唐澤太輔(秋田公立大準教授)の『南方熊楠』(中公新書)――日本人の可能性の極限を思わせる巨人の生涯と思想(上)
- 2024年 5月 24日
- 評論・紹介・意見
- 南方熊楠唐澤太輔横田 喬
南方熊楠(1859~1941)は百科事典を丸ごと暗記し、二十以上の言語を解した、とされる伝説の巨人。筆者は「てんぎゃん(天狗さん)」と渾名された少年時代~大英博物館に通い詰めた海外放浪期~在野の粘菌(変形菌)研究者として昭和天皇に進講した晩年まで、波乱に富む生涯を克明にたどる。そして、その「日本人の可能性の極限」を思わす思想を解き明かす。
◇驚異的記憶力を持った神童
熊楠――この力強く豪快な名前は、本人によると、「紀伊(今の和歌山)藤白王子(神)社の畔に立つ楠の神木に因む名乗り」。「熊」は「(紀州)熊野権現」の「熊」だが、彼は「熊野」の由来について「熊野縁起」に登場する動物の熊である、との説を紹介している。熊楠は楠の木に対し、一体感を抱いていた。それ故、後年の明治政府の「神社合祀政策」(1906年)による鎮守の森の伐採は、「己の心身」を切り刻まれるほどの思いだったに違いない。
少年期の熊楠は、大人を驚かす数々の伝説を残している。中国の百科事典『三才(天文・地理・人倫といった森羅万象を指す)図会』を模範に江戸中期に編纂された『和漢三才図絵』(百五巻の大百科事典)を筆写しようと企図。購入を親に反対されたためだが、知り合いの家にあったこの書籍を借り出し、十二歳~十五歳の間に通読し抜き書きしている。
同時に、『大和本草』(和漢の本草千三百六十二種を収録・分類・解説した書物で、貝原益軒著)や『本草綱目』(中国の代表的な本草書、1596年刊)などにも抜書・筆写の範囲を広げていった。このような大事典の抜書・筆写は、熊楠のライフワークのようなものだった。成人後は『大蔵経』(仏教経典の総称)や『群書類従』(塙保己一編)などを読み、写した。
少年熊楠が『和漢三才図絵』を全て暗記した、といった類の話も流布されているが、それは「熊楠伝説」の一つ。事実は、この書籍を知り合い宅から借り出し、読み、抜き書きしたということ。が、こうした伝説が信じられるほど、彼の記憶力は常人離れしていた。
特に語学において力は大いに発揮され、英語・ドイツ語・スペイン語・フランス語など最大二十二カ国語を操った、とも言われる(実際に不自由なく操ったのは七か国語だとも)。
また、粘菌研究の高弟小畔四郎に対し、粘菌の種名95を記憶を基に記述したとの逸話も残る。熊楠の超人的記憶力の源泉は、まめに筆写することにあった、と弟子らは証言している。
少年熊楠は家で読書し筆写するだけでなく、野外で動植物を熱心に観察・採集もした。熱中の余り、何日も帰らないことさえあり、「森で天狗にでも攫われたのでは」と噂に。いつしか、熊楠は「てんぎゃん」という仇名を付けられた。
1879年、旧制和歌山中学校(現在の県立桐蔭高校)に入学。熊楠は国学・博物学などに通じた教師・鳥山啓を師と仰ぎ、彼は熊楠に事物を実地に観察する方法を本格的に指導した。熊楠は生涯フィールドワークを重視したが、それはこの鳥山に感化された処が大きい。
◇アメリカ時代
熊楠は父弥平衛を大変尊敬していた。金物商から、西南戦争(1877年)を機に巨利を得、米屋や金貸し業を経て、酒造業を興し成功した。弥平衛は、先を見通す力に非常に長けていて、そして自分の子供たちに対しても達眼だった。<二男熊楠は学問好きなれば学問で世を過ごすべし。三男常楠は謹厚温柔これこそ我が跡を継ぐべき者・・・>と予見。その通り、「放恣驕縦」と見立てた長男弥平衛は破産、亡滅する。弟常楠は東京専門学校(現早稲田大学)卒業後、父と共に酒造業を営み、「南方酒造」の基盤を作った。
1887年1月8日、熊楠を乗せた船はサンフランシスコに到着。彼は地元の商業学校に入学するが、「一向商業を好まず」(「履歴書」)、僅か半年ほどで退学。当地を去り、同年8月、アメリカ北部のミシガン州立農学校(現ミシガン州立大)に入学する。が、ここも一年ほどで退散する。理不尽な下級生苛めに遭い、大立ち回りを演じ、あげくに乱酔、廊下に裸で寝込み、校長に見つかったらしい。
知人宛ての後の書簡に彼はこう記す。「米の新建国にして万事整わざるを知る。米の学問のわが邦の学問に劣れる甚だしきを知る」。アメリカの学校で教わることは何もない、熊楠はそう思っていた。否、彼が求めるものに全て応じてくれる学校や研究機関など、当時世界中どこにも見つからなかった筈だ。彼は同じミシガン州の南東部に移るが、もう学校に通うことはなかった。当時、熊楠が書いたとされる文章にこうある。
――欧米文明の宇内に輝く,之れ或は異種の文明。即ち、勝てば官軍の類たらざらんや。
――吾人は宜しく東洋固有の特質を発表し、吾人が名誉価値を習得すべきなり。
熊楠は、世界において「白人が人間の中心」であるという考え方が罷り通っていることに、相当不満を持っていた。否、白人のみならず、「人間だけが貴い」という考え方にも否定的であった。ここに熊楠による生物の枠を超えた普遍主義が垣間見られる。
その後、彼はフロリダ州のジャクソンヴィルに暫く流寓。1891年9月から翌年1月までキューバに滞在し、様々な動植物を採集している。当時、キューバはスペインからの独立戦争の最中にあり、その時期に当地を訪れることは将に死を覚悟した冒険であっただろう。
いくら語学に長けた熊楠とはいえ、この未知の土地へ行くには、相当の覚悟が必要だった筈。キューバに渡る前、彼は三週間ほどフロリダ州の最南端に位置するキーウェストに滞在した。粘菌を本格的に観察し始めたのは、この頃であった。
護身用のピストルを一丁所持してキューバへ渡った熊楠には多くの「伝説」が残る。日本のサーカス団と共に西インド諸島を巡ったという話もある。娘の文枝は、「曲馬団の人たちに来るファンからのラブレターの返事を代筆したり、(中略)大変勉強になったと話しておりました」と回想している。
◇大英博物館の日々――ロンドン時代
1892年9月、熊楠は商船でキューバからイギリスへ向かう。ロンドンでは日本人の知人の手引きがあり、大英博物館の要職にあった文学博士・英国学士院名誉会員、フランクスと面会。その知遇を得て、大英博物館への日参が始まる。熊楠はここで古今東西の書籍を読み漁り、筆写した。その「ロンドン抜書」は五年余でノート52冊、1万数千頁に及ぶ。
書き写した書籍・文献は旅行記・民族誌・説話・自然科学・セクソロジー(性愛学)等々。
和歌山の父・弥平衛が亡くなり、弟・常楠が実家の切り盛りを担当。熊楠に年に千円前後の仕送りを行った。が、ロンドンは日本の四倍ほどの物価高で、仕送りは最低限のもの。熊楠は「一日一食」を強いられたり、小銭稼ぎに「浮世絵」売りに精を出したりもした。
熊楠はイギリスの総合科学週刊誌『ネイチャー』にしばしば投稿、採用された。記念すべき初掲載論考は「東洋の星座」。中国の星座に関して、少年の頃に書き写した『和漢三才図絵』によって得ていた知識を大いに披露。中国とインドの星座体系が共に、天を「二十八」という数で分割して成っていることなどを紹介している。
彼はまた、総合学術誌『ノーツ・アンド・クィアリー』誌(民俗・歴史・語源・人類学などを網羅)に膨大な論考(324本)を寄稿。名指しで、熊楠に返答を求めてくる者もいた。襤褸着姿の東洋人の小僧でも、素晴らしい研究をすれば、しっかりと認められる。熊楠は、学問の世界において平等を感じていた。それ故、いわれなき侮辱は我慢ならなかった。
――1897年11月8日(月) 午後、博物館に入りざま毛唐人一人ぶちのめす。これは積年予に軽侮を加えしやつ也。(『日記』二巻)
熊楠が殴打したのはG・S・ダニエルズという図書館の事務員。雑音を立てて熊楠の研究の邪魔をしたり、何かと目の敵にする振る舞いがあったらしい。翌年12月、熊楠は酒に酔った酩酊状態で入館しようとして一騒動。とうとう博物館から事実上、永久追放される。
1897年3月16日、熊楠は中国革命の先駆者、孫文と大英博物館内で初めて出会う。東洋書籍部長ダグラスの個室で対面。孫文に「一生の所期は?」と問われ、「願わくは、一度西洋人を挙げて悉く国境外へ放逐したき事なり」と返答。孫文は顔色を失った、という。両人は意気投合し、同年6月末に孫文がロンドンを去るまで毎日のように会い、論じた。
熊楠の真意は、<東洋から(欧米の)帝国主義を駆逐したかった>のである。熊楠は寄稿文に「一東洋人」と自署するなど、「東洋人」としての意識が強かった。孫文はロンドンでの熊楠との別れに際し、「海外にて知音(自分のことを最も良く理解してくれる親友)に逢う」という言葉を記している。ロンドンでの別れから三年余り後、孫文は日本へ帰国していた熊楠に会いにわざわざ和歌山まで来ている。二人は二日間、旧交を温めた。
初出:「リベラル21」2024.5.24より許可を得て転載
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