洋雑誌に投稿した論文『海の中』が採用、掲載され、七五ドルの原稿料を得る。四人家族の面倒を見る立場だった彼女は、感激に震えた。
◇ベストセラー科学者
彼女の役人としての身分は、水生生物学者助手(1942~43)を皮切りに、準水生生物学者、水生生物学者、情報専門官を経て、生物学者・編集長(49~52)となり、次第に責任も大きくなった。職場でのカーソンについて、同僚の一人は「熱心さと、それでいて茶目っ気のある性格の故に、たちまち打ち解け、彼女と親交を結ぶようになった」と回想する。
第二次世界大戦にアメリカが参戦した頃は、肉は前線に送るため、国内では「もっと魚食を」式の宣伝パンフなどを書く仕事が回ってきたりした。所属する部局では「環境保全の行動」という小冊子シリーズが作成され、カーソンはそれらの編集・執筆に関わった。渡り鳥保護法が成立し、何百という野生生物の避難所が設置されたが、彼女が関与したパンフ「環境保全の行動」シリーズは、これらの避難所の意義をこう説明していた。
――野生生物は人間と同様、生きる場所を必要としています。文明が進化するにつれ、野生の生活に適した土地は徐々に減少。野生生物の暮らす空間が段々小さくなると、その数自体が減退するのです。
カーソンは当時、「誰でも、自然保護には関心がある」として、こう記している。
――全ての人々にとって、野生生物とその生息地の保護は、人間も動物も生存のために持たなければならない地上の基礎的な資源の保護をも意味しています。野生生物、水、森、草原……、これらは全て人間の本質的な環境の部分を形成するものです。
45年秋、彼女は女友達とペンシルベニアの山岳地帯に出かけ、その印象をこう記す。
――ある山の頂で白っぽい石灰石の上に座った。それは何十、何百億という小さな海の動物たちの殻で出来たものである。かつて彼らは古代の海に抱かれて生活し、死んでいった。彼らの石灰質の遺骸が古代の海の底に積もり、悠久の年月を経過し、しっかりと固まって岩となり、やがて海は後退していった。さらに悠久の時が流れ、地殻の歪みによって岩は隆起し、今や長い山脈の尾根となった、という次第である。
49年夏、彼女は役所の調査船に五〇人の男性に混じって、出版関係の女性一人と共に乗船し、海に潜った。後にこの時の体験を「浅瀬の生き物たちの見せる色は、何と絶妙に優美で変化に富んでいることでしょう」と記している。
翌々年夏、カーソンの『我らをめぐる海』がオックスフォード大学出版会から刊行され、たちまちベストセラーになる。反響は素晴らしく、二八の言語に訳され、本国ではミリオン・セラーになった。この著作は、彼女の描いた『海の伝記』だ。大洋ほど興味を引くものはなかったが、その経歴・伝記を教えてくれる本はなかった。では、自分がそれを書こう。その誕生と初期の時代~その成長と変化を。如何にして、今日の姿に至ったか。今日、海はどうなっているかを。彼女は後に当時を回想して、こう述べている。「執筆に実際にかかったのは<たった三年>位だが、ある意味では一生を賭けて取り組んだ」
◇『我らをめぐる海』
カーソンにとって、大洋ほど興味を引くものはなかった。が、その委細を教えてくれる本はなく、では自分がその誕生や成長と変化を書こうとなったのである。同書は自然誌の最優秀作として表彰され、全米著作賞を受ける。
原稿の一部が雑誌『ニューヨーカー』などに掲載され、それによる収入は彼女の給料の一年分に匹敵した。ハリウッド映画界は同書の人気に着目し、RKOが映画化し、アカデミー賞のドキュメンタリー部門でオスカー(最優秀賞)を獲得した。
このベストセラー作品『我らをめぐる海』第二章は、以下のように書き始められている。
――あらゆる海の中で、その表面の中ほど、途方もなく生命の豊かな処は、どこにもない。船の甲板から見下ろしていると、ちらちら光るクラゲの円盤が、見渡す限りの海面を点々と覆い、その釣鐘のような体を軟らかく脈打たせているのを、何時間も何時間も、見ることがある。また、ある朝早く、船がレンガ色に染まった海の中を通っているのに、気づくこともあるだろう。その海には、何十憶、何千憶という顕微鏡的な微生物がいて、それらはみんなオレンジ色の色素粒を持っているのだ。
雄大な海の生命力・不思議さ・美しさが見事に表現されていて、その海に惹きつけられて見入っているカーソンの姿が目に浮かぶようだ。海に関する多様なデータ・事件を巧みに記述。地球と月と太陽の位置関係とに関連して海氷が夥しく発生する年があり、タイタニック号の沈没(1912年)がそうだった、とする。
また、ヴァイキングの活動は、当時の気候の温暖と不可分だった、とかいったエピソードも織り交ぜる。彼女は「堆積物は、一種の地球叙事詩である」と記す。このドーヴァーの白い壁の叙述に雄大な「叙事詩」を読めると知り、感嘆する英米人は少なくないだろう。
カーソンの叙事詩はマクロ的に壮大・雄大であるだけではなく、ミクロ的で厳密な観察に立脚し、その精巧さが驚きを呼び起こす。それは、「知的な認識」ではあるが、同時に「情緒的な認識」でもあった。
――ヨーロッパでは牡蠣の産卵活動が頂点に達するのは、満月または新月の二日後に起こる大潮の時だ、と確かめられている。北アフリカの海には、満月の夜、その時に限って、生殖細胞を海中に放出する雲丹がいる。
――夏の海には、何千とも数知れぬ小さな光が点々と煌めくことがある。このような効果は、強い燐光を発するメガニクティファニスという小海老の群れが起こすものだ。
この著作の魅力の一つは、文学に深く親しみ、詩人を志したほどのカーソンの文章・文体の卓越性にある。それは、海というテーマを潤いのある文章で表現した筆力でもある。文学への彼女の深い愛着の一端は、各章の初めに置かれた、海に関連する断片。『旧約聖書』からの引用を始め、ホメロスから、ミルトンやシェイクスピア、メルヴィルにシェリーらに至る作品などからの、短いが各章の内容を暗示する引用だ。
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