女・母・家族を問う(4) 障害者と「結婚」― 三木由和『ちょっとうるせぇ障害者』より (その1)
- 2024年 3月 10日
- 時代をみる
- 池田祥子障害者
「障害者」と「障碍者・障がい者」
2023年12月、公私ともにお世話になっている石川愛子さんから、私は、出版されたばかりの本書(三木由和『ちょっとうるせぇ障害者』社会評論社)を頂いた。中を読んでみれば、埼玉の津田道夫を中心とする「障害者の教育権を実現する会」の月刊誌『人権と教育』(388~441)に連載されていたというではないか。ここでも石川愛子さんが編集担当だったし、私も何回か書かせて頂いている。それなのに、三木由和さんの名前も文章も記憶にないとは・・・迂闊とは言え、恥ずかしい限りである。
それにしても、「実現する会」でもこの三木由和さんの本書にも、当たり前に「障害者」という文字が使われている。この点に、私は改めて、社会の「障害者差別」に真っ向から立ち向かおうとする強く・潔い抵抗の姿勢を改めて感じとることができた。
「能力主義」を基本に据えている資本主義社会で、「障害者」差別は、実は最後まで残り続ける社会的差別の一つではないか・・・と私を含め、多くの人は思っているかもしれない。それ程に、「障害者」差別を克服していくのは、現代を生きる私たちの困難なテーマの一つだと思う。その長い道程を思うゆえか、せめて現在においても、多くの人が、「障害者」という文字表現自体、とりわけその中の「害」という文字に抵抗感を持ち、「障がい者」あるいは「障碍者」という表記を用いることで、現実の障害者差別を、とりあえず少しでも緩和したいと思っているようだ。なぜなら、「害」という文字には、「害悪・害毒・害虫・殺害・迫害・危害・薬害・凶害・災害・惨害・・・」などなど、この上なく「悪い状態」を意味する際に用いられる漢字である。それゆえに、「障害者」という「害」の文字を含む言葉が、あえて避けられてきたのであろう。
それに比べれば、「碍」の方は、「邪魔をする、妨げる」という意味であり、そこに存在しているモノ自体を撤去し取り除くことは、意図しさえすればさほど困難とは思われない・・・という「意味を持つ文字」なのであろうか。それゆえに、現実の「障害者」差別に反対する者として、あえて「障碍者」ないし「障がい者」という表記を選択し、「障碍・差別のない社会」を志向する姿勢を、「いま、ここでも」示しているのだと思われる。・・・と言う訳で、「障碍者・障がい者」と表記する人たちの思いも分からなくはないが、しかし、あえて、現実社会の実態に即して、「障害者」と端的に書き表わし、その「障害者差別」の実態に向き合い、その克服のための活動を諦めない、という意味で、かつての『人権と教育』や、今回の三木由和さんの著書の姿勢やメッセージに改めて共感を覚えたのである。
4歳の時の自己主張と父親の決断
本書に記されている通り、三木由和さんのパワーは通常以上、次々と驚かされる。ある研究会で「鉄人・三木由和さん!」と紹介されているが、それは決して誇張ではない。
その原点とも言えるエピソードが、「4歳の時の自己主張!」であろう。
三木由和さんは、千葉県富津市大貫の漁村で、1961年に生まれている。生後7カ月で風邪が元で脳性小児麻痺となった。4歳の時に、肢体不自由児訓練施設「育成園」に、親元から離れ入所させられている。親たちは、由和さんの「肢体不自由」を少しでも早く訓練させて、できるだけ「人並みの動作」ができるように!と思ってのことであろうが・・・親にとって、とりわけ当の由和さんにとっては、人生初めての、よく理解できないままの辛い「別離」であっただろう。
入所から半年後の正月休みに、久しぶりに家に帰ってきた由和さん。「4歳の自己認識力」で、家庭と施設との違いをまざまざと感得したのであろう。いざ、施設に戻ろうという日、
「・・・私は自分でも思いもよらぬ行動に出る。土間に一番近い、欅の大黒柱に無言でしがみついた。とはいえ、両手を広げても柱は太く指がやっと引っ掛かる程度である。無我夢中だ。母が手を剥がそうとしたとき、今度は両足で柱を挟み込む。ここまで、態度に出してしまったら、腹をくくるしかない。/「いやだ!行きたくない」と言葉も出始めた。それでも、「バスが来ちゃうから」となおかつ、柱から引き離そうとする。/
その時、土間で一部始終を見ていた父の口から思いもよらぬ言葉が突いて出る。/「そんなに嫌なら、行かなくていい!」/これに対し、母が、「だってよ!」/と納得できない返事だが、その返事をしながら、私を引く力は明らかに弱まっていた。」(p.8-9)
この4歳の時のとっさの決断と、父親の判断。これが、これ以降の由和さんのエネルギッシュな人生の原点であり、極めて象徴的な出来事である、といえるだろう。まさに「三つ子の魂百までも!」である。
これ以降、日中は一人で広い家に留守番である。お守りは白黒テレビ。ただ、歩行がまだ不十分で、全身に力も乏しく、一度倒れると、一人で起き上がるのに四苦八苦する。歩き始めの乳児のカタカタと音のする歩行器を使って、バランスがとれず転んだり、逆に、歩行器に重しをつけてもらうと、今度は重くて動かない。
そんな姿を見ると、母親は、「自分で転んだんだから、自分で立て。誰かに倒されたわけじゃない」、・・・そう言って怒鳴る、という。だから、由和さんは、この母親の前では泣けない。
転んでも転んでも、時間がかかっても自分で起き上がる。ここでも、自ずから「七転び八起き」、由和さんのパワーが蓄積されていったのであろう。
由和さんにとっての学校・教師・基礎学力―「高校の定時制」を知って
1977年、義務教育の最終学年、由和さんは中学3年生となる。「能力主義」を前提とし、「適正な選別」をポリシーとした日本の学校教育制度の下、「養護学校義務化」(1979年)が制度化される直前である。
ただし、戦後生まれの「第一次ベビーブーマー」たちが中学を卒業するのが1960年代初め。この頃から、小・中学校の空き教室の利用でもあったのか、障害児童のための「特殊学級」が制度化されていく。同時にこれ以降、「高校全入」運動も活発化し、大学進学も大衆化し、社会の「教育熱・進学熱」が一層加熱化していくのである。
由和さんは、当然のように、小学校も、中学校も「特殊学級」に席を置いていた。しかし、「障害者は養護学校に!」という文部省のポリシーの下、小学校でも、中学校でも「養護学校」への転籍を勧められたそうである。
4歳の時の「施設」の経験がある由和さんは、地域から離れた「障害児」だけの「養護学校」には拒否感が強かった。「普通」の子どもたちには、当然のように、高校―大学への進学の道が用意されているが、由和さんにとっては、「障害者のための養護学校」しか選択の余地がない。ただ、由和さんにとっては「施設」も「養護学校」も、二度と行きたくない場所だった。・・・だったら、どうしたらいいのだろう?
由和さんが選んだ道は、地域での「就職」だった。
特殊学級担任の金子先生に連れられて、木更津の職業安定所に行き、書類を提出する。
そして、「障害者でも引き受けてくれる職場」として、指輪のリング磨きの仕事や養鶏場などに出かけて行くが、麻痺のある手が動かなかったり、鶏糞を運ぶ重労働に耐えられそうもなく断られてしまう(もちろん、本人も早々に諦めてしまうのだが。)せっかくの就職の道を選んだのに、現実は予想以上に厳しい。
ところが、ある時、友人が「養鶏場なら、俺ン家の近くにあるよ!」と教えてくれ、その友だちと二人だけで養鶏場まで出かけて行った。しかし、そこは「悪いねー、うちは人を増やす予定はないんだよ」と言われ、スゴスゴと帰って来る羽目になるのだが、ただ、そこの主人は、由和さんに面と向かって話をしてくれた唯一の人だった。それまでの職安の職員や仕事場の主人は、教員や母親だけに話しかけ、由和さん相手に話すことは皆無だったのだ。
友人の折角の好意で出かけて行った養鶏場だったが、「自分で見つけ、自分で出かけて行った」場所で、対等に相手にされたことが嬉しくて、仕事は見つけられないままながら、由和さんは、少しだけいい気分になることができた。
それでも、その後は一向に職安からの情報もなく、学校も、担任からも何の話もないままだった。
年末、そろそろ卒業も迫ってくる頃、たまたま友人と町で出会って、誘われるまま彼の家まで行くことになった。そして、そこで友人の兄にも出会って、その兄が新日本製鉄の工場で働きながら、定時制に通っていることを聞く。「テイジセイ?!」・・・初めて耳にする言葉である。「テイジセイって何?」
由和さんが「テイジセイ=高校の定時制」の存在を知った事!これが、4歳の時の最初の抵抗に次いで、彼にとっての重大な転機を用意してくれることになった。
木更津定時制高校への入学―読み書き、アルファベットの初歩から
施設や養護学校には行きたくない!就職したい!と思っていたのに、就職とは、思っているほど甘くはないことを知らされた由和さん。そこで、高校に「定時制」があることを知らされ、まさしく「闇夜に灯り」の気分だったであろう。
しかし、「受験勉強」を始めるに当たって、中学の国語、数学、理科、社会、英語、5教科の教科書を1年生から3年生までの全てを畳に並べてみて、由和さんは愕然とする。そのほとんどが「一度も開いたことがなく、きれいなまま」だったのだ。
国語の中学1年の教科書。「漢字」はカルタで少しは知っていると思っていたのに、中学1年の「国語」ですら漢字が多すぎて、さっぱり読めない。英語のアルファベットは、大文字はいくらか読めるのもあるが、小文字はほとんど読めない。もちろん、文法などは全く無知の世界だろう。要するに、中学までの「特殊学級」に在籍してはいても、そこは「学習=基礎学力」の場とは無縁だったのである。
普通なら(?)、まずはこの段階で愕然として、高校「定時制」ですら諦めてしまうだろうと思われるのだが、由和さんは、何と「前に進もう」とする。それが、この後の由和さんの次々と展開するチャレンジに繋がっていくのである。
ただ、ここでは、教師たちのさまざまな対応を紹介するに留めておこう。教師たちの、「差別」スレスレの眼差しや、「高校定時制」への軽視、蔑視を内に秘めた「いい加減さ」等々に、由和さん自身が守られもし、また、そこから彼自身も育てられていくのである。
* 担任の金子先生との対話
「先生! 俺、定時制高校って受験できるかなあ?」「うん、もちろん受験はできるよ。まだ締め切っていないから大丈夫だよ」/「先生! 俺、受かる可能性あるかなあ?」「ああ、可能性はあると思うよ。定時制って学力よりやる気を重視すると思うよ」(p.25)
「先生、定時制って、何点とれば受かるのかなあ?」「ああいうところだから、点数よりもやる気が優先されると思うんだよね。0点じゃなければいいんじゃないかなあ!」(p.27)
* 笹先生の受験の指導
「問題を開く前に必ず深呼吸をしなさい。そのあと心の中で、よしっ!と言ってから問題にかかること。もしaにするかbにするか迷ったら、最初に決めた方を選びなさい。第一印象はだいたい正しい」(p.30)
* 受験が終わった後。担任の金子先生と(英語が0点かも知れないと落ち込んでいる由和さんに)
「でもね、三木君、全面正解するのも難しいけれど、全部はずすのも難しいからね」
・・・(さらに重ねて)「でも三木君、仮に合格しても行かないんでしょ!」(p.31)
* 木更津東高校での判定会議の席で(脳性小児麻痺の実際の状態などが議論されて)。
高橋清行先生
「そんなのは、やらせてみなけりゃ分からんでしょ! 本人がやりたいと思っているのだから。やって見て、できなかったら、きっと自分から辞めていくでしょ」(p.34)
◎ タイトルに掲げている「障害者と結婚」については、次回に回します。(池田)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔eye5211:240310〕
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