ていこう原理31 空洞化? いや、精神・理念は護る!
- 2024年 7月 18日
- 時代をみる
- 憲法長谷川孝
◆空洞化とスリ替え
「憲法9条だけでなく、20条も空洞化されつつある、との指摘もある」「空洞化させない」と書きました。でも、ほんとうに空洞化した、と言ってしまっていいのだろうか、と考えざるを得なくなりました。「空洞化」とは、つまり「カラッポ化、ウツロ化」だからです。
もちろん、私たち(ピープル=国民です)の理念・精神がカラッポになっては一大事ですが、まだ何とかなっていると願いたい思いです。それには、憲法、権利、人権などに関する学習の充実や、市民活動の持続が必要なのですが。
では、憲法は空洞化しているのか? 非戦平和・戦争放棄の理念が侵害されている現状だとは言え、それは軍事依存の安全保障(という平和)への「スリ替え」だと捉えたほうがいいと考えるのです。このスリ替えは、私たちが憲法の理念・精神を護持しているから、言葉や解釈のゴマカシに依らざる得なかったためだ、と言えないでしょうか。
◆宗教的教養とヤスクニ参拝
「空洞化」という語は、産業の空洞化、地域の空洞化などと、1970年代頃から使われ出したようです。国語辞典で見ると、項目が立つのはほぼ2000年代になってから。中心部がカラになる意とともに、形は残り実質や実体が失われることとして「制度の空洞化」が挙げられています。また大辞泉(小学館1995年)は、項目はないものの使用例として「法案の空洞化」を挙げています。
教育基本法の大改悪は2006年ですから、空洞化という言葉が、右傾化、復古主義化した政治、社会の動きと重なっていると思ってもよさそうです。だからこそ、「空洞化している」と安易に認めるのではなく、中心の理念・精神は護持するのだ、と言いたいのです。
ところで改悪教基法第15条に差し込まれた「宗教に関する一般的な教養」の意味も、政教分離、信教の自由の意味のスリ替えにあるように考えます。例えば、ヤスクニ参拝を、次のように説明するための根拠になりそうです。
《国のために尽くした立派な人たちを祀ったヤスクニ神社に参拝することは、形は神社という宗教法人だが、参拝そのものは「国民道徳」であって「信仰」ではない。初もうでやお祭りで、神社や寺に行き参拝するのと同じ。習俗であり、日本人の一般的な教養なのだ。》
初もうでなどで、二礼二拍手一礼で参拝している若い人をよく見かけます。どこで身に着けたのかなあと、気になりますが、これも宗教的な一般的教養なのでしょうか。こうした一般教養は、政教分離・信教の自由の意味のスリ替えを容易にするように思います。
◆哲学・思想、理念のカラッポ化の不安
国民道徳との関連で、学習指導要領の「道徳の内容項目の一覧表」を見ると、人権や権利といった言葉は皆無で、思いやり、人間愛、広い心、寛容、敬愛、奉仕などが並び、締めくくりは「日本人としての自覚」。まるで〈日本教の教義書〉のようですし、スリ替えのための刷り込みの手順書のようにも感じます。
政党を名乗り、選挙妨害や選挙掲示板の売買など、民主主義の基盤が崩れ出しているような事態や、言論表現の自由の乱用等々の動向も目立ちます。いずれも、憲法の基本理念や精神、哲学や思想とは無縁の、それらがカラッポの動きのように思われます。空洞化より不安な「崩れ」だと捉えたいです。(読者)
初出:「郷土教育779号」2024年6月号より許可を得て転載
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