世界のノンフィクション秀作を読む(57) ウィリー・ブラント(元西独首相)の『ナイフの夜は終わった』(上)
- 2024年 3月 14日
- カルチャー
- 『ナイフの夜は終わった』ウィリー・ブラントノンフィクション横田 喬
ウィリー・ブラント(元西独首相)の『ナイフの夜は終わった』(朝日新聞社刊、中島博:訳)
――波乱に富む反ナチ闘争の自伝(上)
著者(1913~1992)は東西冷戦期での東方外交(対ソ連)の功績でノーベル平和賞(71年)を受けた人物だ。十代で社会主義運動に身を投じ、北欧へ転進~辛苦の連続の反ナチ闘争を展開。第二次大戦後はファシズムに代わる共産主義との闘いに苦闘した。どのような逆境にもめげず、弾圧にも屈しなかった勇気の持主の素顔に触れてみたい。
◇ニューヨークにて
1959年2月10日正午、私はオープンカーに立って、シティホールを指しブロードウェイを走っていた。街角には四列にも五列にも重なり、人々は両側の歩道に立ち尽くし、歓声を上げ、拍手し、小旗を振った。ビルの窓という窓から紙吹雪が降り、歓声が上がった。
『西ベルリン万歳!』。赤の独裁に対して自由と人間的権威の第一線となって闘っているベルリンに対して、ニューヨークはその同情を示そうとした。アメリカ人は西ドイツを廃墟から立ち上がらせるために大きな犠牲を払った。ベルリンは戦後の最も深刻な危機の源の一つである。ソ連は政治攻勢の口実に使うために、危機を作り出してきた。
彼らは共産圏の内部に自由なベルリンが存在することは邪魔だった。西ベルリンの復興、脈動する経済的、知的生活と、東ベルリンの灰色の廃墟との対照は余りにも大き過ぎる。連日、西ベルリンへ逃亡してくる男女の数――この十年間にそれは二百万以上にもなった――は、明白に事実を物語っている。私はベルリン市長であって、ドイツ連邦の外相ではない。私が望んだのは、ベルリンは決して降伏しない、ベルリン市民は頼りにできるのだということを自由諸国の人々に出来るだけ、はっきりと認識させることだった。
◇自由への脱出
ヘルバート・エルンスト・カール・フラール(ウィリー・ブラントの本名)という少年は1913年12月、リューベック(バルト海沿岸の港湾都市)で生まれた。母は非常に若く、協同組合の売店の売り子だった。父がどんな人かは不明(然るべき市民だったが、事情あって婚姻には至らず)で、私は母方の姓を名乗った。
家は居間と台所が一つずつの労働者住宅。四、五歳の頃、兵隊帰りの母方の祖父が同居するようになり、私は彼を“パパ”と呼んだ。汗臭く、軍服の臭いがした彼は私を非常に可愛がった。正直一途な男で、素晴らしく話上手。どんな質問にも答えることができた。
彼は社会党の信奉者で、郷里の村の最初の党員の一人だった。八つ、九つの頃、私は忘れ難い経験をした。リューベックの労働者が一斉ストに入り、全面的な工場閉鎖へ。苦しい日々が続き、飢餓が悪地主のように台所に立っていた。私はパン屋の店先でロール巻きをもの欲しげに見つめた。たまたま居合わせた工場の支配人が、私にパンを二塊買ってくれた。息せき切って家へ辿り着いた私に、祖父は怖い顔でパンを返しに行くよう指示。「敵から買収されてはならんのだ。乞食じゃないんだから」と叱った。
ヘルバートはよくでき、学級で一番だった。呑み込みが早く、本も貪るように読んだ。祖父から、今後は戦争なんかなくなるとか、(理想の政治が)永久に全ての不幸をなくさせるか、という話を好んで聞いた。彼は新しい社会民主党の領袖の面々を英雄視していた。
1923年、インフレは頂点に達し、十歳の少年にはその原因は理解不能。その具体的な意味は、給料をもらったらすぐ食料品を買いに走らねばならなかった時によく判った。その翌朝には、その金はとっくに値打ちを失ってしまっていたから。新マルクが実施された時、旧紙幣の十兆マルクは新マルクでなら一ペニヒ(百分の一マルク)の価しかなかったから。
十三歳になった時、私は成績優秀ゆえに高校進学の奨学金が賦与され、翌年、土地の有名な上級高校に入学する。その高校で送った四年間は、私の人生で重要な期間だった。そこで受けた立派な教育だけでなく、私は生まれて初めて異質の世界に入ったからだ。労働者階級出身の少年は、ほんの二、三人。若い共和国に同情を持つ教師もまた少なかった。
高校を卒業後、私はいわば必然的に社会民主党青年部に入った。祖父も、私の母も、社民党の活発な党員であり、労働組合の組合員だった。言うならば、私は社会主義の中に生まれて来たようなものだった。だが、私が党組織の中で、何の苦労も失敗もしなかった訳ではない。青年運動は、基本的にはロマンチックな点が多かったので、私は惹きつけられた。ハイキング、親しい仲間、キャンプ生活などがあった。私は大自然が好きだった。北海やバルト海を訪れ、ライン河の一つの島で一夏を過ごしたことがある。私は、美しい丘、古城や廃墟、それらにまつわる神秘的な伝説の虜になってしまった。
熱心に読書し、夜遅くまで人生の意義を論じ、宇宙の謎を解こうとした。もっと重要なことは、共同生活から学んだ実際の民主主義であった。社会主義青年運動は良い訓練となった。私は弁が立った。そのため十六歳で既に責任のある地位に付けられ、一時は地区支部長になったこともある。1930年、私は正式の党員として社会民主党に入党を許された。
党員となるには十八歳以上でなければならなかったが、例外的措置が認められたのだ。ユリウス・レーバーが私の保証人となってくれた。リューベック社会民主党の指導者で、ドイツ議会の議員。演壇での豊富な言葉や表現力に満ちた身振りは、ローマ帝国の護民官もかくやと思わせた。彼はインテリではあったが、一般大衆や労働者は仲間扱いにした。彼らの胸底にあるものを表現し、その願望や希望を嗅ぎ取る的確な本能を持っていた。
私は父親無しに大きくなり、私の生活にはどこか空虚な所があったが、レーバーはそれを充たしてくれた。彼は私にとって、教師や旧友以上のものであった。レーバーは私に自信と励ましを与えてくれ、その一方、私の若者らしい性急さをすかさず批判してくれた。
1930年という年は、決定的な変化をもたらした。社会民主党は連邦政府から外れ、その影響力の多くを失っていた。我々は公私の集会でヒトラー青年団員と衝突し、言葉の弾丸で、あるいは拳を振るって闘った。九月、ナチは帝国議会に入った。百七人という強力なもので、第二の強力政党となった。その勝利は、左派政党の失敗に対する失望をより深くした。社民党青年部の間では党指導部に対する反感が高まった。
失業者の数は月ごとに増えた。そのうちの何百万人は全く就職の当てもなかった。彼らは職を求めたが、政府は「生きるには少な過ぎ、死ぬには多過ぎた」補助金で彼らを追い払った。危機は革命手段を必要としていたが、社会民主党は決議以外には何一つ手を打とうとしなかった。青年と市民とを問わず、逆マンジ卍の襟章を付けた失業者の数が増えた。
これまでは公衆便所の隅っこにしか書かれていなかったナチのスローガンが、今や公然と多くのビルの壁に、大きな幟に現れてきた。「ドイツよ起て! ユダヤ人に死を!」。ナチの突撃隊は、ナチに反対する者を倒し、殺すことによってドイツの“若返り”のために働いた。多くの街路が戦場となった。一方、社会民主党左派の急進化は、ナチの挑発と高まる経済危機によって、なお酷くなった。それは、青年と党指導部との亀裂を更に大きくした。
31年夏、私は一人の友人とノルウェーへ旅行した。私はコペンハーゲンへ行き、そこから貨物船でベルゲンへ向かった。私はノルウェーの風光美や峡湾や氷河に夢中になった。ここには人工に損なわれない野生のままの自然があった。ノルウェーの国民はもっと強い印象を与えた。素朴な農夫は自然の威厳を具えており、自分の価値を知り、教養もあった。
私が政治問題を議論した人々は滅多に「民主主義」という言葉を使わず、「フォルケスチーレ」という語句を使った。それは「人民の政府」という意味だ。近代的意味での民主主
は、欧州の各国家ほど古いものではない。が、公共の問題を処理し統制することに個人が実際に参画するという意味では、この語句は人々の良心に深く根差している。
ヨーロッパの多くの国々に比べ、スカンジナビアの農民は決して自由を失っていなかった。封建制は存在していなかった。今度の旅行で私が最も感銘を受けたのは、階級や地位についての誇りが全くないという一事を知ったことだった。
デンマークの社会民主主義者はベルリンでドイツ議会を見学~ドイツの民主主義の将来に対し、極めて悲観的だった。議会の食堂で、それぞれのテーブルが「中央党専用」とか「ドイツ国家主義者党専用」とか表記された札を見た。議員が一緒に食事もできない国では、民主主義を打ち立てることは極めて難しい話だ、とこのデンマークの友人は言った。
コペンハーゲンでは議員たちは議会から食堂へ移ると、大抵は家庭や子供たちの話に興ずるか、一緒に二、三杯の酒を楽しむのが常だった。ノルウェーの議会では、同じ地区から選出された議員は、一緒に座ることになっていた。(万事に和気藹々・・・)
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