映画「関心領域」を観る ナチス時代の裕福な中流家庭の生活
- 2024年 6月 17日
- 評論・紹介・意見
- 「リベラル21」小川 洋
不吉な始まり
この映画の主人公たちが、アウシュヴィッツ収容所長のルドルフ・ヘス(副総統のヘスとは別人)の家族であることを予め知っていなかったら、上映開始後しばらくは、なんの映画なのか困惑していたはずだ。上映開始から1、2分は不気味な音とともにスクリーンにはノイズのような画像が映し出される。制作者が重いテーマの作品をどのような場面から始めるべきか、逡巡しているかのように。その後、母親らしい女性が、赤ちゃんに花を見せる場面が唐突に出てくる。裕福な中流家庭の絵に描いたような日常生活がたんたんと示される。
しかし、まもなく不吉な予兆が現れてくる。例えば、ヘスの妻であるヘドウィグの、若い女性使用人たちへの横柄で酷薄なものの言い方や態度が度を越している、という印象を与える。使用人たちも常にどこか怯えた様子である。映画の半ばで、使用人を些細なことで𠮟りつけるヘドウィグが、「私はあなたを、いつでも灰にして処分することもできる」と言う場面で、彼女たちが殺害を免れてヘスの家庭に配置されたユダヤ女性であることが示される。その使用人たちが忙しなく働く側で、高官の妻たちが世間話に夢中になっている場面も描かれる。
不気味さを増す展開
屋敷にはよく整えられた家庭菜園があり、またプールの付いた庭がある。その屋敷の壁の向こう側には常に監視塔が見えていて、ヘスの家が収容所に隣接していることがわかる。時折、壁の向こう側から蒸気機関車の音が響き、吐き出される白煙が見える。ユダヤ人たちを運んできた機関車が到着しているのだが機関車やユダヤ人の姿は映らない。時折、人の悲鳴や銃声らしき音が脈絡なく響くなど、映画は不気味さを増していく。
男の子たちがサイコロのように転がして遊んでいるのが入れ歯(おそらく金が含まれていたのだろう)という何気ない場面など、映像の隅々に不気味さが埋め込まれている。ヘスが男の子たちを連れて近くの川で遊ばせている場面がある。しかし彼が川底で踏んだものを取り上げると人骨らしいものであり、慌てて子どもたちをボートに乗せて家に戻り、頭から足先まで丹念に体を洗う場面が描かれる。アウシュヴィッツの焼却炉で出た灰を近くの河川に流していたという話に結びつく。映画を観る人たちは次第に底知れぬ恐怖を感じていくことになる。
また映画にはさまざまな仕掛けがあり、上映時間中、常に良い意味での緊張を求められ続ける。ある時、妻の母親が訪問する。ヘドウィグは、いかに素晴らしい理想的な家族と住まいを手に入れたか、いかに今の自分が幸せか、母親に熱心に説くのだが、母親は数日して短い手紙を残して黙って家を去る。手紙の文面は映し出されず、彼女が立ち去った理由は、観る者の判断に委ねられる。また途中で、幼さの残る女の子が夜間、静かに道の脇に果物を置きながら歩く様子が、サーモグラフィの映像で映し出される。ドイツ人のなかにも、ホロコーストの被害者に手を差し伸べた者がいたことを暗示しているのだろう。
生存圏構想と女性たち
この映画を観るうえで、ナチスの「東方生存圏構想」についての基本的な知識は必須である。ヒトラーによれば、優秀な民族であるドイツ人が「国際ユダヤ人組織」に対抗するためには十分な人口を養えるだけの豊かな土地を確保するべきであるとする。そのためには劣等民族であるポーランド人やロシア人などを排除する必要があり、とくにロシア人については、ソ連を崩壊させた後に絶滅させるかウラル山脈の向こう側(シベリア)に移住させる。その後にドイツ人たちが東欧一帯に植民者として定住し、その他の民族は奴隷としてドイツ人に奉仕させることによってドイツの繁栄が実現できるというものだった。
39年9月のポーランド侵攻、41年6月のソ連への侵攻(バルバロッサ作戦)はその構想実現に向けての軍事作戦であった。進軍するドイツ軍の後方からは、教師、看護師、秘書、妻として約50万人の女性たちが占領地に向かったという。彼女たちの動機は、「労働者階級から脱却し、富と権力を伴う東部での新たな生活に乗り換え(る)」ことであり、その動きは「東部の陶酔」と呼ばれたという。(ウェンディ・ロワー著、武井彩佳監訳『ヒトラーの娘たち』、明石書房、2016年)。ヘドウィグ自身が労働者階級出身だったか分からないが、多くの女性たちにとって東部への移動は、階層の上方移動を期待してのことであったことも確かである。
理想の家庭を手に入れた妻
実際のヘドウィグは1908年生まれであった。第一次大戦と戦後の政治的・経済的大混乱の時代に成長し、ナチス思想に社会が染め上げられていく時代に青年期を過ごした世代である。熱心なナチス活動家であったルドルフを夫にした自身の選択を含め、激動時代を生きてきた彼女にとって、アウシュヴィッツ収容所の隣の住宅は、理想的で永遠に続くべき生活のはずだった。
夫のベルリンへの栄転人事が示されると、ヘドウィグは猛烈に反発する。「せっかく家庭菜園を含む理想的な庭も整えた」、「あなたがベルリンに行くのは構わないが、私と子どもたちはここでの生活を続ける」と強硬に主張する。憤懣やるかたないヘドウィグが、収容所の高い塀沿いに早足で歩く姿が印象的である。ヘスは家族を残していく許可を得るためベルリンに手紙を書くのだが、そのなかで「妻が築いてきた家庭は、東方でのドイツ人の家庭像の手本となるものであり、彼女の気持ちを尊重したい」と記すのである。
彼女の理想的な生活は、ドイツの軍事侵略とユダヤ人などの大量虐殺という途方もない暴力によって略奪された富によって支えられていた。舞台の時期は43年、子どもたちが庭のプールで遊ぶ場面もあるから、その夏であろう。しかしソ連に侵攻したドイツ軍はその年の初め、スターリングラードで降伏するなど、その攻撃は頓挫していた。歴史経過を知る現代に生きる者からすれば、ヘドウィグの態度はあまりにも楽天的に思われるのだが、ここで、ふと我々自身の現在の生活のあり様に不安を感じるべきなのであろう。
多様な見方が可能な映画
ヘドウィグはその生活の維持可能性に、まったく無関心で自分の憧れていた生活を手に入れたことに満足しきっている。映画ではソ連軍の砲弾の音が近づいた時のヘドウィグやその家族の姿は描かれない。現代の先進国の市民生活も似たような構造の上に成立していると思えば、彼女の浅薄さを嗤う資格が我々にあるのか心許ないのである。
我々の豊かな生活も「板子一枚下は地獄」なのではないか。また我々の現在の生活は、地獄のような生活を強いられている人々によって支えられているのではないか。また皮肉なことに現在、「ユダヤ人国家」であるイスラエルは半年以上にわたって連日のようにパレスチナの女性・子どもたちを大量に殺害している。我々はガザの壁の向こう側で行われている蛮行を、テレビなどを通じて見ながら日々、平穏な生活を送っている。この映画は観る者によって異なる多様な刺激を与え、多様な受け止め方を可能とする優れた作品である。
初出:「リベラル21」2024.6.17より許可を得て転載
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