世界のノンフィクション秀作を読む(72)磯田道史(静岡文化芸術大教授)の『大田垣蓮月』(文春文庫『無私の日本人』所収)――数奇な運命をたどった江戸後期の美貌の才媛歌人の心打つ伝記(下)
- 2024年 5月 30日
- 評論・紹介・意見
- 『大田垣蓮月』横田 喬磯田道史
磯田道史(静岡文化芸術大教授)の『大田垣蓮月』(文春文庫『無私の日本人』所収)――数奇な運命をたどった江戸後期の美貌の才媛歌人の心打つ伝記(下)
夫・重二郎を失って後の数か月、おのぶの有様は無残なものだった。ひがな一日、亡夫の衣服を抱き締め、時々、腸を絞り出さんばかりに嗚咽した。亡き夫の亡骸が荼毘に付された時の思いを後に和歌にこう詠んでいる。「立ちのぼる 煙の末も かきくれて 末も末なき 心地こそすれ」。彼女には、亡夫との間にできた二人の子の面倒見が残されていた。
すっかり老け込んだ父は出家剃髪し、知恩院に連なる真葛庵の住持となった。かの西行ゆかりの庵ゆえ、「父は西心、おのぶは蓮月」という法名を知恩院門主から授かる。おのぶは、父と共に二人の子を連れて、この真葛庵に入った。幸せな日々は長続きはせず、七つになったばかりの娘がまもなく亡くなり、翌々年正月、最後に残った男の子まで死んだ。
父の西心はすっかり傷心。老け込みが甚だしく、天保三(1832)年八月十五日、お盆の送り火が焚かれる中、燃え尽きるように静かに逝った。七十八であった。そこからは、また悲惨が始まった。真葛庵は尼寺ではないから、住持を継ぐわけにはいかない。尼となったとはいえ、蓮月は美し過ぎた。既に齢は四十二を数えていたが、陶器のような白い肌は、男を惹きつけるに十分であった。行き場を失った蓮月尼は、寂しい山中にある大田垣家の墓に辿り着くと、墨染めの衣のまま立ち尽くし、日が沈んでも墓地の闇の中に居続けた。
「不用心過ぎる。手籠めにされたら、どうする」。周りが必死に止め、蓮月は神楽岡の麓、聖護院村の人家の外れに陋屋を借りて住んだ。自活していかねばならず、すぐに出来るのは囲碁の師匠であり、人に教えられる芸事が囲碁を入れれば七つほどあった――薙刀・鎖、鎌・剣術・舞・歌・裁縫。が、尼の身では、武芸はいけないし、その他も実入りには無理。
すると、大した実入りにはならないが、和歌の教授しかない。弟子をとることにしたが、これが良くなかった。尼になったものの、蓮月は、美しい匂いをなおも遺していた。それを求め、心を動かされる者が少なくなく、男たちが色香目当てにたかってきた。
妻子ある者までが、後家の尼と見ると、露骨に口説いてくる。仏門に入ってから、決して人を憎むまいと心に誓ったものの、ほとほと男というものの性に呆れ果てた。そのうち、近所の者たちが根も葉もないことを噂する。蓮月の美貌が目当ての男は決まって人のいない時を狙って、庵に上がり込む。直に陰のある目つきになり、淫らな囁きを口にする。
そうされると、恐怖にも似た、例えようのない嫌悪感が体の中から反射的に突いて出てしまう。未だ修行が足りない、自分は未だ女の体なのだと思うと、更に気が滅入った。剥き出しに迫って来る男は、未だよかった。そのうち、心を込めた玉草を認めてくる若い男が現れた。蓮月に還俗を迫り、真っ直ぐに見つめ、真摯な誓いまで口にした。
「私は御仏に仕える身です。貴方に言い寄られるとは、その覚悟が足りないのでしょう」。蓮月はそう言うと、襖の陰に回った。その直後、気味の悪い呻き声がし、男が襖を開けると、蓮月がのたうち、口から血が噴き出し、悪鬼羅刹さながらの面相。蓮月は千金秤から伸びた糸を前歯にくくり付けて引き抜き、別人の如き面相に変化しようとしていたのだ。
男は半狂乱になって、やめてくれ、やめてくれ、と泣き叫んだ。それでも、蓮月はこの身体破壊を続けた。男はとうとう耐え切れず、戸を開け放ち、疾風の如く外へ駆け出した。以後、さすがに言い寄る者はいなくなった。聖護院村の村人も、噂を立てなくなった。
和歌を教えられなくなった蓮月は口過ぎの道を陶器づくりに求めた。京の外れ、粟田口で粟田焼という陶器を家業とする懇意な老女の陶房に日参。埴細工を習い、土を庵に持ち帰り、寝食を忘れて泥と格闘し始める。美しかった細指は醜く荒れ、老婆のそれに変じた。
蓮月は一心に「きびしょ(急須)」を拵え続けた。宝暦天明の辺りから、津々浦々の豪農豪商は学問に目覚め、漢詩漢文を嗜むようになった。「文人」になるには「煎茶」をせねばならない。煎茶を呑むには急須が要り、「きびしょ」が有難がられたのである。
ひと月に五十個、百個と蓮月は急須や茶碗を拵えた。自詠の和歌を釘で彫り付けた品を近在の窯元に持参し、所定の焼き代を払い、焼かせてもらった。が、拵えも焼きも素人業の域を出ず、「手ずさびの はかなきものを持ち出て うるまの市に立つぞ 侘しき」という一首が思わず口をついて出た。蓮月はひたすら悪評に耐え、急須造りに日々精を出す。
そのうち、己の心身は人に言われて立腹するほど綺麗なものではない。むしろ穢れている。詰まるところ、自分にとって必要なのは「自他平等の修行」なのでは、と思い定める。その悟りを得てから、蓮月の作風は変わったと言っていい。「蓮(はちす)」を作品にあしらうようになり、急須の蓋を蓮の葉の形に造り、蓋の取っ手は茎の形にした。
蓮は穢れた泥土から出たものであるからこそ、人の心を救ってくれる。埴細工は、それに似ている。汚い泥から出て、急須と成れば、万人の喉を潤してくれる。蓮月は拙くとも、一つずつ丁寧に造った。急須の蓋に四方八方に伸びる蓮の葉脈をこつこつ造形。取っ手の茎には、一つずつ穴を開けた。万人に満遍なく救いが行き渡るように、との願いを込めて。
そのうち、蓮月の陶器は評判を呼び始めた。形は拙いままだが、どこか優しいその温もりが人の心を打つのか、欲しいと言う人が跡を絶たなくなった。ひとたび、人気に火が付けば、後は速い。たちまち品薄になった。蓮月の手が回らないからと、贋作屋が五、六軒も出来、どんどん偽物を売る。伝え聞いた蓮月は「私のようなもんが始めた埴細工で、食べられる方が出来たいうんは、ええことですわ」。一言そう言って、微笑んだという。
蓮月は四十歳代から八十過ぎまで約四十年にわたって「蓮月焼き」を造り続けた。晩年は黒田光良という男と連携して作業していたので、黒田家に蓮月の書状が沢山残っている。
書状によれば、蓮月は高年になっても、ひと月に百点以上は制作。年に千二百点余で四十年間通したとすれば、生涯に五万点は作品を遺したと見ていい。当時の日本人口は三千五百万人で家数は七百万軒弱。出回った多くの偽物分を含め、蓮月の名は、和歌付きの陶器のせいで日本中に知られるようになった。
そのうち、聖護院村の蓮月の許に、一人の少年が同居するようになった。隣家の内気な子で、そのうち自然に、蓮月の陶器の土運びを手伝い始めた。年の頃は十三、四歳。元来は三条衣棚の大きな法衣商の子だったが、幼時の病いが基で片耳が殆ど聞こえなかった。名は「猷輔」と言い、後の文人画家、富岡鉄斎である。
蓮月はありったけの愛情と、芸術的感性をこの少年に注ぎ込み始めた。少年には、どこかしら翳があった。近所の噂で、耳が聞こえ難いのだとは聞いていたが、それだけではなく母親が居なかった。父親と二人暮らしで、二人して一心不乱に読書している。少年は遠目には惚れ惚れするような美貌ながら、よく見ると斜視で、眼玉が斜めに飛び出していた。
蓮月は不憫に思い、心にかけるようになり、学問好きの父子との深い付き合いが始まる。蓮月は鉄斎少年に、あらゆることを教えた。鉄斎は懸命に学んだ。やがて鉄斎の父の手引きで、蓮月は鉄斎を同伴して北白川村の静かな山寺「心性寺」の一室に引っ越す。
安政の頃になると、蓮月の名声は日本中に轟いた。いろんな来客があり、人目を避けたい蓮月は度々引っ越しを重ね、西賀茂村の神光院を終の棲家として住み着く。質素な暮らしぶりに変わりはなく、終日、土ひねりをして働き、夜は光明真言を唱えた。
幕末の戦乱に蓮月は心を痛めた。鳥羽伏見の戦いで人が大勢死傷したと聞くと、眼は涙で一杯になった。独りになると、和歌を一首こう認めた。「聞くままに 袖こそぬるれ 道のべに さらす屍は 誰にかあるらん」。老女とも思えぬ力強さで、蓮月が動き始め、途方もないことを言い始めた。「西郷に談判する」。(このまま国の中で人が殺し合ってはいけない)。蓮月は直感でそう思った。西郷を諫めるには歌がいい。思いのたけを歌にぶつけた。
――あだ味方 勝つも負くるも 哀れなり 同じ御国の 人と思へば
それを短冊にしたため、西郷への直訴を企てた。伝手はいくらもあった。知人の儒学者・春日潜庵は西郷の指南役といってよかった。そもそも、蓮月の周囲には和歌を好む薩摩藩士が始終出入りしていた。鉄斎にしても、西郷とは顔見知りで、一緒に相撲見物をしたこともある。西郷はこの和歌を見た。大津の軍議で、諸将にこの和歌を示し、この国内最大の内戦の在り方について、大いに悟るところがあった、という。
▽筆者の一言 蓮月は<越後の貞心尼><加賀の千代女>と並ぶ江戸期「三大女流歌人」の一人とされる。前半生は不幸な運命に苛まれた。十六歳での最初の結婚では三人の子を授かるが、生後すぐに亡くなり、身持ちの良くない夫とも離別。二十八歳で再婚し、幸せな生活に恵まれるものの、夫は四年後に病死。その後まもなく二人の我が子と養父を亡くしている。蓮月の前半生は、人の世の悲しみと無情を生き抜いた人生だったとも言えよう。が、その悲しみと無情は歌心や焼き物造りの源泉と化していく。傷心をほんの少しでも癒やさんがための心ばえが数々の秀句や名器を産んだ。天の配剤か、良くしたものだと思う。
初出:「リベラル21」2024.5.30 より許可を得て転載
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