世界のノンフィクション秀作を読む(77) 北条常久(文筆家)の『評伝むのたけじ』(無明舎出版刊)――反戦平和を求め続けた在野のジャーナリストの一〇一年の生涯(上)
- 2024年 7月 4日
- スタディルーム
- 『評伝むのたけじ』北条常久書評横田 喬
むのたけじ(1915~2016)は戦前、朝日新聞記者として中国~東南アジア特派員を経験。1945年8月15日の日本の敗戦当日、自身の戦争報道の責任を感じて退社する。郷里の秋田県横手市で週刊新聞『たいまつ』を創刊、主筆として三十年間、健筆を揮う。以後も亡くなる間際まで著述や講演活動を重ね、「戦争絶滅」「世界平和実現」を訴え続けた。
武野武治は大正四年、秋田県南の仙北郡六郷町(現美郷町)の農家に生まれた。漢字書きでは「タケノ」と誤読され易く、そのため生涯、平仮名表記で通した。生家では長男は生後まもなく死んでいて、実質的な長男として育ち、弟と妹が二人ずついた。
両親は、母の実家から借りた四ヘクタールの水田を耕作。その賃料では生計が立たず、十キロほど先の商業町・大曲との間で荷車で品物を配達、集金する駄賃挽きをしていた。
父は堅い人物で、駄賃挽きの運送業を生きがいとし、七十五歳まで荷車を挽き続けた。
郷里の六郷は冬場の雪が深く、九割が小作人という貧しい処。「荷車の荷物の届け先の地主たちが、ろくに働かないでいい暮らしをしている。親父は汗水垂らして一日中働いて、やっとの暮らし。どうしてだろうと幼心に思っていた。この理不尽さが、私にジャーナリストへの道を進ませたんだろうな」(「おやじの背中」『朝日新聞』平成二七年七月一〇日)
昭和二年(1926)、横手中学(現県立横手高校)入学。六郷町から一〇キロ、徒歩で二時間半はかかる。鉄道がないから朝五時に家を出て、学校の始業時間の八時少し前に到着。帰りは、終業が四時頃で六時半頃に帰宅した。
一五〇センチ足らずの小柄な体だったので、朝夕の通学は身に応えた。冬場は雪が一晩で十~二十センチも積もる。夏場と同じゴム靴だから登校時にはズボンはびしょ濡れ、上着はカチカチに凍っていて、ストーブで乾かすとダラダラと足元に水が垂れた。
オンボロの中古自転車を買って貰ったのは中学四年になってから。往復の暗い道が怖く、大声で英語の単語を叫ぶように声に出して急いだ。自転車を持つまでの三年間、外国語は声を出して学習すれば大丈夫と自信がつく。アルファベットが妖怪じみて映り、初めは英語は苦手だった。が、お化け退治を決意し、親に話して、読み仮名の付いた安価な英和辞典を買ってもらう。通学の行き帰りに声を出して読み、暗誦した。
当時の高等教育の人事は文部省直轄で、横手中学の教師も全国各地から集まっていた。その教員の一人が、むのに大きな影響を与えた作家・石坂洋次郎(1900~1986:代表作『青い山脈』)だった。石坂は弘前市出身で、慶応大学国文科卒。教員として弘前高女、横手高女と転職し、むのが入学した年に横手中学に転勤した。むのは石坂から国語・作文・修身の三教科を教わったが、教科指導より、今で言う部活動から強い影響を受けた。
石坂は妻帯していたが、若い紅顔の慶應ボーイだったから、横手高女では女学生に人気があり、彼を中心にした同人誌も発行されていた。石坂が横手中学に転勤してからは、男子の中学生もそこに参加した。同人誌は人気があり、むのも文章を寄せるようになった。
むのの才能を認めていたのは石坂ばかりではなかった。むのが五年生の時、担任だったのは校長の小野㐮。東京外国語学校出身で、校長室には世界的に権威のある英語辞書オックスフォード大辞典十二巻が揃っていた。横手中学がいかに英語教育に熱心だったか判る。
当時は昭和六年の「満州事変」の時期。日本は中国を始め諸外国への進出を推し進め、外国の出先機関や商社で働く人間が待望される時節でもあった。むのは、得意の英語で外地で日本のために一働きしようと思うようになる。中学の教師らからの口添えもあり、父は息子の東京外国語学校受験を承諾。むのはめでたく東京外語スペイン語学科に入学する。
スペイン語を選択したのは。日本との交流国の公用語はスペイン語が一番多かったから。苦学生そのものの苦労を四年間散々重ねた末、36(昭和一一)年に同校を卒業。社長・町田忠治(後の民政党総裁)が秋田出身だったのに親しみを感じ、報知新聞社に入社する。
初任地は秋田市で、下宿の細谷家で二年後に妻となる銀行員の娘・美江と知り合う。向学心のある読書好き、いい話相手になり、むのは「(百年に及ぶ)人生の中で一番嬉しかったのは、美江さんと出会ったことでしょう」と述懐している。
同年11月20日未明、秋田県北の鹿角郡三菱鉱山尾去沢鉱業所で、鉱石の製錬残滓の溜池の堤防が豪雨のため決壊。死者三三六人、行方不明四四人を出す大惨事となる。むのの写真は「報知新聞」号外の一面を飾り、「鬼気迫る」と評判を取った。
38年秋、本社社会部に転勤。遊軍記者として企画物を担当。40年夏、興亜青年勤労報国隊の学生八二〇人と中国に同行する。同隊は文部省が夏休みを利用し、男子学生らを旧満州などに派遣、見聞・認識を深めさせるのが狙いだった。むのは北京、天津と歩き、現地の日本人の威張りくさった態度を見るのが嫌になった。
彼は学生ら一行と離れた後、一か月ほど中国各地を転々とする。内蒙古の首都・張家口からトラックで戦場の最前線へ赴く。歩行中の中国人を日本軍が拉致してしまう現場を目撃し、記事には到底できない裏面を見てしまう。軍部から知らされている戦況とはまるで違い、拠点こそ抑えているが、前線では決して優勢ではない。日本は中国には勝つことはできない。が、そんなことは記事にはできない。言いようのない情けない気持ちになった。
報知新聞社は居心地は良かったが、取材に金をかけないので良い記事が書けない。40年秋、むのは編集局長に対し取材費の値上げと記者増員を直談判。要望は会社側から拒否されるが、この経緯が評判になり、年末に朝日新聞社社会部から引き抜かれ、移籍が決まる。
新天地での最初の仕事は投書欄。東京・大阪・西部(九州)に寄せられる投書は一日五百通にも上る。むのは戦時下とあって紙面に載せられなくても胸を打つものは、メモしておいた。それが後年「たいまつ」(六五三号、65年7月30日)に「戦時の国民は何を叫んだか――新聞に載らなかった投書に関するメモ」という記事になる。
「記者時代の一番の思い出は従軍経験」と、むのは言う。41年12月8日、日本軍がハワイ真珠湾を奇襲攻撃、太平洋戦争が勃発する。朝日新聞社はジャワ上陸作戦に総勢25名の特派員団を派遣。文化人の阿部知二・武田麟太郎・大宅壮一らが徴用、宣伝班として同行し、むのも特派員として加わった。
インドネシアはオランダが三百年間統治。日本軍は42年3月、今村中将率いる五万五千の兵力でインドネシア全土を制圧した。むのは後年、こう語る。「日本軍はオランダ人捕虜に対して余りにも残酷な酷いことをした。戦後、オランダは<日本を国連に入らせない>そう思うのはもっとも。私は当時、現地でそれを見ていました」。
(アジアと共存共栄をするなら、市長には現地人がなるべき)。だが、軍部は日本の民間出身者を市長に抜擢した。むのはこの事を暗に批判する記事を書いた。軍は執筆者を追求し、名乗り出たむのの日本送還をちらつかせた。
当時のジャワ支局長は、後に朝日新聞専務になる信夫韓一郎で、信夫がむのの盾になったのかも知れない。戦後、信夫は、むのが朝日新聞社を退職して「たいまつ」を創刊した時、古い活字百三十万本を譲り渡し、後にはむのの選挙資金を援助している。
同年11月、むのに本社報道部(社会部)への転勤命令が出る。戦時下の新聞は国民の戦意高揚が第一。新聞本来の事実の報道や権力監視などは二の次だった。44年6月、「学童疎開」が決定。東京・大阪をはじめ十二都市の国民学校(今の小学校)の三年から六年の学童の地方への集団疎開を決定。東京の第一陣は、8月4日に各地に出発した。9月3日の「朝日新聞」紙面には、「たうもろこしをほほ張る児童」という、子供たちのにこやかな集団写真の入った武野武治の署名入りの記事が掲載されている。
44年6月のマリアナ諸島沖海戦で、日本軍はアメリカ軍に決定的に敗北。11月にはB29が日本本土を襲撃し、日本の敗北は明白になった。浦和に住んでいた彼は、電車が不通で歩いて通勤する。どこもかしこも死体が転がり、一面焼け野原を前に茫然と立ち尽くした。
45年8月6日、広島に原爆投下。9日には長崎にも原爆が投下され、ソ連参戦のニュースも入る。朝日新聞の社内では、日本がポツダム宣言を受諾、全面降伏に踏み切った、と8月12日頃には知られていた。報道部長から「日本が降伏することになった。今後どうするか、銘々相談しろ」と指示があったからだ。
12日から14日にかけて毎夜、政治部とか社会部とか部毎に、終戦の時の紙面をどうするか、今後の対策について、話し合いが持たれた。が、全く見当が付かないので、誰も発言しなかった。むのは自説を披露した。「こんなことをやったら、同じ過ちを繰り返す。戦争中、真実を報道しないで、大本営発表をそのまま民衆に伝えた。許されないことだ。幸い『朝日』は社屋は減価償却しているというから、建物や全てを社会に寄付し、社員は全部辞める。新時代の新聞づくりにふさわしい人間たちで新しい新聞を作るしかない」
同意する者も一部いたが、家族の存在などを理由に最終的にむのの意見は通らなかった。
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