保守主義者が唱える「伝統的」家庭は底の浅い意識の産物
- 2024年 5月 1日
- 評論・紹介・意見
- アベ伝統保守同性婚家庭小川 洋選択的夫婦別姓
選択的夫婦別姓、同性婚問題をめぐって
落語のなかの夫婦
筆者の好きな落語の演目の一つに「町内の若い衆」がある。江戸でも上方でも演じられた。職人の熊さんが親方の家を覗くと親方は留守で奥さんがいた。上がってお茶をいただいていると庭の方で工事の音がする。奥さんによれば、夫が茶道に凝って茶室を拵えているという。熊さんは「この不景気に茶室とは、親方は甲斐性ありますね」と感想を漏らすと、奥さんが「いえいえ、これも町内の若衆の働きのお陰」と謙遜する。
自分の家に戻った熊さんは、かみさんに親方の家であったことを話し、「お前も少しは親方の奥様のような口の利き方をしてみろ」と文句を言う。しかし、かみさんからは「それじゃ、茶室の一つも作ってみろ」とカウンターを喰らう。そこに職人仲間の八さんがひょいと立ち寄る。八さんは熊さんの妻が妊娠していることに気付いて、「この不景気に子どもを拵えるとは、ご亭主は甲斐性がある」というのだが、件のかみさんは「いえいえ、これは町の若衆の働きのお陰」と応えて、落ちとなる。
この話の原型は、元禄期にすでに現れているという。以来、この話の前提となっている庶民の性行動や所帯(家族)という単位の「緩やかさ」あるいは「曖昧さ」が理解される環境が続いてきたのである。当然、子育ても、「生みの親」たちだけの責任ではなく、長屋の人々の協力によって行われるものであった。
平安貴族の婚姻
また今年のNHKの大河歴史ドラマ「光る君へ」では、平安期の貴族社会の夫婦関係が描かれている。学校教育では摂関政治において天皇の「外祖父」であることが政治的に重要であったと教えられるのだが、たいていの生徒はテスト対策の暗記で終わってしまう。当時の貴族たちの婚姻形態は通い婚であった。和歌のやり取りなどを通じて、男性が女性の家に通う。定期的に通う女性が妊娠したり出産したりすると、男性が女性の家に住み着いて婚姻に至る。
しかし外を歩き回るわけにいかない天皇は、皇后・女御などの複数の女性を周囲に置いている。彼女たちは妊娠すると実家に戻った。血を伴う出産は「汚れ」として忌避されたから、出産と子どもの養育は実家で行われた。つまり「天皇家の子ども」という存在はなく、貴族の屋敷で生まれ育った天皇の血を引く子どもがいて、彼らの中から天皇に即位する者が選ばれたのである。
だからこそ、藤原氏や臣籍降下した有力貴族は、自分の孫を皇太子とし(立太子)、さらに天皇に即位させるため、激しい政争を繰り広げた。なお出産した女性が授乳をしていると妊娠しにくいという生理現象は当時も理解されており、入内した女性たちは、天皇の子をより多く妊娠することが期待されていたから、乳児の養育は実の母親ではなく、乳母(めのと)に委ねられていた。
選択的夫婦別姓と同性婚
さてここにきて、いわゆる保守系の政治家やその支持者たちにとっては、ひじょうに悩ましい事態が生じている。家族や婚姻に関して新しい動きが激しくなっていることだ。
まずは、選択的夫婦別姓である。別姓の合法化を求める訴訟が各地で起こされている。この動きには経済界からも強い応援がある。企業活動の国際化が発展するなか、パスポート記載の氏名と他の文書上の氏名が異なるなど、とくに女性の海外出張に支障を来す事例が増えている。夫婦が同姓を名乗ることを義務付けているのが世界で日本だけという異常な状態が解消されなければ、日本企業が国際競争に不利になる。
また同性婚を認めない現在の法律は違憲であるとする訴訟については、つい最近、札幌高裁において違憲とする画期的な判決がだされた。「婚姻は両性の合意にのみに基づいて成立する」とする憲法第24条の条文は、明治憲法下の家制度下での制約からの解放を意味するものであって、必ずしも男女を意味するものではないとして、行政が同性婚を認めない状態は違憲としたのである。
選択的夫婦別姓の訴訟では21年に最高裁で合憲判断が出されたが、違憲とする少数意見も出されている。同性婚の違憲判断は高裁段階で出されたこともあり、別姓問題についても近い将来に違憲判決が出ることが見込まれ、この二点について法改正が迫られている。
しかし、両方とも政権与党である自民党内を中心に強く反対する、「保守派」とされる勢力が存在する。彼らの主張は概ね「別姓を認めることは、日本社会の伝統を破壊し、家族の絆を損ねる」というところである。で、彼らの言う「伝統的家族」とはどのようなものを指しているのだろうか。まさか平安時代のものでもないし、熊さん・八さんの世界のものでもないことは明らかだ。
保守主義者たちの「伝統」
本多真隆の『「家族の」誕生』(ちくま新書、2023年)は、多くの示唆に富む。結論から言えば、「保守系論者が唱えていたのは……、実質的には高度経済成長期の『保守』だった」(同書、301頁)という。高度経済成長期以前の日本では、第一次産業従事者が国民の半数程度あり、ここにおける家族(家庭)は、家族総出で労働に従事することによって辛うじて生活を維持していたのであり、夫が働いて家計を支え、妻は家事や子育てや子の教育に勤しむということは基本的にあり得なかった。
夫が生活資金を稼ぎ、妻はもっぱら子育てと教育に専念するという家庭が主流となったのは、せいぜい1950年代の終わりころの大規模な大都市圏への人口集中があり、新中間層的な家族が大きく増えてからの話である。つまり、「保守」と称する人たちの「伝統」なるものは、彼らの育った時代を懐かしむ程度の底の浅い意識の産物でしかないというのである。
家庭をめぐって
この「保守」運動に熱心だったのは安倍元首相であった。安倍元首相が殺害されてから、まだ2年足らずであるが、彼に関する記憶は急速に薄れつつある。岩盤の保守勢力と言われる政治勢力の実態の怪しさを示している。2017年に改訂された教育基本法は、彼の残した負の遺産のひとつである。旧法にはなかった「家庭教育」と題する、以下のような条文が新設されたのである。
第十条(家庭教育)
父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有するものであって、生活のために必要な習慣を身に付けさるとともに、自立心を育成し、心身の調和のとれた発達を図るよう努めるものとする。
2 国及び地方公共団体は、家庭教育の自主性を尊重しつつ、保護者に対する学習の機会及び情報の提供その他の家庭を支援するために必要な施策を講ずるよう努めなければならない。
改めてこの条文を読むと、晋三氏は父母が第一義的責任を果たさなかったため不幸な成長をした事例なのかもしれないと思える。よく知られているように、彼は政治家の父親とその活動を支えることに忙しかった母親とはろくに接する機会さえない中で育った。平気で嘘をつくことから、箸の妙な使い方に至るまで、彼には基本的に家庭で身につけるはずの道徳心や基本的マナーが身についていなかった。やはり家庭は大事なのだろう。
しかし子育ての責任が家庭に押し付けられることで、とくに母親に重圧がかかり、さらには女性の生き方そのものを歪めてきたことも事実である。折しも全国の自治体の4割が消滅の可能性とする研究報告が出された。主な原因は、出産年齢の女性たちの都市部への移動である。歪な生き方を強いられる「保守的」な地方社会を嫌う女性たちは生まれた土地を捨てる。保守政治家たちは、自らの底の浅い主張が日本の衰退原因を作っていることを自覚するべきだろう。
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