溶けて、消えてけ ~連絡会の30年~
- 2024年 7月 13日
- 時代をみる
- ホームレス笠井和明
30年目の夏である。
走り続けることを目的にしたわけではない。 当初立てた目標やら、方針やらが、大風呂敷か故に、なかなか、それらが達成されず、結果、収集がつかず、長い道のりになっただけである。
しかも、路上の運動は、この地に当事者が居なくなったらその根拠を失うわけであるが、それが、その時々の社会経済的な理由や、時代、時代の都市と地方の関係など、想定外の事情が色々とあって、当事者の人数が決してゼロにならないとなると、やめるきっかけすら、つかめない。
今、路上に居る人々を組織化し、自立支援なり生活保護なりを社会に要求し、改善し、生きる道を示し、共に歩もうとしても、次の週から、全く知らない新しい仲間と出会う。
そうすれば、また最初からやり直し。路上で暮せるよう、それ以上堕ちないよう応急援護の支援をし、話を聞き、何が必要なのかを共に考える。そして、一緒に福祉 事務所に行ったりと、その希望を共にかなえるため、野宿であると大変なので、「ドヤ」「宿」「シェルター」 と、中間施設を探したり。
そうこうする内、当事者の仲間も、仕事を見つけてこの地を去ったり、高齢化すると福祉を受けたり、病気になったり、亡くなったりをし、世代交代。
人が入れ替わり、入れ替わり続け、それでも、炊出しやら、夜回りやら、衣類配布やら同じことを繰り返し、「仲間たち!」と呼び続け、福祉につなぎ続け、それで事足りないので、NPOを作り施設運営をしたり、シャワーサービスをしてみたり、そこで仲間の仕事を作ってみたり、「食育」なのか何なのか、出来ることは自らやろうと、「自給自足」「農業支援」だと長野に行ってりんご栽培やら古代稲作りを手伝ったり、新潟に行って米作りをしてみたりと、路上から派生する色々なことをやり続けて来た。
かつて自称していたよう、「路上のなんでも屋」になってしまったようである。
どうしてこんなになったのかを考えると、行政の方が当初「総合的対策」と銘打っていたので、私たちの方も 「総合的支援」だ(新宿区への「総合要求闘争」「路上 からの提言」だの、総花提言、あれも、これもの総花要求が基本で、その元で個別課題を設定すると云う手法をとってしまった)と、対抗して、しかも、この問題をすぐ「解決」するものと、甘く考えていたのが悪かったのだろう。
まあ、そんなレベルの運動体なので、どだいアニバーサリーなんてのは似合わない。なので、特別なことはしないこととした。
それでも30年前の思い出は、連絡会のホームページ上の「30周年記念特設サイト」が更新中なので、かつて、かかわってくれた方や、懐かしさがお好きなお方はどうぞごらん下さい。
もはや、こんなものを研究する物好きの人は居ないであろうが、もし居たとしたら、私たちの経験も何かの役 にたつかも知れない。
「そんな時代もあった」のである。
しかし、こんなに長く続けていると、支援を下さる方々には、忸怩たる思いで、頭(こうべ)を垂れるしかない。
路上の人々を何とかして下さいと云う願いを多く頂く中、何とも出来ないことが数多くあり、その「解決」には相応の時間がかかったりもするし、時間をかけても「解決」されないこともある。「解決」されたと思っていても、いつの間にかぶり返されることもある。
それは単に私たちの力量不足なのだが、一般の方々が 心配下さる思いに、ストレートに応えられないのが恥ずかしい。
人並みの努力はしたつもりである。それでもこの問題 の終わりは見えない。
………
30年間、路上に撒き続けているチラシ・ビラは、当事 者のこれからの生き方にとって、何らかの力や希望になってくれたら幸いと、「仲間たち!」で始まるものを今も続けている。
けれども読まれずゴミ箱の中へとだいたいは行くので あるが、懲りずに書き下ろしのチラシが毎週、30年もの 間、新宿の路上に蒔かれ続けている。
古い仲間は「紙の爆弾」とか云いながら嬉々としてパ トロールで配りまくっていた。そんな伝統か、今もチラシ撒きは活動の中の基本の事柄で、人が集まったらチラシを撒く。撒いている仲間は中身は知らないし、あまり読みもしない。でも、連絡会のチラシだから間違ったことは書いていないと「これを読め!」。胸を張って撒き 続ける。
そんなチラシ・ビラを多く作った。仲間向けのがほとんどで、その原本のすべてが残っているわけではないが、古いのをちょいと読み返してみると、何だか懐かしくもなる。
このチラシ・ビラの束、かつて本にしてもらったこと (「新宿段ボール村のたたかい」現代企画室1996年絶 版)があり、その後、2000年頃からはホームページにアップするようにもなったので、意外と誰でも気軽に読める。恐ろしき量の私たちの財産でもある。
このチラシを推してくれるおっちゃん、ファンだと言って熱心に読んでくれているおっちゃんも、そこそこ居たりもする。新しめの仲間はこのチラシを握りしめ、福 祉事務所に駆け込む仲間も居る。
そうなればしめしめである。
連絡会が連絡会として居るのは、このチラシのおかげかも知れない。
今も新宿に居るよ、見守って居るよと云う、「印」のようなものである。
その昔は、情報がないなどの理由から、文化活動やらビデオを撮って上映会なんてものも盛んにやっていた頃があるが、今やネットの時代、おっちゃんもスマホをもって、Wi-Fiがつながるところであれば、無料で情報を仕入れている。娯楽の方も、「年末ぐらい紅白見たいよ」 と、そんな仲間の願いに応えるべく、機材搬入やアンテナ設定をして上映会などをやっていたが、今やスマホで見られる時代。見たい仲間はそれを見る。見たくない仲間はそんなものは見ない。
時代の流れに逆行する古い仲間ももちろん居る。もはや孤独を楽しんでいるとしか思えない生き方もある。都会の孤独はそんなに悪いことではない。人とのつきあいに疲れ果てた人々は今の過度な情報には流されず、社会に期待をすることもなく、己の道を行く。修行僧のような生き方も、雑踏の新宿の中で可能である。情報は、ゴミ箱の中の連絡会のチラシとスポーツ新聞。
それが心地良いとする仲間は、もはや梃子でも動かない、ベテランの域に達した仲間だけであるが。
………
30年も新宿の路上を見続け、そこで暮らす人々とつきあい続け、その人々を「仲間」と呼び続けていると、 色々なことが見えて来る。時代と云うものも変わり、町並みも変わり続けた。
どんなに再開発が繰り返されたとしても、宿命たる 「坩堝 るつぼ 」には、その「坩堝」の良さがある。
西の「女郎投げ込み寺」として有名な「成覚寺」の逸 話やら、「オケラ公園」「泪公園」と呼ばれた西大久保公園の昭和の時代の歌舞伎町にまつわるの悲話やら、「坩堝」と云われる新宿には、それぞれの歴史が有り、 そこには時代時代の「弱者」が顔を覗かせる。平成の時代はホームレスとなるのか、それもまた必然であったのだろう。西口のバス放火や、東京都の強制排除や、西口地下の火災も、新宿の悲話として、そこに住む人々に語り継がれるのか。
今や、そんな歴史も知らず、インバウンドの外国人が この街の主人公になったかのようではあるが。
月日は都市の形を変える。
利便性がよく、近代的な街、東京だと超高層マンション群に象徴され、社会インフラも整い、教育もまた整いと、そこで生きるには、とても便利な街に変わって来た。そして、少子化と云いながら、東京の人口は増え続けている。
西新宿は都庁が来てから33年も経つのに、未だもって再開発。商業地から住宅地へ拡大し、芸能人が飛び降りたのも西新宿の高層マンション。最近では風俗の若い女性が、その客にめった刺しとなった舞台も、これまた西新宿の高層マンショ ン。
そんな階層のふもとには「ホームレス」。 先日は地下に住む「ホームレス」のおばさんが、何があったか、交番の警官をハサミで刺す事件もあった。まさに「坩堝」である。何が起きても不思議ではない。
ま、新宿はそんな絵に描いたような街である。
貧困問題だ、何ちゃら問題のだと言われる前から、社会の底辺でしか生きられなかった人々は、 「貧民窟」や「山窩」の時代から、戦後の「浮浪者」、 「スラム」を経、建設港湾の労働力として「寄せ場」に集められ、下層にまつわるヤクザや風俗の労働者も繁華街に集められ、都市の深部で脈々と生き続けて来た。それは見ようと思わなければ見えなかった。
けれど、それを興味本位で見るものではない。ましては政治なんてものに利用するものでもない。静かに見守り、同じ視線で、手をそっと、何気なく差し伸べれば良いだけである。その手が要らないと言われれば引っ込め、また別の手を用意する。
このような連綿たる時の流れや、新宿の路上の怨嗟の思いの蓄積の中に、今の私たちがあると思いたい。
生まれて初めて「ホームレス」と云う生き方を知った人にとっては、それは私たちとは違った感覚や感想になるだろうが、そういうきっかけが減ったのも確かである。
都内の野宿集住地域の多くが、なくなり、減った。新宿で云えば、その昔は24時間、どの曜日やどの時間に来ても、「ホームレス」と呼ばれる人々に出会えることが出来た。が、今はそうではない。一定の時間に集まり、一定の時間の中で寝る。テントや段ボールハウスは、ポ ツン、ポツンなので、表からはなかなか見えない、中で寝ているのか、外出しているか判らない。お巡りのようにのぞき込むわけにも行かず、人ではなく箱を見ているだけとなる。まあ、これでは現状は判らない。炊出しと云おうか、食料配布と云おうか、そんな所に顔を出しても、集まる人々は明らかに「ホームレス」ではないような人々。聞いてみても、「ホームレスではありません」 「生活保護を受けています」などとのお答え。女性も多く、家族のような人も居る。
かつて連絡会が大々的に炊出しをやっていた頃、その食数は、路上の数とまったくリンクしておらず、炊出しには生活保護の人々が多く集まってしまうのは、まあ、当たり前であったが、今もまた同じく。
そんな場所で集まった人々と話すのは良いが、興味本位で同情したとしても、それはその程度。なかなか実相はつかめない。
たとえば、コロナの時の「定額給付金」、もらいましたかと聞いてみても、貰った人に限って「貰っていない」と答えるものである。そう云う嘘は自らを守るため。路上のコミュニティなんてものも変わっている。団 地と同じで、隣の人のことは知らないよと云う、そう云 う暮らし方が今や主流になっている。
国や都の「実態調査」のアンケート類も、アンケートをする側の属性や個性によって答えは変わってくると云 うことを知った上で、アンケートをしなければ、「概数調査」など数の把握もそうであるが、本当の実態はつか めない。
今、巷で語られている「ホームレス問題」とか、「ホ ームレス対策」とかは、過去のステレオタイプのものをベースにしているから、今の実情にマッチしないものも多い。
それに捕らわれて、空しいこぶしを上げ続けるのが、担当の相談員。意味のないことをするのが一律悪いわけではないが、やり甲斐があるのかないのか問われれば、成功例が少なくなると頭を抱えてしまう。
うまくいったのだと思い込んでいるだけの感も強い。 実際は人の人生、これからも山あり、谷あり、戻って来たり、野垂れ死んでしまったり、と、そんなものでもある。
けれども、コツコツ、地道に、そして丁寧にやることが大事なようである。学者や評論家のように決して知ったかぶりをしない。路上を見続けると云うことは、そう云うことでもある。
………
さて、コロナ渦も終わり、すべてが元に戻って来たのであるが、新宿の路上の現状もまた、元に戻りつつある。コロナ後の社会と云うのは、色々と世評されているところであるが、単に元に戻っただけではないようで、 社会の矛盾や怒りや悲しみと云うものが、規制されていた間、どこか目の見えない場所で熟成され続けていたようで、新たな問題が発生して来ても不思議ではない。
歌舞伎町の「トー横」と呼ばれる若い人々の問題は、 歌舞伎町がコロナ規制で事実上閉鎖されていた頃には思いも寄らぬ出来事で、その間、東急による歌舞伎町タワーの再開発がされ、旧コマ前の広場が、自由な空間のよう演出されれた、その時に偶然派生したようでもある。その頃苦難を受けた飲食系、風俗系の人々ではなく、その後、異性を求めたり、東京に憧れたり、家出をして来たり、と、街への吸収力が高まった時、若い人々が、そこにもともといた路上の人々に酒を通じて合流し、いわゆる溜まり場になってしまったのであるが、それを取り締まったとしても、何も解決しないし、ビジネス街ではないので、街はそれを許容してしまうから、今の対応はまあ、イタチごっことなっている。
その歌舞伎町、今は昼夜問わずどこもインバウンド (訪日外国人)で一杯である。そして、歓楽街なので、若い人々が大勢居る。活気が戻ったと云えばそうであるが、その戻り具合は異常なくらいである。
路上の仲間は、そこにアルミ缶を置いて、いつの間にか「物乞い」の商売を始めると、本国にも大勢いるのであろう、「ホームレス」など珍しくなく(世界的インフレと格差拡大で、どの国の都市も「ホームレス」は増えていると聞く)、小銭やお札をそこに入れる。酔っぱらって、蹴っ飛ばして行く平成の頃の偏狭で神経質な日本人サラリーマンは少なく、その恰幅と同じく寛容な外国人観光客が日本人「ホームレス」を守ってくれている。
そんな構図に変わり始めた頃、新宿の路上の数も、元に戻り、「困難を抱えた路上の女性」も増え、マッチ売りをしなくても、じっとしているだけで目に留まり、何らかの知遇を得ることができる。それを意識しているか、いないかはともかく、そう云う存在として路上生活者はこの街に定着しつつある。
最近では、私たちの夜間の調査で新宿駅周辺で160名を 軽くカウントするようになり、工事中で、頻繁に寝場所を変えなければならない新宿駅西口地下も含め、新しい仲間が目につくようになった。そして、思いもかけないところに寝ていたりと、明らかに新規で新宿に来たような仲間も多い。
まあ、そこら辺の人々は中高年層で、何かと仕事がある若者はそんなに居ないのであるが、それでも全体的にはだいぶ若返ったような感じもする。
新宿の周辺部の駅や公園などもまた同じ。居座ってしまう女性は居るわ、昔ながらの日雇いのおっちゃんは居るは、長期の者も、新規の者も居るは。
まあ、なかなか賑やかにもなり、毎日、毎週、そんなところを回ってみても、飽きはこない。
そんな新宿の変遷を、現場で30年も見続けられて来れたこと、そして、何かしらのアプローチをし続けて来たこと。それに意味があるのか、どうなのかは置いといて、とにかく誇らしい。
成果や効果など、どうでも良いのである。この新宿の 底辺・下層の世界、それをずっと見守ってくれている人や団体があると云うことだけで良いのだと思う。社会から排除されても、そこに仲間が居る。それだけで生きていける。だから、やり直そうとも思える。そんなものである。
30年はひとつの節目である。長くやっていれば良いと云うことでもない。長くやっていれば「慣れ」が生じ、やっている人も歳を取る。それでも、ひとつひとつのことを振り返り、同じ過ちを繰り返さないと、とにかくやり続けることに、何らかの意味を見いだせるような気もする。
運動を作ると云うことは、政治の世界と同じで、狐と狸の化かしあいでもある。嫉み、僻み、内部抗争、派閥抗争なんてのは当たり前で、時には撃たれて追い出される者もいる。
私の山谷時代の先輩も、数年前、その政治闘争に敗れ、その地から退却した。律義な彼はわざわざ新宿まで来てそのことを後輩の私に伝えてくれた。彼は、それこそ40年(学生の頃からずっと)はその活動を邁進しただろうか。多くの仲間に慕われ、信頼もされた。新宿連絡会が出来た頃、そして強制排除の時も毎日のよう新宿に来て、共にたたかった。路線をめぐって論争もした。意見の違いで表面は敵対しているようにみえ、それでも、 どこかで合えば、普通に話し合う仲でもあった。お互い認めあう活動家の関係である。
その彼が敗戦の弁を縷々語った、さぞ悔しかっただろうと思っていたら、その最後、「でも、何だかんだと、 楽しかったよ」と、あっけらかんと笑う姿は、何だか、とてもすがすがしく、そして、格好良かった。
去るものがいるのも運動でもある。それを人生賭け、やり続ける「変わり者」が居るのも、また運動である。
私たちの運動は、新宿と云う「カオスの街」に育てられた。「宿場街」としてのおおらかさに助けられた。それは、とても僥倖なことである。
30年もこの街に居続け、この街に暮す幾多の路上の人々と出会えたこと、その姿を見続けてこれたことに感謝である。そして、こんな団体を支え支援して下さる全国津々浦々の方々にも感謝である。路上の運動を敵視する風潮が強い中でも、そんな世論に屈せず、何かを信じてくれた、そんな多くの人々に私たちは支えられて来た。それは、連絡会の宝でもあり、財産でもある。
味方がいれば敵も多い。その味方が居たおかげで、ここまで来れた。その味方の中には数多の新宿のおっちゃん達が居る。
社会から騙され続けて来た下層の民は、敵と味方を見定める能力を身につけている。新宿のおっちゃん達はすぐさま連絡会を味方の陣営であると認めてくれた。何をしたわけでもなく、只、飯を配り、夜の新宿をチラシを持ってうろちょろしていただけなのであるが、そんな愚直な活動家の姿が当事者から認められたのだろう。それもまた、僥倖であり、そして、奇跡でもあった。
そして、これからも同じ道を往く。
より、この街に溶け込み、そして、それが当たり前となり、やがて、さよならも言わずに消えていく、そんなのも良いかも知れない。
(了)
初出:「新宿連絡会(野宿労働者の生活・就労保障を求める連絡会議)NEWS VOL90」より許可を得て転載 http://www.tokyohomeless.com/
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔eye5286:240713〕
「ちきゅう座」に掲載された記事を転載される場合は、「ちきゅう座」からの転載であること、および著者名を必ず明記して下さい。