世界のノンフィクション秀作を読む(65) ジャン・コルミエ著『チェ・ゲバラ』(上)
- 2024年 4月 26日
- カルチャー
- 『チェ・ゲバラ』ジャン・コルミエノンフィクション横田 喬
ジャン・コルミエ(フランスのジャーナリスト)著『チェ・ゲバラ』
(創元社刊、松永りえ訳)
――革命を生き抜いた闘士の素顔(上)
20世紀中盤の時代を生き急ぐように駆け抜けた革命家、エルネスト・チェ・ゲバラ(1928~67)。南米アルゼンチンに生まれ、大国アメリカの横暴を憎み、キューバ革命を主導して成功する。だが栄職を辞し、南米ボリビアで農民革命を企図するが失敗、銃殺され、39歳の生涯を閉じる。筆者は非運の革命家に共感し、その素顔を生き生きと伝える。
ゲバラは1928年、アルゼンチンのサンタ・フェ州の工業都市ロサリオで生まれた。父は建築業者。母は教養があり、フランス文学に造詣が深かった。父方の祖父はカリフォルニアの金鉱掘りで当て、さらに遠い先祖はメキシコ副王の血筋という恵まれた家系だった。
二歳の時に肺炎を病んで喘息にかかる。以後ずっと執拗な発作に悩まされるが、十歳の頃から水泳やサッカーなど激しい運動を好むようになる。遊び友達の先住民の子供たちの生活環境は悲惨の極みにあった。一部屋に十人もがひしめくように暮らし、子供たちは寒さから身を守るためボロボロの服の下に新聞紙を滑り込ませていた。彼の父親は人民戦線内閣のスペイン支援へカンパ活動に努め、倅の方も「人民同士の連帯」に励んだ。
十代の頃はラグビーや水泳、ぺロタ(バスク地方の球技)、体操の他、テニスやゴルフも好んだ。スポーツ青年となっても、本の虫であり、フロイトやキップリング、ボードレール、シェイクスピア、ガルシア・ロルカなどと関心の幅は広かった。とても若い時から文章を綴ることを好み、哲学論の叙述や詩作を愛し続けた。
47年、喘息の人々を助けるべく、医師を志望してブエノスアイレスへ上京する。50年夏、この首都から約850キロ離れた友人宅へモーター・サイクルで訪問。23歳になると、友人の医師と共に南米縦断の旅を企画。51年12月29日、二人は500㏄のオートバイで「イージーライダー」さながら、大陸縦断へ出発する。
彼らは農民や銅山の鉱夫たちの苦しみを目の当たりにし、チェは政治に開眼していく。彼は旅行日記に、抑圧された先住民、農民、労働者について、己の考察を詳しく記した。チリでは余りの惨状に言葉を失うが、はっきりと悟った。<もはや迷う余地はない。将来は政治の道を選ぶのだ>と。
◇革命第一幕
キューバのフィデル・カストロの弟ラウル・カストロは、チェがキューバ反体制派グループの一員になるのに十分な誠実さと資質を持っているかを事前に見極める役目を担った。フィデルとチェは55年に初対面早々、互いを高く評価した。二人は似た者同士で、前世紀末のキューバ人の革命家たちへの崇拝の念を分かち合っていた。チェは参加に一つだけ条件を付けた。「革命が勝利した後には、革命家としての私をまた自由にしてほしい。勝利したらの話だが」と。
その二年前に起きたモンカダ兵営襲撃が、反バチスタ運動の始まりだった。時のバチスタ大統領は親米の独裁政権を維持する軍人政治家である。1953年7月、フィデルは学生ら若者たちの部隊を率い、兵営に突入する。が、千人もの経験豊富な政府軍兵士に比べ、余りにも経験不足。半数以上の約八十名が死亡し、カストロ兄弟は逮捕される。
弁護士でもあったフィデルは蜂起の全責任を負うと宣言。二時間にわたり弁舌を揮い、「歴史が私に無罪を宣告するだろう」と締めくくった。拘禁15年の刑を受けた彼は、二年の獄中生活の後に釈放される。55年5月に政治犯への特赦法が成立していたのだ。カストロらはメキシコへ亡命する。
55年7月、未だ革命家としての前歴がないチェは、医師としてカストロ兄弟らの反乱軍に加わった。翌年2月になると、ゲリラとしての訓練を受け始める。高度なゲリラ訓練がメキシコ市から約40キロのサンタロサの人里離れた大牧場で行われた。
19世紀、南北アメリカ大陸ではアメリカ合衆国が台頭する。南北の中央に位置するカリブ海地域は米国の「我らの海」となる。T・ルーズベルト米国大統領の「棍棒外交」、W・H・タフト米国大統領の「ドル外交」によって、米国は忠実にこの歴史的な外交政策を推し進めた。こうした独占支配に対し、キューバを始めラテンアメリカ諸国は、抵抗を続けてきた。
56年11月25日未明、霧の闇夜にまぎれ、82人の男たちが一隻の船、グランマ号に乗り込んだ。全長13.3メートル、幅4.8メートル、定員25人の木造の古いヨットである。船は明かりを全て消し、メキシコ湾岸からキューバ島を目指す。チェは中尉の扱いだったが、医師という立場で乗船した。カストロらはキューバ島の数カ所に上陸の際の後方支援部隊を組織しており、決起に共鳴した農民たちによって受け入れ態勢が整えられていた。
一方、政府軍は臨戦態勢を布告。沿岸警備隊が監視の目を光らせ、C47やB25戦闘機が海岸沿いを飛行していた。しかし、反乱軍を散々悩ませた雨や霧のお陰で、幸運にも船は捕捉の手から逃れる。12月2日の明け方、七日間の恐ろしい航海の末、彼らはキューバ沿岸に到着した。嵐で進路が逸れ、予定地から程遠いべリク湿地という辺地だった。
同志たちは誰も迎えに来ていず、遭難さながら。82名は右も左も判らず、マングローブの林に迷い込む。早々と敵機に探知されるが、湿地帯の泥濘の先には、反乱部隊を招き入れるかのようにシエラ・マエストラが聳え立っていた。この山脈が、彼らの壮大な英雄劇の舞台となる。隊員たちは案内人も無しに、鬱蒼としたジャングルの中を武器や荷物を頭上に掲げ、何日もやみくもに進んで行った。
遭難したグランマ号の残骸が発見され、バチスタ政府は厳戒態勢に入る。12月5日、疲労困憊した反乱軍部隊が山中のサトウキビ畑の傍で休憩していた。午後5時、農民から報せを受けた政府軍が突然現れ、攻撃を開始。隊員は畑の中へ逃げ込んだが、銃弾の雨が降り注ぐ。三人が死亡し、チェも首と胸に深手を負った。惨憺たる結果となり、その後数日間に二一名の隊員が捕えられ、数日以内に殺された。チェは日記に、こう記した。
――すぐ傍に、仲間が二つの箱を置いて逃げて行った。一つには弾薬、もう一つには薬が入っている。私はどちらか一つを選ばなくてはならない、というジレンマに陥った。自分は何者なのか、医者か、革命家か。私は弾薬の箱を選んだ。
ハバナでは「フィデル・カストロが死んだ」というニュースが広まり、世界中が信じるようになった。直に、政府軍の最高司令部が現地の防衛部隊の多くを引き上げたほどである。その間、革命軍はなんとか生き延びた。上陸したシエラ・マエストラは全長130キロ、幅50キロに及ぶ全くの未開の山脈。当初、革命軍は現地の農民たちを警戒したが、すぐにその農民たちは掛け替えのない支援者となり、後には彼らこそが革命の原動力となった。
そうした変化の中、チェは積極的な役割を果たしていた。村人らにとって、彼は親身な医者であるばかりか、忍耐強い教育者だった。彼は読み書きのできない革命軍の同志たちに毎晩授業をした。彼らが大衆を導く前衛部隊なのだという、十分な自覚を促そうとした。
翌57年1月17日深夜、革命軍は標高二千メートルのトゥルキノ山の麓にある攻撃目標、ラプラタ兵営を攻撃した。チェは援護なしに駆け回り、倉庫に火を放つ。敵陣はパニックに陥り、チェは仲間の尊敬を克ち得た。反乱軍は二度目の攻撃に打って出る。チェは初めて人を殺した。カストロは彼をゲリラの首脳部に招き入れ、作戦会議で意見を求めた。
農民にとってチェは特別な存在だった。訛りや肌の白さから他所者であるのは明らかな上、医者である。医者不在のこの土地では、魔術師や手品師のように思われた。チェは、「司令官」の一人に昇進する。カストロは彼を「ゲリラの芸術家」と呼んだ。チェは山頂にキャンプを作り、また初の兵士徴募や訓練のための学校を創設した。
戦争の初期段階で、反乱軍は迫撃砲や戦車を含めた五百以上の武器を手にした。5月25日から8月末まで、政府軍は敗戦を重ね、「解放区」に数千人の兵士が取り残されることとなった。政府首脳は自分たちの頭上を大きな嵐が通るのを感じた。終わりが近づいていた。
11月末頃、ハバナへの近道となるサンタクララで運命の決戦が始まる。約三千名の兵士が街を防御し、多数の兵士を乗せた窓のない19両編成の装甲列車が送り込まれた。幾つもの銃眼から大砲やロケット弾、機関銃、自動小銃を発射するという触れ込み。バチスタ政権は、この鉄の怪物により革命を一網打尽にできる、と確信していた。
チェと四百名近い兵士が急襲する。バリケードを築き、火炎瓶を投げて列車を攻撃。装甲用の鉄板のせいで列車は正しく竈と化す。数時間で全ての敵の部隊が降伏。多数の列車と対空兵器、膨大な量の弾薬が手に入る。31日、拠点サンタクララは革命軍の手に落ちた。
首都への道のりを阻むものは無くなり、59年1月3日、チェは首都ハバナに入る。彼らは勝利したのだ。島の反対側では、カストロが要地を奪取していた。小船グランマ号の自殺行為と見まがうばかりの出航から25ケ月後、キューバ全島で盛大なお祭り騒ぎが巻き起こった。全世界が、そして誰よりバチスタが不可能視していたことを成し遂げたのだ。
30歳のチェは生き延び、勝利者となった。高い地位に就き、リーダーとして立つことを期待されていた。しかし、別の意味で更に困難な時代が目前に立ちはだかっていた。
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