仙台、水俣、京都へ
- 2024年 5月 17日
- 評論・紹介・意見
- 小原 紘
韓国通信NO745
足が遠のいていた仙台の実家へ1年ぶりに出かけた。
「みどりの窓口」がなくなりあわてた。「どうしました?」と窓から愛想のない顔がのぞく。となりの券売機でも年配の婦人が奮闘中だ。「不便になったね」とイヤミを言って、駆けつけた駅員に切符を買ってもらった。
実家に着くと手押し車の叔母が笑顔で出迎えてくれた。訪問介護、デイサービス、病院通いをしながら一人暮らしを続けている。
「元気だった?」と声をかけると、
「元気じゃない」といつもの挨拶が返ってきた。
一人で外出が出来ない96才。朝食はパンと牛乳と果物。配達される弁当が彼女の昼食と夕食というパターンは十数年変わらない。入浴や洗濯、買い物、掃除をヘルパーに頼る他は、日常生活を何とかこなしている。
そこでは時間がゆったり流れている。新聞を読んだりテレビを見たり、時々居眠りもする毎日。意思疎通に難ありだが、スマホを駆使した親戚や友人たちとの交流も以前とまったく変わらず、夕方には茶飲み友だちとおしゃべりを楽しむ毎日である。
誰も避けることのできない独り暮らし。彼女の場合は母親を看取った挙句の独り暮らしである。自分ならどうするだろうか。「地域で支える」と言うケア・マネージャーの存在は頼もしい気もするが。
<揺るぎのない平和主義>
近郊に住む従兄と彼の息子がたずねてきたので昼食を食べに出かけた。叔母は従兄の息子にお嫁さんを探さなければとおせっかいを言い、日本の人口減少を心配した。
いつものことである。叔母の戦争反対論が始まった。
19歳の時に宇都宮の中島飛行機に勤労動員された苦労話から始まり、戦死した親戚や友人の話を始めると止まらない。戦争抑止のための戦争準備なんていう理屈は彼女には通じない。彼女は新聞もテレビも見ていないようでよく見ている。
突然、朝鮮人差別について語り始めた。
叔母の兄、つまり私の父親から「朝鮮人を馬鹿にしてはいけない」と厳しく諭された思い出話を始めた。職業軍人だった叔母の父親ともう一人の兄にひきかえ、病弱のため戦地に行かなかった私の父がどれほど家族思いでやさしい人柄だったか話した。
工場勤めをした父親から空襲で死んだ朝鮮人の女子労働者たちの話は聞いたような気がするが、「差別をするな」と妹の叔母を戒めた話は初耳だった。これまで知らなかった父親の話に耳を傾けた。
父親が晩年、さりげなく話してくれたことを思い出した。銀行に入社して日の浅いころ、職場で繰り広げられた日常的な差別を目の当たりにして私が窮地にあった時期。父は銀行の支店長から手紙をもらった。手紙は過激な組合を抜けるように説得してほしいという中身だったという。28才になる息子の改心を求める手紙のばかばかしさ。息子を信じて父は手紙を破り捨てた。
妹の叔母に父が語った差別の話がつながった。支店長の予告どおり出世とは無縁な職場生活を歩むことになったが、自分の生き方が父に理解されていたことに初めて気がついた。食事の箸をとめて何回も叔母にその事実を確かめ、96才の叔母の記憶に感謝した。
<墓掃除>
叔母が気にしていた墓参りをした。私もあなたも死ねばここ入ると何回聞かされたことか。二人で花と線香を持って出かけた。雑草が根深くて採り切れず、翌日一人でスコップを持って出かけた。一人で作業をしたせいか墓について普段考えていた疑問が大きくなった。骨となった私が墓参りに来た人に感謝するかどうか、草むしりを喜ぶかどうかという素朴な疑問。墓碑銘に名を残すだけというのは淋しいが、いっそのこと墓も墓碑銘もないほうが気楽に思えてきた。
<水俣病 天が病む>
実家の購読紙『河北新報』のコラムが石牟礼道子の「祈るべき 天と 思えど 天の病む」を紹介して、水俣病患者と家族が政府に訴えるマイクの音声を環境省職員が3分で切った事件を批判した。国の病の深さ。天に祈っても天そのものが腐っていてはどうしようもない。
もしかしたら、この国は政権交代だけではでは間に合わないところまで来ているのかも知れない。政治家たちは裏金を指摘されても逃げ切れると思っている。国民の声に耳を傾ける気はさらさらない。中国は専制国家だ。北朝鮮のミサイルが飛んでくると恐怖感をまき散らしてはやりたい放題。バイデン大統領と岸田首相のお友だちの尹大統領にNO!を突き付けた韓国を少しは見習ったらどうだ。憲法の番人、最高裁も政府と同病。重病人患者を抱えていささか憂鬱だが、諦めるわけにはいかない。
仙台から帰ってから数日後に開かれた高校時代のクラス会では病気と墓の話に花が咲いた。国の病気が話題にならなかったのは私たちも病んでいるからだろう。
<自分でやれることは>
今週末、亡くなった友人の納骨のために京都に出かける。「韓国通信」には彼の台湾の「廃原発運動」の寄稿文が遺された。やれることは何でもする、行けるところは何処にでも行く。そんな思いで行動を共にした友人だった。死者の思いを無駄にしないという思いが日々募ってくる。彼と訪れた河井寛次郎の記念館を訪ねるつもりでいる。
「通信」を書きがら、彼を思い出してイスラエル大使館に抗議のメールを送った。
英文で―「ユダヤ人虐殺を世界は決して忘れないが、イスラエルのパレスチナ虐殺も世界は忘れない。直ちに戦争をやめて!!」
彼が生きていたら「いいね」と賛成してくれた筈だ。
初出 :「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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