断捨離の手が止まる (2) 戦前期『ポトナム』の気になる歌人たち
- 2024年 3月 19日
- 評論・紹介・意見
- ポトナム内野光子
物置同然となってしまった和室のリフォームを思い立ち、生協のワーカーコレクティブの方に依頼、仕訳をしながら、不用品を運び出してもらった。 見違えるほど広くなった!六畳間、思わずごろんと横になりたいくらいだった。が、それからが大変だった。
近代文学館に寄贈する前に
かねて、日本近代文学館が寄贈を快諾してくださっていた、私が1960年に入会している歌誌『ポトナム』の戦前のバックナンバー(ただし、コピー)をの発送することになった。一昨年創刊百年を迎えた歌誌で、欠号は若干あるものの、1927 ~1944年(昭和2~19年)分である。講談社が昭和50年を期して企画した『昭和萬葉集』の選歌の依頼があったとき、譲り受けたものである。揃って所蔵する機関がないなかで、講談社が国立国会図書館、九州大学、立命館大学、東洋大学の図書館などでコピーして、仮製本した資料で、近代文学館でも未所蔵期間だったので寄贈することにしたのだった。発送前に、点検のためにと久しぶりに、あらためて頁を繰っていると、一結社の歌誌ながら、「昭和戦前萬葉集」さながらにも思える、激動の昭和史を読む思いがした。いざ、手離すとなると、頁を繰る手がにぶり、ついにメモを取り始めるのだった。以下敬称は略し、ややわずらわしいが、人名の後のカッコ内は『ポトナム』入会年を示す。
つぎのような先達の名前と作品に触れると、『ポトナム』の長くも、決して順風とは言えない歴史を思わないではいられない。1960年から亡くなるまで師事していた阿部静枝(1923)、私の入会時には亡くなっていた創刊者の小泉苳三(1922)、私どもの仲人をお願いした小島清(1926)、戦後の歴代編集発行人を務めた頴田島一二郎(1922)、君島夜詩(1922)、和田周三(1933)の若かりし頃の作品にあらためて接することになった。
『ポトナム』から飛び出した歌人たち
また、当時の同人、平野宣紀(1926)は『ポトナム』より独立して、系列誌とでもいうのか、1940年『花實』を創刊、同じく尾関栄一郎(1923)は1946年『遠天』、福田栄一(1925)は1946年『古今』、尾崎孝子(1924)は1947年『新日光』、森岡貞香(1934)は1968年『石畳』を創刊していることにも気づかされる。薩摩光三(1932)は1948年『岡谷市民新聞』というユニークな地域新聞を創刊したことで知られるが、『ポトナム』にも作品を発表しながら、1939年来『短歌山脈』も発行し続けていた。
さらに、尾崎孝子(1924)は1931年から『歌壇新報』、石黒桐葉(本名清作、後の清介。1934)は1953年『短歌新聞』と1977年『短歌現代』、只野幸雄(1932)は1968年『短歌公論』という短歌情報誌を編集発行している。今回、数枚の古い『短歌新聞』と『短歌公論』も出てきた。『短歌新聞』の方がすっかり茶色に変色しているのに、『短歌公論』の方はあまり変色していない、など感心していると、1970~80年代の拙稿の掲載誌であった。石黒さんと只野さんには、気にかけていただいていたのだと、あらためて思い出すのだった。
『ポトナム』には、歌壇への思いというか短歌愛が募ってジャーナリスト、出版者となっている人たちがほかにもいる。福田栄一と松下英麿は『中央公論』の編集長になっているが、小泉苳三は白楊社を、小島清は初音書房を経営している時期があり、新津亨は時事新報社に勤務しているし、片山貞美は角川の『短歌』の編集にかかわっていた。まだ私の知らない人たちもいるかもしれない。
阿部静枝の第一歌集『秋草』のあとに
・おのづからたらはぬ情(こころ)ただになやむひとをまもりつつわれもさびしき
・疲れつつつとめゆかへる夕みちに朝ゐし人夫なほ働けり
・霧さむき小屋の焚火にひととより手足の傷をいたはりあへり
・あやふきに勝ちしありがたさ祝はれてひとまへになみだかくしかねつ
・馴れぬ子の泣かん怖れをひそかにもちからだ洗ひてやりつつさびし
(『秋草』 ポトナム社 1926年10月)
今回の『ポトナム』のコピーで一番古いものが1927年1月号で、阿部静枝の第一歌集『秋草』批評特集号であった。いわば静枝の青春歌集であったはずの『秋草』は、山田(今井)邦子が指摘したように「自意識の強い愛憎の念の深い陰影をきっかりと持った複雑な心理が鋭く起伏してゐる」(「秋草の歌」『ポトナム』1927年1月、『時事新報』からの転載)歌集となった。後に静枝自身が「普通のめでたい結婚へあっさり入りがたい事情が両方にあった」(「阿部静枝歌集」短歌新聞社1974年3月)と語り、その詳細は不明ながら、上記5首にみられる背景は、静枝のその後の生き方や作品を形成しているかのようだ。未婚の母として、同郷の無産政党の活動家の弁護士阿部温知と結婚し、夫の選挙を通じて自身も無産婦人運動の活動家となってゆく。離れた地の人に預けた子への愛と葛藤は、1938年夫の死後、引き取るまで長きにわたって詠み続けられるのである。
・さつさつと噴水の秀のくづれをりふかく入り来て街の音せず
(青山御苑 1927年1月)
・さわやかにひとり死に遂げし君にあれやねたみかそけく持ちて香焚く
(芥川龍之介氏 1927年9月)
・柵により見送れる汝を見凝めをり暗き夜汽車に涙ぬぐはず
(秋 1927年12月)
・嵐来とおぼゆる曇りメーデーの吹きなびく旗の赤さ暗しも
(いま泣いた烏がもう笑つた 1928年6月)
・するが湾こえて相向ふ富士みつつその形積む児と砂浜に
(秋 1928年11月)
・乞食等にビラを渡さは嘲られん怖れひそみにわが見ぬふりす
(無産党闘士の妻1928年12月)
・ケーブルを降りてゆく山きりりとした秋の空気の冷たき圧力
(秋の伊香保 2029年12月)
・金!金!それを持つてゐる者は自然と私の敵となつてゆく
(選挙第一次1930年2月)
・一日の海の遊びに夕焼空のやうに日焼けた児の頬
(1930年9月)
・不幸になれた無産者がまだ頼つてゐる首相よ、神経がないのか
(1930年10月)
・日曜の朝はなほはやく起きて呼びながしものうる児達
(岐阜 1931年3月)
・旅立つ夫に一枚のあたらしいハンケチもてわたさなかつた
(忽忙1931年3月)
1929年後半あたりから、文語定型から口語破調の作品が多くなっていき、一時は、次に述べるプロレタリア短歌の詠草欄に一緒に掲載されることにもなった。それにしても、彼女の見聞・行動範囲の広さは、当時の男性歌人たちと比べても格段の差があったろうし、一般女性には想像もつかない世界であったかもしれない。夫の遊説、自身の活動、旅行などによって日本各地を訪れ、さまざまな施設にも訪れ、短歌にも詠んでいた。なお、夫との死別後から太平洋戦争期の静枝については、「内閣情報局は阿部静枝をどう見ていたか」(『天皇の短歌は何を語のか』 お茶の水書房 2013年8月)を参照していただければと思う。
プロレタリア短歌と出口王仁三郎にどう対処したのか
なお、すでに「『ポトナム』時代の坪野哲久」(『天皇の短歌は何を語るのか』 御茶の水書房 2013年、所収)にも書いたことだが、坪野哲久(1926年3月~28年10月)、岡部文夫(1927~28年10月)は、短いながら『ポトナム』の同人として活躍していたが、プロレタリア短歌をめざし「短歌戦線」に加盟し、退会している。ちょうど同じ頃、中野嘉一が1927年2月に入会、翌年には、復刊『詩歌』に参加、口語自由律の新短歌運動の中心となっていく。同じ1927年には、大坪晶一が入会して、『曇天と樹木』(1929年9月)『Cokaineとマダム』(1934年1月)をポトナム社から出版する勢いであった。
また、いわゆる『ポトナム』内のプロレタリア歌人たち、当時「ポト・プロ」と呼ばれていたそうだが、松下英麿(1926)は、「我が陣営として」大津徹三、牧村浩、沼三郎、南文枝、宝井青波らの名前を挙げている(ポトナム 1931年1月)。31年4月には、創刊10周年を迎えるが、彼らの作品「景気好転の経済面の裏は、大量解雇、工場閉鎖の社会面だ、みろ、デタラメのブル新聞を」(大津徹三)などはまだましの方で、シュプレヒコールにもならない、怒号のような「短歌」がまとめられて並ぶ。同じ号には結社外部から、誌面に統一がないことや「雑誌には自ら節操というものがあつて、何でもござれ主義となつては、最早其の雑誌の存在価値はなきにい等しい」とまで批判されている(矢島歓一「対ポトナムの意見と希望」)。
翌月31年5月号の「後記」で小泉苳三は、「プロレ短歌もシュウル短歌もすでに今日では短歌の範疇を逸脱してゐる。ポトナムとしてはその各に対しての歴史的役割を果して来たと思ふ。今後とも研究はつづけてゆくつもりであるが、現在の作品を短歌として認めることは否定したい。従つて誌上への発表も中止する」に続けて「ポト・プロの人達はいづれも年久しい同人達である。作品の上の主義は主義としてできるなら今後もポトナム内にあつてその方面の研究をつづけてほしく思ふ」とも記している。なお、大坪晶一『自叙伝青春挽歌』(短歌時代社1965年5月)には、この頃のポトナムや歌壇の様子は、『ポトナム』記念号の年史や回顧録には見られない人間関係やエピソードが綴られているのが興味深い。
また、この時期、出口王仁三郎(1930)の出現も見逃しがたい。出口は、大本教の教祖で、第一次大本事件で、不敬罪、新聞紙法違反に問われ、27年懲役5年の刑を受けている。1930年に『ポトナム』の維持社友となったとの報告がされていて、少なくとも1931年の『ポトナム』3月から11月まで、5首前後掲載されている。前川佐美雄の『日本歌人』、前田夕暮の『詩歌』をはじめ、一時は、100を超える結社に参加、短歌を寄稿していたというが、同年の『ポトナム』9月号の「消息欄」には、『アララギ』からは除名された、との記事もある。10月号の「編輯レポート」には、名前は特定していないが「他誌に席をおく人は去就を決せられたい」との警告もなされている。この年の5月には第一歌集『花明山』(明光社)を出版し、モダズニム短歌と評価されてもいるが、『ポトナム』の掲載歌を見る限り、変哲もない自然詠、旅行詠、家族詠のように見受けられた。歌壇に旋風を起こし、「結社」という存在が問いかけられたことだけは確かである。近年では、石井辰彦や笹公人による再評価もなされている。
発送直前の閲覧とメモを頼りのレポートとなった。もっと読み込んでおけばよかったと思う日もあるかもしれない。
処分の直前、慌てて撮った、かつての拙作「からたちの花」。1974年、職場の文化祭に出品か。職場の宮本沙海先生の先生、内山雨海先生から1974年1月に、いただいた「光雨」だったが、沙海先生の手本をまねるばかりで・・・。何十年前にしまい込んだ書道具だけはいまだ手離せないでいる。
初出:「内野光子のブログ」2024.3.18より許可を得て転載
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〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
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