人の善意を食いものにする貧困ビジネス
- 2024年 4月 17日
- 評論・紹介・意見
- 藤澤豊
休日に池袋の東口を歩いていると、署名活動をしている集団にでくわすことがある。ときには署名より募金に熱心のように見える人たちもいる。通りすがりにしても何を呼びかけているのかぐらいは分かる。頑張ってますねぇー、まあいいんじゃないのと署名してしまうこともある。姓名と住所に電話番号だけにしても、それは個人情報。へんなところに抜けやしないだろうなと気にしているところに募金の話しが出てきて、ちょっと引いてしまったこともある。言っていることが額面通りだったら、募金を躊躇うことなんかないのに、ついこの人たち本物なのと気になる。集めた募金のいくらかが、この人たちの打ち上げに使われるだけならまだしも、ほとんどが自家用あるいは、訳の分からない組織に上納されて終りかもしれないじゃないかと思いだす。
池袋はなんでもあって便利な街だが、その分喧噪もあれば危なっかしいものまで身近にある。ちょっと疲れたこともあって郊外に引っ越した。都心への通勤の便はいいが、住宅街で華やかなところはない。そんな寂しい街でも、たまに駅前には署名や募金活動の人たちがいる。ただ池袋で目にした集団のような活気はない。こう言っては失礼になりかねないが、ご高齢の質素なみなりの方が看板かかげて、二人、ときには三人で静かに声をかけている。なかには、WFP(国連世界食糧計画)やユニセフの看板を掲げて募金活動をしている人たちもいる。どちらも国連の組織だが、本物なのか確かめようがない。善意から生まれた活動で善意の人たちによって成り立っていると信じたいが、見た目の善意がそのまま善意だという保証があるとも思えない。随分前のことで、おぼろげにしか覚えていないが、善意に基づく支援がもたらす弊害を伝えるニュースがあった。世の中慎重でなければならないことも多いけど、疑い深くありたいとは思わないし、人を騙すより騙される方がいいと思っている。それでも、たまには考える。
お袋をリハビリ施設にいれたときの体験を「患者はメシの種」と題して、ちきゅう座に投稿させていただいた。
市の福祉の方から「引き取ったら共倒れになるから施設へ」というアドバイスを受けて何度も相談して、迷ったすえの決断だった。
緊急時に受け入れて下さったのには感謝しているが、どうみても入居者に寄り添った福祉にはみえない。早々に転院しなければと探したが、なかなか受け入れてくれるところが見つからないまま月日がながれていった。ほとんど諦めていたとき、成人後見人から清瀬市の良心的な介護施設の空きがでたと連絡があった。成人後見人と同席して、所沢の介護施設で看護婦長と転院の相談をした。成人後見人は、母親と似たような人たちの成人後見人もされていて、いくつもの介護施設を訪問して提供されるサービスとコストの兼ね合いにも精通していた。他の看護施設との比較を口にした成人後見人の態度がいつもと違う。「ここは月々二十万円近い高額なのにサービスはそれに見合っていない」いないように見えるというような遠回しな言い方ではなかった。それまでも成人後見人から似たようなことは聞いていたが、転院先の目途が立たなければ、お世話になり続けるしかない。意思の疎通もままならない母親がどう扱われるのかが気になって、あまり強いことは言えなかった。
話のなかで、婦長がぽろっと本音、本音と思っていいだろうことを口にした。「転院ですか、転院されると……私たちの『メシの種』ですから」それを聞いて、思わず成人後見人と顔を見合わせてしまった。
二〇一六年だからもう八年も前に思い出して書いたものだが、慈善とか人の善意をストレートには受け入れられなくなった自分がイヤになることがある。街を歩いているとき、スーパーのエスカレータに乗っているとき……にあの時のことを思い出しては暗くなる。
こうして年をとってきたこともあってだろうが、駅前でWFPの人たちやユニセフの寄付を募る人たちをみると、それだけでイヤな気持ちなる。どちらもご年配で質素なみなりのせいで、エホバの証人の人たちより悲哀を感じさせられるだけに辛い。
困っている人たち、貧しい人たちをなんの見返りも求めずに支援し続ける立派な人たちもいるし組織もある。でも支援活動の輪が広がって組織が大きくなると、どうしても組織を支える資金が必要なる。善意の看板を掲げながらも何らかの収入がなければ運動を続けるもの難しくなる。つらつら考えていて、ちょっとググったら、ウィキペディアの説明が出てきた。
うん、そういうことだよなというまでの説明だった。主要個所を書きうつしておく。じゃまにはならないだろう。
「ネットカフェ、住み込み作業員、住み込み派遣社員(請負社員)、ゼロゼロ物件、無料低額宿泊所、消費者金融、およびヤミ金融などといった、経済的に困窮した社会的弱者を顧客として利益を上げる事業行為を指す」
「貧困ビジネスを行う企業や団体の多くは『社会的企業』を装っているのが特徴的である。社会的企業は、社会問題(地球的課題)の解決をめざした社会変革を通じた社会貢献と企業の利益を両立させることを目的としている。しかし、貧困ビジネスは、『社会問題の解決』などではなく『社会問題の固定化』により利益を上げる、社会的企業の対極にある存在である」
いわんとしていることはわかる。その通りだと思う。でも視野を広げると、まさかという景色が見えてくる。組織が大きく世界規模にまでなると、駅前で署名や募金活動をしている実働部隊の人たちどころか日本支部の幹部ですら知らない上部組織の宿痾の問題が見えてくることがある。
分かりやYouTubeがある。
「国際貢献の汚い実態を暴露します【貧困援助で金儲けする仕組みとは?】」
動画を見れば分かる。説明するまでもないが、善意で提供されたものが発展途上国の自立の芽を摘んでいることがある。想像に難くない。支援の食物が農業を、古着が縫製業が育つ環境やきっかけを葬り去る。
それでも人の善意は貴いもので、否定なんかできやしない。まして駅前で控えめな声で支援を求められれば、無視するだけでも心苦しい。でも、心を鬼にしてでも拒否したほうがいいこともある。自立を促す支援ならばまだしも貧困ビジネスで人の善意を食いものにしている、そして自立の芽を摘み取るような組織に善意を差し出す善人でありたいとは思わない。
p.s.<怪しいNPO?>
WFPやユニセフの看板は立てているし、WFPやユニセフの制服らしきジャケットを着てはいるが、よこの小さな看板には小さな字でNPO(法人はついていたり、なかったり)xxxと書いてあることもある。NPOはNon Profit Organizationだと思っているが、念のためググったら、もっともらしい説明がでてきた。
NPO(Non Profit Organization)は、継続的、自発的に社会貢献活動を行う、営利を目的としない団体の総称です。
「NPO法人」という場合には、NPO法に基づき法人格が付与されたNPO法人を指すことが一般的とされていますが、単に「NPO」という場合、法人格の有無は関係ありません。
「営利を目的としない」はいいが、看板や配布しているパンフレットは営利企業にお金を払って作ってもらったものにしか見えない。中学や高校の文化祭でもあるまいし、すべて手作りという訳にはいかないだろう。何をするのにも金がかかる。その金はどこから?そして、あれこれお願いする先の営利企業の利益の行き先はなんてかんぐってみると、目的とはしていない営利の定義は?という疑問が湧いてくる。
どこまで事実かしらないが、興味深いYouTubeがある。
「アグネス・チャンの正体を暴露します…【実名で徹底解説】」
もし事実でなかったら、名誉棄損で訴えられるだろうし、このYouTubeがほぼ一年削除されずに残っているはずがないと思うのだが、どうだろう。
2024/3/6 初稿
2024/4/13 改版
Private homepage “My commonsense” (http://mycommonsense.ninja-web.net/)にアップした拙稿に加筆、編集
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔opinion13665:240417〕
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