ドイツ: 無関心とショック麻痺状態 – なぜ戦争拡大への恐怖は依然として沈黙を保ち、無反応なままでいるのか?
- 2024年 4月 6日
- 評論・紹介・意見
- NATO問題ウクライナ戦争グローガー理恵ドイツの世論
- びくともしない恐れ:つまり我々を怖がり屋だとバカにするような人々に対する恐れを排除し、びくともしない恐れをもつこと。
- 愛に満ちた恐れ:つまり自分たちに起こるかも知れないことだけを恐れるのではなく、世界の人々のために恐れるような、愛に満ちた恐れ。
はじめに
現在、ドイツ政府と主流メディアは「いつかロシアはドイツに攻めてくる。戦争は回避できない」とのナレティヴを売り捲っている。
例えば、2023年10月、ボリス・ピストリウス独国防大臣(SPD)は、ZDFテレビの番組『Berlin direkt』で、「ドイツはヨーロッパにおける戦争という考えに慣れなければならない」と述べ、安全保障問題に関するドイツ人のメンタリティーの変化を求めた。 さらにピストリウス国防相は、「ヨーロッパに戦争の脅威があるという考えに再び慣れなければならない。それはつまり、戦争に備えなければならないということだ。そして、ドイツ連邦軍とドイツ社会をそのために準備しなければならない}と述べた。
さらに、2024年3月、カール・ラウターバッハ 独保健大臣は次のようにコメントしている:「”軍事衝突 “に備えて医療体制を整えることだ。ドイツで戦争が起こった場合に備えて予防措置を講じたいと考えている。しかし、私はこれが脅しだと思われることを望んでいない」。
問題は、大多数のドイツ市民が、「ロシアが攻めてこないことを願うけど….仕方のないことかもね」と、戦争の可能性を扇動する政治家の発言やメディアの報道を批判することなく、そのまま、おとなしく受け入れていることである。 あの、平和を真摯に求めるドイツ人の姿はどこへ行ってしまったのか?
今回、ご紹介させていただくレオ・エンゼル博士(紛争研究者)著の論文「無関心とショック麻痺状態 – なぜ戦争拡大への恐怖は依然として沈黙を保ち、無反応なままでいるのか?」は、このようなドイツ人の「戦争拡大の危機」に対する受け身な姿勢に注目し、「多くのドイツ国民がウクライナでの戦争がNATO領域まで拡大することを恐れているのにもかかわらず、なぜ彼らは戦争拡大の危機を”回避できない自然現象”のようにとらえているのか?」と、自問しながら、どのようにしたら人々が差し迫っている危機に目覚め、戦争の終結を求めて積極的に行動するようになるのか模索し、ギュンター・アンダースが65年前に「原子力時代に関するテーゼ」で述べたように、恐れることを恐れずに、”恐れる勇気”を奮い起こすことの重要性を訴えている。
論文の著者・レオ・エンゼル博士について 写真: Leo Ensel氏 © cc
レオ・エンゼル博士 (Dr Leo Ensel) : ドイツ人。紛争研究者、異文化間のトレーナー。ソビエト連邦崩壊後と中・東欧の専門家。 彼の出版物は「恐怖と核武装」、再統一の社会心理学、ポスト・ソビエト空間におけるドイツのイメージなどをテーマにしている。新たな東西対立における彼の主な関心は、誤ったナレティヴに打ち勝つこと、ディエスカレーション、信頼の復元である。
エンゼル氏の論文に登場するその他の人物について
《ホルスト=エーベルハルト・リヒター》
ホルスト=エーベルハルト・リヒター(Horst-Eberhard Richter):(1923年4月28日ベルリン- 2011年12月19日ギーセン)は、ドイツの医師、神経学・精神医学の専門家、精神分析医、精神身体学教授、社会哲学者。多数の著作があり、ドイツ平和運動の「大老」と評された。[Source: Wikipedia]
《エーリッヒ・フロム》
エーリッヒ・セリグマン・フロム( Erich Seligmann Fromm): (1900年3月23日 – 1980年3月18日)ドイツ系アメリカ人の社会心理学者、精神分析家、社会学者、人文主義哲学者、民主社会主義者。ドイツ系ユダヤ人で、ナチス政権を逃れてアメリカに移住。ニューヨークにあるウィリアム・アランソン・ホワイト精神医学・精神分析・心理学研究所(The William Alanson White Institute of Psychiatry, Psychoanalysis and Psychology)の創設者の一人であり、批判理論のフランクフルト学派と関係があった。
[Source: Wikipedia]
《ギュンター・アンダース》
ギュンター・アンダース(Günther Anders): 1902年7月12日ブレスラウ生まれ、1992 年12月17日ウィーン没)は、ドイツ・オーストリアの哲学者、詩人、著述家。
アンデルスは、同時代の倫理的・技術的課題に関心を持ち、人類の滅亡を主なテーマとした。反核運動の共同創設者であり、中心的な人物であり、テクノロジーに対する厳格な批判者であり、メディア哲学者でもあった。アカデミックな哲学からは距離を置いていたが、アンダースは大学で研究対象として認められ、数多くの学位論文や学位論文の題材となっている。[Source: Wikipedia]
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原文(ドイツ語)へのリンク(Source: スイスの独立系メディア “Globalbridge”):https://globalbridge.ch/apathie-und-schockstarre-warum-bleiben-die-aengste-vor-einer-ausweitung-des-krieges-stumm-und-folgenlos/
無関心とショック麻痺状態 – なぜ戦争拡大への恐怖は依然として沈黙を保ち無反応なままでいるのか?(Apathie und Schockstarre – Warum bleiben die Ängste vor einer Ausweitung des Krieges stumm und folgenlos?)
2024年3月14日
著者:レオ・エンゼル (Leo Ensel)
[抄訳:グローガー理恵]
1981年10月、西ドイツへのパーシングIIミサイル配備に反対するボンでの抗議デモ CC0 撮影:Rob Bogaerts 氏
ある調査に基づくと、ウクライナでの戦争がヨーロッパのNATO領域までに拡大することを恐れている国民が明らかに多いという。なぜ、このような事が、まるで回避できない自然現象のように受け入れられているのであろうか?
『もしかすると後世の歴史家は、ほとんどすべての子どもたちが戦勝者にとってでさえ、もっとも恐ろしい苦しみをもたらす戦争に直面していたことを徐々に知っていたにもかかわらず、大衆は死に物狂いの決然とした態度で、大惨事を回避するために、あらゆることをやろうと試みるようなことはせず、同時に、軍備や軍事教育などを通してその準備が為されていることをおとなしく傍観し、しかもそれを支持さえしていたことを、その時代を生きた我々以上に不可解に思うかもしれない。』
今からちょうど40年前、私はエーリヒ・フロムのこの言葉を、1984年5月に出版された「恐怖ーより正確に:非恐怖と核武装(Angst – genauer: Nicht-Angst – und atomare Aufrüstung )」に関する本で紹介に使った。1937年、第二次世界大戦の前夜、フロムは彼の論文「無気力について(Über die Ohnmacht)」の中でこの文章を書いたのだった:あのとき1984年には、この文章が書かれてからすでに47年が経っていた。
なぜ私は、それから40年経った今になって、ふたたび自分の論文の冒頭をこの引用文で書き始めるのか ー もうこれ以上解説する必要はないだろう、残念なことに! 我々は、またもや戦争に直面しているのだ、いや: 戦争はとっくに東ヨーロッパで猛威をふるっている。 ”勝者”にとってもーそもそも勝者という者がいるとして、また、どのようなことが”勝利”として見なされるにせよー戦争は勝者にとっても”もっとも恐ろしい苦しみ”をもたらすものである、いや:もうすでにもたらしているのだ。 そして、この戦争はまだ頂点にすら達していないようなのである。起こりうる恐ろしさ/悲惨さの規模から見ると、まだ、恐ろしいほどに拡大する余地があるのだ。 言い換えれば: ウクライナの戦争が、ヨーロッパ全体、そう、もしかすると北半球を巻き込む大火へと発展するようなことは、とにかく起こらないのだという事、そして一方が確実に追い詰められたと感じれば、究極的な破滅の爆破装置が使用されるようなことは、結局ないのだという事は、いまだに確認されいないのである。
ただ、85年以上前と同様に、明らかに、この危険に全く誰も関心をもたないようであり、それどころか動揺すらもしていないようなのである。
無言と鈍重な静止状態
一方、私は何が自分を狼狽させるのか自問している:無遠慮さ、意に介さない無鉄砲さ、狂気に近い不謹慎さで、この国の政治家、軍部、メディアは、ほとんど一斉に、絶え間ないスタッカートで、日に日に、けたたましく、疼痛閾値までにエスカレートしていく — これまで以上に危険な兵器システムを供与することから、「ロシアに戦争を挑み、省庁、司令部、戦闘司令所を破壊する」というシナリオ や 欧米の「地上軍」を要求するシナリオまで — あるいは、無関心とショック麻痺状態 で、同時代の圧倒的多数の人間が、これらすべてを批判もせず文句も言わずに我慢していることである。
それにもかかわらず、表面下には不穏な動きが確かにあるようだ。 一見したところよりも、かなり多くの人々が徐々に不安を感じ始めているようなのである。INSAが2月末に行った調査では、61%が、ウクライナ戦争がNATO領域までに拡大する恐れがあると回答している。( 世界的な世論調査機関イプソス(IPSOS)が11月中旬に全大陸30ヵ国で実施した “世界情勢”調査によると、「今後12ヶ月以内の核、生物もしくは化学兵器による攻撃は現実的な脅威である」と考えている人は多国間の平均で71%までにも上った。)そして長い間、ドイツ人の圧倒的過半数【訳注:63%】が、ドイツ政府が和平交渉に、もっと堅固に関与することをことを望んできた。
これらすべては【訳注:これらすべての世論調査結果は】、あらゆる公式チャンネルから発せられるメディアの絶え間ない連続射撃的な報道を考慮すると、きわめて注目に値するものである。その一方、みんなの意識下に潜在する不安は沈黙を保ち、行動レベルにおいては、まったく何の成果も生み出していない。だから、我々は唖然として「実際は、とっくに起こるはずべきだった、あの絶叫はどこに留まっているのだろうか」と思案するのだ。
『世論調査によれば、我々国民の半数近くが戦争の可能性を信じている。人々は懸念しているのだが、ほとんど動きを見せない。 どうして人々は世論調査のアンケートで、大規模な戦争が目前に差し迫っているかもしれないということを、受動的に且つ少なくとも外見上は冷静に、肯定できるのであろうか?なぜ我々は、この件で起こるすべての事柄は人間の打算と決断の力の及ぶ範囲内にあるのに、あたかもこのことが、我々には影響力の及ばない自然現象であるかのように反応するのであろうか?』 これは、2011年に他界した精神分析学者・ホルスト-エーベルハルト・リヒターが、アメリカの核中距離弾道ミサイルの西ヨーロッパ配備に先立って、1980年の5月に書いた言葉である。「我々市民は奇妙にも、口もきけない黙り込まされた未成年のような状況に置かされていると感じている」とリヒターは、当時、「我々は平和への能力がないのか?[Sind wir unfähig zum Frieden?]」と題された論文の中で認め、「無言と鈍重な無反応」との診断を下した。
まぎれもなく、現在の状況との類似性は際立っているのだ。
同時に、”無言と鈍重な静止状態”が、他の社会政策のテーマでは、必ずしも優勢でないことに唖然とさせられる。何しろ、この2ヶ月で何十万人もの人々が「右翼に反対!」「カラフルでコスモポリタンなドイツを!」と街頭に繰り出したのであるから。しかし、これらのデモ参加者数と、これまでにウクライナ戦争での戦闘行為の終結を支持するデモに参加した人の数とを比較すると、グロテスクなアンバランス【訳注1】が浮かび上がってくる。明らかに、若い気候変動活動家たちだけでなく、コスモポリタンなドイツを訴えるデモ参加者の大多数も、 ウクライナ戦争が、思いもよらない危険性をもってNATO領域まで拡大する可能性があるということに気づいていないようだ。-
【訳注1】 グロテスクなアンバランス:ウクライナ戦争終結を支持するデモの参加者数が右翼反対デモの参加者数と比べてあまりにも少ない現象を嘆き、エンゼル氏はこれをグロテスクなアンバランスと呼んでいる。
恐れる勇気
それは、ギュンター・アンダースが65年前に「原子力時代に関するテーゼ」で書いたように、”恐れることへの勇気”を再び奮い起こすことである: 「小さすぎるものや脅威の規模に相当しないものが、我々の恐れの範囲である。恐れることを恐れるな、恐れる勇気を持て。 また、恐れを引き起こす勇気も持て。自分自身を恐れるように隣人を恐れよ。 そしてアンダースは続けた: もちろん、この我々の恐怖は特種なものでなければならない:
2. 活気のある恐れ:つまり 部屋の隅に閉じこもさせるのではなく、街路に繰り出させるような、活気のある恐れ。
最後にもう一度、ホルスト=エバーハルト・リヒターの言葉に耳を傾けてみよう。「脅威は、それと実践的に闘うことによってのみ、意識的に耐えることができる。」
そして、幻想にとらわれないで、”脅威との現実的な戦い”の現状を見てみよう:状況は劇的である。国民の圧倒的多数が無言で静止した麻痺状態にあるのだ。若い世代の気候変動活動家たちは軍備政策に対して盲目であり、”平和運動”というレッテルの下で今日も活動しているのは、もっぱら軽視され、高齢化し、形式主義で硬直化している。どうやら我々は、また最初からやり直さなければならないようだ。
それで、まだ十分な時間があることを願っている!
ー抄訳終わりー
以上
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔opinion13645:240406〕
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