戦後史を見直すための必読書 麻田雅文『日ソ戦争-帝国日本最後の戦い』(中公新書)を読む
- 2024年 6月 8日
- 評論・紹介・意見
- 「リベラル21」小川 洋戦後史日ソ戦争
「日ソ戦争」理解のために
「日ソ戦争」は一般にはあまり馴染みのない用語である。日本のポツダム宣言受諾直前にソ連が対日宣戦し、満州、樺太(サハリン)、千島列島に侵攻して始まった一ヶ月近く続いた戦争を指す。教科書では「ソ連の対日参戦」としか書かれていない。しかし、双方の兵力約220万人、航空機や艦船も動員されて戦闘が繰り広げられた。その後は抑留問題や領土問題も生じている。やはり「戦争」と呼ぶべきであろう。
しかし名称も定着しないほどに研究が長らく手薄だったことには理由がある。冷戦中はソ連側の資料・史料が大きく制約された。ソ連崩壊後、部分的に利用可能となり、研究成果が出るようになったのは今世紀に入ってからである。また冷戦下では、日本人研究者がソ連の戦争犯罪などを取り上げれば、否応なくイデオロギー対立に巻き込まれた。さらには戦史研究が政治史研究よりも低く見られるという事情もあった。
日ソ戦争を表題とする書籍としては、富田武の『日ソ戦争 1945年8月-棄てられた兵士と居留民』と『日ソ戦争 南樺太・千島の攻防-領土問題の起源を考える』の2冊が、2022年、みすず書房から出版されている。ロシアで新たに公開された資料を利用し、また体験者の記録なども交え、満州・南樺太・千島列島の3つの戦場の経過を描いている。
麻田の『日ソ戦争』では、近年、新たに閲覧が可能となった、ソ連軍に鹵獲(ろかく)された旧日本軍や満州政府の文書も利用されている。体験者の記録やエピソードは最小限に抑えながら、新書版の制約のなかで日ソ戦争の全体像が理解できるよう、よく整理されたものとなっている。以下、日ソ戦について本書を読んで改めて考えたことを取り上げたい。
日本政府・軍の判断力欠如
第一に、情報収集能力と判断能力の欠如など、日本政府・軍の情けないほどの無能さである。よく知られているように、政府・軍・宮中とも、ソ連軍が実際に攻め込んでくるまで、ソ連の仲介による対米戦争の少しでも有利な終結の実現を期待していたのである。しかしアメリカは43年10月には参戦の見返りを示してソ連に参戦を促し、ソ連側もなるべく早い段階での参戦を約束している。45年2月のヤルタ会談では密約として、スターリンはドイツ軍降伏の三ケ月後に対日参戦することを約束していた。
ポツダム宣言を受けた時点でも日本政府はまだソ連に期待し、特使派遣受け入れの要請している。それに対する最終回答が、8月8日のソ連の宣戦布告だったという悲喜劇となったのである。大本営は、宣戦布告とソ連軍侵攻が始まっても、「ソ連との交渉に未練をもっていた」ため、本格的な侵攻ではないと見て作戦開始が遅れたという。
2月末に沖縄戦が開始されている。ヤルタ会談の情報は諜報活動によって日本政府も得ていたとする最近の研究もある。この時点で降伏を決断していれば、現在の沖縄問題はもちろん、南北朝鮮分断もなかった可能性が高い。国家の指導者層の判断力が一国の運命だけではなく、地域の国際社会のあり様も左右する。
戦争終結時のアメリカの混乱
第二に、大戦終結に向けてのアメリカの混乱と、それが残した戦後の極東アジア政治情勢である。アメリカには是非ともソ連の参戦を求める必要があった。ヨーロッパの戦争が終了すると、欧州戦線からの帰還兵を迎え、アメリカ社会は大戦が終結したかのようなお祭り騒ぎとなっていた。しかし、沖縄戦が終了したのは6月下旬である。本土決戦となれば、さらに10万人程度の米軍兵士の犠牲が見込まれていた。アメリカは対日戦争を少しでも早く終結させる必要に迫られていた。
本土決戦を覚悟していたアメリカとしては、その前にソ連に日本軍を北側から攻撃してもらうことは最優先事項であった。また副次的事項として、ソ連軍が千島列島を攻略後、飛行場のある一部の島を日本本土爆撃基地として利用することも模索していた。アメリカが早い段階で、千島列島のソ連への「引き渡し」を認めたのも、その軍事的関心からであった。北方領土問題の根源はここにある。
朝鮮半島については、ヤルタ会談で、「当面の間、連合国による信託統治、その後、国民投票で政権を選択」することとされており、半島における日本軍の武装解除、占領の分担などについての具体的な合意はなかった。ソ連軍にとっても朝鮮半島への戦略的関心はおもに朝鮮北部の港湾を押さえ、満州と日本本土とを遮断することにあって、日本領であった朝鮮半島を制圧する計画はもっていなかったとされる。
しかし、8月10日の日本政府のポツダム宣言の受諾通知により、アメリカ側は朝鮮半島占領の分担計画を急いで立てる必要に迫られ、半島中央を横切る38度線での分割を提案した。8月16日のことであった。通説では満州から南下するソ連軍の動きに慌てたアメリカが38度線での分割を提案したとされてきたが、実際には、日本の想定外の降伏に慌てたアメリカがとりあえず地図上に線を引いたというのが真実らしい。ソ連軍は提案を受けてから38度線まで南下することになった。
歴史にイフはないとされるが、日本の単独占領を追求していたアメリカが、当時は日本領であった朝鮮半島全域の占領を企図していたら、9月上旬まで満州と樺太や千島列島での戦闘を続けていたソ連は、その計画を認めた可能性もある。また逆にアメリカが日本本土の占領に集中するため、朝鮮半島の占領をソ連に全面的に委ねた可能性もあった。日本軍の武装解除と占領の軍事的な都合による一時的な取り決めが、その後の分断国家を成立させてしまったのである。
ソ連(スターリン)のしたたかさ
スターリンは、対日参戦を英米に対して少しでも高く売りつけようと、初めは過大な要求を示し、じょじょに実際的な要求に落とし込んでいくという戦略をとった。44年暮、スターリンはアメリカの使節に対し、遼東半島、旅順、大連を租借地とすること、かつ同地域の鉄道も支配下に置く希望を伝えている。日露戦争で日本に奪われたものを取り返すというわけである。ヤルタ会談では南樺太の「返還」、千島列島の「引き渡し」の約束を取り付けた。
8月9日に日ソ戦争が始まると、他の連合国軍が8月15日に停戦した後も、ソ連は「無条件降伏となっていない」として、降伏文書調印の9月2日(歯舞群島の占領は7日終了)まで戦争を続けた。この間の戦争はほとんど火事場泥棒と言ってよい。
当初、ソ連は終戦後の日本の米ソ共同統治も提案したが、アメリカに否定された。その後は、8月17日に北海道の北半分の占領を受け持つことを提案し、さらにはベルリンと同様に東京の部分占領も当然の権利であるかのように求めている。さらに8月24日には留萌への上陸作戦が発動される予定となっていた。しかし、これらは日本本土の全面占領の方針を固めていたトルーマンに否定されて放棄した。
スターリンは満州のソ連軍に、現地の産業資材を略奪しソ連に搬送すること、また日本軍兵士や一般の日本人もシベリアでの労働力として抑留することを命じていた。実際のところソ連に、日本本土の占領、統治まで担当する余裕はなかったのであろう。
日本が少しでも早く敗戦を認めていたとすれば、北方領土問題も沖縄問題も、あるいは朝鮮半島の南北分断、さらには抑留者の悲劇も避けられた可能性が高い。現在の極東アジアの政治情勢を深く考えるためにも、日本敗戦の過程をよく知ることは必要であり、本書はそのための必読書となろう。
初出:「リベラル21」2024.6.8より許可を得て転載
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