女・母・家族を問う(5) 障害者と「結婚」― 三木由和『ちょっとうるせぇ障害者』(社会評論社)より (その2)
- 2024年 4月 8日
- 時代をみる
- 池田祥子障害者
三木由和さんにとっての木更津東高校定時制
生後7カ月の時の風邪が元で「脳性小児麻痺」となった三木由和さん。前回紹介した通り、4歳の時の「柱にしがみついての」自己主張―肢体不自由児訓練施設「育成園」に戻りたくない!家に居たい!―を、父親の一言(助け)もあって貫徹することになり、彼の驚くばかりの「意志の強い」人生が始まるのだが、もちろん、思いがけない局面が何度も彼を直撃するのだった。
まずは、9年間の義務教育を終えた後のことである。地元の小学校・中学校の「特殊学級」を、家族と別れることなく修了できた三木さんだが、その後は、養鶏場などでの就職を考えていたもののうまく行かず、ひょんなことから「テイジセイ(定時制)」を知り、結果として木更津東高校定時制普通科に入学、通学することができた。
しかし、日本の教育制度としての「特殊学級」は、言葉通りの「義務教育」として、子どもたちに「基礎教育」を施す所ではなかったのである。つまり、三木さんにとっても、形ばかりの「義務教育修了」でしかなく、「読み、書き」を初め、算数も、理科・社会の知識も、まして英語もアルファベットすら系統だって教えられてはいなかったのである。
今では差別語となっている「文盲」であるが、定時制普通科に運よく入学できたとしても、「読み書き」も算数・理科・社会・英語の基礎すら学んでいなかった三木由和さんは、その段階では明らかに「知識」の面に於いての「盲(めしい)」だったと言える。
しかし、三木さんは強運の人である。ここでは「救いの神」は「定時制の先生」だった。中間テストの後、元気なく歩いていた三木由和さんの肩をポン!と叩き、「元気ないぞ、どうした?」と覗き込んでくれたのは「社会」担当の「邦子先生」だったのだ。三木さんも咄嗟に正直に「あのね、俺勉強分からないんだよ、どうしていいか、分からない」と絶望的な弱音を吐いた。すると、夕方4時には学校に来ているという邦子先生。「その時間に職員室においで」と言ってくれたのだった。
定時制高校の4年間、この邦子先生との「課外授業」は、卒業式の日の、朝の時間まで続いたという。教師も生徒もビックリするような持続力である。他にも、授業中にノートが取れない三木さんのために、ノートを貸してくれる同級生が、一人、二人、三人と増えて行った。担任の馬場先生、物理学では天才肌の鈴木祥男先生、学内での「生活体験発表会」や千葉県での「弁論大会」への練習に付き合ってくれ、映画「典子は、今」に誘ってくれ、卒業の後も、いろいろなお芝居や映画に連れて行ってくれた世界史の高橋清行先生等々、この4年間の定時制高校で、三木さんは「人生を生きていくための基礎的な学力と、生きていくための教養と、喧嘩もできる友達」を獲得できたのである。
後に「鉄人」!(善元幸夫、亀口公一両氏などから)と称される三木さんにとって、この「木更津東高校定時制」の4年間は、まさに「基礎的教育」を獲得する上での必須の学びの場を提供してくれた、とも言えるであろう。もちろん、学び取って行ったのは、三木由和さん当人だったのは言うまでもないが・・・。
三木由和さんの「鉄人」的学びの軌跡
木更津東高校定時制卒業後の、三木由和さんの経歴を、ここでは簡単に、箇条書き程度に記しておくことにする。
まず高校卒業に当たって、担任の馬場先生は、「社会福祉系の大学」を勧めてくれたのであるが、一つは、父親が高血圧で働けなくなっていたための経済的事情、二つには、当人なりに頑張ったとはいうものの、出発がゼロに近かった学力である。4年間経過しても、学力的には世の中には通じない・・・ということで、「東京職業訓練校」を受験し、合格する。その時同時に、慶應義塾大学の通信教育・文学部史学科への在籍も獲得している(両親に入学金10万円を出してもらう)。
東京都身体障害者職業訓練校(東京都小平市)への入所(寮生活)
製靴科で底付け作業の訓練を受ける。寮生活は、監視が厳しく大学の勉強は許されず
三木さんにとってお守りのような教科書もしまわされたり、便器を手でこすりつけて洗わせるような意地悪をする先生もいた。訓練校では、もの作りは片手麻痺ゆえに苦手な三木さんだが、親切に教えてもらい最後には、人生の大切な時に使おう(結婚式に履いた)と、自分の靴を作った。
在籍中に、無理だと思っていた自動車の運転免許証取得に挑戦。自動車教習所「あづま園」の園長の言葉:「時間がかかっても、必ず免許取得できるからね。がんばるんだよ」・・・結果として、訓練校終了間近に「仮免許」取得した。
新宿区職員(小学校用務員)として就職
新宿区職員としての就職!当初は、本人も周りも「公務員としての就職!」と晴れがましく安堵していたという。しかし、アパートを借りての一人暮らし。しかも学校の現場では歴然とした職務差別。落合第六小学校での「最悪」に近い「用務主事」の現実が待っていた。
「用務員」は、昔々は「小使いさん」と言われており、多くは定年過ぎのオジイサンが多かったようだが、現在は、年齢も性別も多様である。「用務員」という呼称はなくなってはいないが、公的には「主事」である。ただしその中には、学童擁護員、給食主事、学校警備員、用務主事などが含まれている。昔から、子どもたちは「警備員さん」「給食のおばさん」「緑のおばさん」と親しみを込めて呼んでいたように記憶しているが、三木さんが就職した頃は、とりわけ「緑のおばさん」たちはその通称を嫌って、「学童擁護員」という呼称の方に優位的にこだわっていたという。
学校という職場での「教員と教員以外」というあからさまな身分差別。さらに「主事」の中での差別。「用務主事」のなかでも、「障害」をもつ三木さん。
その頃たまたま、郷里千葉大貫の父親の訃報が舞い込む。慌てて郷里に帰った三木さんに、葬儀に列席した教頭が、「実父の葬儀の場合は10日の忌引き」と教えてくれた。それで、10日の忌引きを使って職場に戻るや、主事室で先輩の4人に吊るしあげられる。
「同時期に忌引きをとった先輩が居るのを知りつつ、よくものうのうと10日間も休んでいられたな~」と。そして「お前なんか、いつでもクビにできるんだからな・・・」と言われ、何も抗弁できず、ひたすら両手を握りしめて太ももに両手を置いたまま。そんな状態で説教の続く2年間・・・ズボンのその辺りが、今にも穴が空きそうに擦り切れていたという。
父親の10日の忌引きの後の先輩の吊るしあげに耐えた結果、腹痛と吐き気に襲われ、「胃潰瘍」とのこと、さらに、1カ月ほどの休職になってしまう。
その後もさまざまな嫌がらせがあり、「いっそのこと、障がい者の年金貰って生活保護で暮らしたら・・・?」などとも言われ、ついに三木さん、自分から「異動希望書類」を教頭に提出する。ところが、教頭は、「三木くんが異動しなくても他の人が変わっていくから、この書類、なかったことにするよ、いいね!」と、彼がギリギリの思いで書いた「異動希望書類」を、彼の目の前でビリビリ!と破いてくれたのだった。
定時制高校を卒業して初めての職場。東京都新宿区の公務員。4月1日の初出勤の日は、スーツにネクタイを結び、晴れ晴れと100人ほどの新入職員の一人として入区式に臨んだ三木さんであるが・・・この「(用務)主事」勤務の間、三木さんはほとんどの記憶が「ない」のだと。記憶力にはどちらかと言えば「自信のある」三木さん。彼自身の推測によれば、「おそらくは、自己防衛の表れである・・・。嫌な記憶を悩から削除することによって、うつ病などから身を守ろうとしているに違いない。この当時のことをすべて覚えていたら、精神的にまいってしまう」(p.153)。
慶応義塾大学通信教育部のスクーリングで、8単位取得
定時制高校を卒業して、「職業訓練校」に入所したその時、同時に慶応義塾大学の通信教育部に在籍したのだが、それはある意味、三木さんの世の中に対するせめてもの「意地」だったのかもしれない。
しかし、「最悪」に近かった「用務主事」時代には心身ともに余裕はなく、「通信教育部」も形ばかりとなっていたのだが、1985年、現業職員「60歳定年退職制度」が導入され状況が一変する。教頭がいみじくも見通した通り、それまでの用務主事たちの顔ぶれも変わった。
少しだけ息がつけるようになった三木さん。そこで気になっていた慶応義塾大学の通信教育部のスクーリングに通い、結果として、国文学、東洋史、日本史、西洋文学の4教科8単位を取得する。それでも満足は得られず、差別に弱音を吐く三木さんに、定時制時代の清行先生は、もっと自分自身を見直せる大学進学を勧めるのだった。候補に挙がったのは「福祉関係」。しかも仕事をつづけながら通える、大学の「二部(夜間部)」だった。
運転免許証の取得!
東京都小平市の「身体障害者職業訓練校」に在籍中に、自動車の運転免許に挑戦した三木さん。体の半分に麻痺が残る身体で、「運転免許」は「危ない!無理!」と周りから言われながらも、敢然と挑戦。そして職業訓練校終了時点では「仮免許」を取得していたのだが、ここから先も、三木さんの強靭な意志が働く。
この当時、自動車の教習所は埼玉県新座市に移っていた。そこで教習を受け、さて運転免許の試験場は東京都府中市だった。助手席に警察官が乗っての試験である。
「悪いところが一つもない。だけど・・・直線で僅かにブレを感じた。悪いけど、もう少し教習が必要だな」・・・こうして、また「免許取得」は先延ばしにされる。改めて、教習所で5時間の乗車。それには1カ月もかかる。お金もかかる。・・・しかし、ついに8月1日合格!こうして念願の「運転免許証」を手に入れるのである。
◎ 今回は、三木由和さんに即して、「障害者と結婚」のテーマのつもりでした(前月に申告していました)。ところが、三木さんの「結婚」に至るまでの経緯を抜きにはできず、「箇条書きに紹介」と言いつつも、そうは行かず・・・結局、三木さんの「結婚」をめぐる経緯と問題は、再度延期になりました。申し訳ありません。来月取り上げます。(池田)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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