水俣病が映す近現代史(9)「大正の天佑」
- 2024年 7月 25日
- スタディルーム
- 水俣病葛西伸夫
【保険をかけていた肥料戦略】
日本の農家にとってはまったく新しい肥料である石灰窒素が、すぐに売れるとは考えられず、野口(日本窒素肥料、以下「日窒」と省略する)は、すでに輸入品を中心に普及が進んでいた硫安(硫酸アンモニア)の製造計画を、石灰窒素とほぼ同時進行で進めていた。
そのころ、日本最大の肥料メーカーは、科学者の高峰譲吉と渋沢栄一、それと三井の益田孝が設立した東京人造肥料株式会社で、1887年、野口の日本窒素肥料より約20年も先に設立されていた。(現在は日産化学として存続している。)
野口が、石灰窒素製造の特許交渉で、三井との共同事業を忌避したのは、東京人造肥料に吸収されることを恐れたのだろう。三菱の資本を得られてから野口は、東京人造肥料をかなりライバル視していたと思われる。
その東京人造肥料が日本に化学肥料を普及させていた。1900年ころから輸入硫安が入ってきて、農家は硫安に使い慣れていたし販路も形成されていた。ただ、そのころの硫安は、コークスやグアノ(動物の糞の化石)、チリ硝石などから抽出されたアンモニアを使用していた。
野口は水俣工場に石灰窒素の製造設備の着工(1909年5月)してすぐ、大阪の稗島(現・淀川区)の鈴木商店系の「東レザー」の工場があった用地を買収し、硫安製造工場を建設、同年の12月には完成している。ここで日窒は日本初の「変成硫安」を製造した。
従来の「副生硫安」は、コークス製造、鉄鋼生産などの工業プロセスで発生するアンモニアを原料とする硫安のことであったが、「変性硫安」は、アンモニア抽出を目的とした方法で、石灰窒素を加水分解する方法であった。
CaCN2 + 3H2O → CaCO3 + 2NH3
このように石灰窒素と水との反応で、アンモニアと炭酸カルシウムができる。
稗島工場では1910年には160トン、11年には1300トンの変性硫安を生産した。
ところが、1912年5月に閉鎖してしまう。
石灰窒素の窒素成分率が低く、化学式のようにはうまくいかなかった。また硫酸も外部から購入していたため、採算性が不良だったと社史では説明している。
【本命だったかもしれない姫川・青海計画】
もう一つ水俣の石灰窒素製造と同時期に進んでいた計画がある。
新潟県の現・糸魚川市を流れる姫川に発電所を建設し、その電力で姫川河口付近の青海村に工場を建設する計画である。姫川では鹿児島の曽木に匹敵する水利条件があり、青海村付近では石灰石が豊富だった。
当初はカーバイド専門工場の予定だったが、数回の計画変更を経て、カーバイド製造から石灰窒素を経て、変性硫安を毎年1.2万トン一貫製造する計画となった。そのため発電出力は5000kwから1万Kwへと増強した。
この「姫川発電所・青海工場計画」は、会社の資本金を上回る、300万円という予算を計上しており、この計画に合わせて資本金を400万円に倍増させた。
姫川発電所は1910年12月に着工、青海工場も着工(着工日不明)したが、1912年の7月に未曾有の大雨(当時は800年に一度の大雨と言われた)が新潟地方を襲い、建設現場が地盤ごと流されてしまう。
その後再計画の話もあったが、最終的には中止となった。
【歴史の「もしも」】
もし、青海工場が本格稼働し、戦後にかけてチッソの拠点工場となっていたら、メチル水銀は広く日本海に拡散され、メチル水銀中毒事件(水俣病)は発生しなかったかもしれない。
ちなみに「新潟水俣病」は、阿賀野川の内水面漁業者と川魚摂取者を中心に被害を受けた。日本海の魚介類摂取者からは被害が確認されていない。海流に流され拡散・希釈されたと思われる。不知火海は閉鎖性が高く、日本海の1/800の面積の内海に汚染が集中した。
【「大計画」のため渡欧】
姫川・青海の工事現場が洪水で流されていたことは知らぬが仏で、野口は「大計画」のためにヨーロッパに渡り、追加契約や機材の購入契約を景気よく行っていた。
シアナミド社との石灰窒素の追加契約では特許使用料が減額され、肥料の販売地域に新たに中国が加わっていた。(ちなみに、最初の契約時から南樺太、関東州、遼東半島、朝鮮半島は入っていた。)なお、この年、中国では孫文が中華民国の建国宜言をし、清朝が滅亡している。
このときの渡欧では、フランスのレール・リキード社とクロード式窒素液化分離装置の購入契約をしている。この装置は空気から窒素を取り出す装置で、高温下で銅に酸素を吸着させる水俣工場の方式より効率よく高純度で行えるものだった。またそれ以外にも様々な設備の購入を行った。
ちなみに、クロード式窒素分離装置の発明者ジョルジュ・クロードは、のちにクロード式アンモニア製造法を確立する。
また、レール・リキード社はその後産業ガスメーカーとして日本に進出し、1930年、住友と合同出資で「帝國酸素株式会社」となっている。現在は「日本エア・リキード社」として産業ガスの大手となっている。チッソ水俣工場にも頻繁にこの会社のタンク車が往来している。
【曽木発電所・水俣工場のセール&リースバック?】
稗島工場の閉鎖、そしてローマで特許と設備契約までしてきた新工場の大計画が潰れ、洪水の後片付けに多額の費用がかかり「いよいよ野口もおしまいか」と囁かれていた。
姫川の洪水の3日まえ(7月19日)日窒は、曽木発電所・水俣工場を、鉄道院に引き渡す契約をしていた。
1906年に「鉄道国有法」が成立し、鉄道の国有化が進められた。当時本土国内約6割の鉄道は私鉄だった。過去、西南戦争による過大な戦費で財政が厳しかったときから、日本の鉄道の多く(とその電化)は民間の自由競争により発達していたのである。
この法律によって約4,500kmの私鉄を国有化し、約9割の鉄道が国有となった。最大の私鉄であった山陽鉄道(神戸~下関)も国有化された。
国有法の主旨は日本の経済発展の促進だった。しかし背景には、軍事人員や物資の運搬を鉄道に依存していた軍部からの要請があった。また、日露戦争時の23億円にも達した戦時公債を、国有鉄道を担保に海外市場で低利率の外債に借り換えることを考えていた。それと、厳しい財政状況下で外国からの買収を回避する目的もあった。
当時の鉄道「鹿児島線」は、東シナ海からの艦砲射撃の対象にならないように八代から南は内陸に入り人吉を経由し鹿児島に繋がっていた。
日露戦争後はその心配が無くなり、水俣、出水、阿久根、川内、という海岸ルートの計画が上がり、それが電化もセットで計画されていた。
その鉄道の電源として曽木発電所が狙われていた。
ずさんなことに、曽木第二発電所は、水利権を取得せずに着工していたのである。そのため、鉄道院が譲渡を求めていた。日窒幹部たちによる鉄道院との必死の交渉により、水俣工場(カーバイド工場部分)と曽木発電所を157万6200円で売却。ただしその後も日窒が使い続け、売却代金の5.5%を毎年鉄道院に支払うという契約で済ませた。
ところが、鉄道院は方針を変更、計画は大幅に延期される。
理由は不明だが、水俣駅は1926(大正15)年、川内本線の終着駅として開業する。翌1927年、北方の湯浦駅とつながり、鹿児島本線に編入される。
日窒は、曽木発電所と水俣工場を、1915年2月に譲渡価格と同額で鉄道院より払い下げを受けた(取り戻した)。
【九州での再興】
未曾有の豪雨が新潟を襲った1912年7月の末、明治天皇が死去する。野口はヨーロッパでそれを知ったかと思われる。
帰国後、野口は新潟の大計画の頓挫を味わうことになるが、すぐに代替計画を立てることになった。
候補は福島と熊本の2つだった。
猪苗代水電の電力を使う工場(場所不明)を建設する計画と、不知火、松橋(まつばせ)、鏡町(現・八代市)のいずれかに工場を建設、熊本電気の電力を利用する計画とがあった。結局、最も誘致に熱心だった鏡町に新工場を建設することで決定した。
電力は最初は熊本電気から購入するが、白川(阿蘇を水源に熊本を横断し有明海にそそぐ)の上流に水利権が得られたので発電所建設の計画も同時に決定した。
熊本電気は、1891年に熊本電灯として開業。1902年にいったん破綻したが1909年に安田財閥などの出資により熊本電気として再建された。筆頭株主は細川侯爵家だった。
工場を誘致する鏡町は、江戸時代に埋め立てられた八代干拓地の一部。水俣とは違い広大な平地であり、鏡川の河口が運河となってひらけていた。日窒は当初そこに2万坪の用地を取得した。
白川発電所はには、姫川用に発注した発電機が納入された。出力は6600kwとなった。
鏡工場では当初閉鎖した稗島工場の機器が納品されたが、新規に増設もされた。
鏡工場をカーバイド、石灰窒素、硫安を製造する工場とし、水俣工場はカーバイド専用工場とした。硫安を製造する際の硫酸の自社製造も行った。野口がローマで契約してきたクロード式窒素分離装置も導入した。
1914年5月、鏡工場で、ついに石灰窒素、硫安の一貫生産が開始された。
さらに、販売用カーバイド製造工場を大分県北東部の日出(ひじ)村(現・日出町)に建設。1911年に設立された九州水力電気株式会社からの買電で操業した。
水俣・鏡・日出工場の最新鋭の技術による操業により、日窒は日本最大の硫安生産企業となった。
【第一次世界大戦】
1908年に操業した日窒が、幾度の場当たり的な方針の転換を経ながら、硫安製造で安定飛行に乗るまでの期間というのは、歴史を振り返ってみると、日露戦争の後遺症が長く疼く不況の時代だった。正貨不足はかなり深刻で、日本は墜落寸前の低空飛行をしていたのである。
日窒も、鉄道院による工場・発電所買収によってどうにか首の皮一枚で繋がっていたところだった。
鏡・水俣工場での肥料生産と販売が軌道に乗ったのは、技術改善や経験蓄積があったとはいえ、背後には大きな歴史の大波が到来しており、日窒はうまくそれに乗ったのである。
1914年、鏡工場が硫安を生産し始めた年の7月28日、オーストリア=ハンガリー帝国がセルビアに宣戦布告したことに始まった戦争は欧州全体を巻き込む「世界大戦」となった。
日本は日英同盟に則り参戦しなくてはならなかった。ドイツが租借地中国山東省の青島と膠州湾に軍隊を駐留させたことで、日本の勢力圏を脅かす行為とみなされた。加えて、南洋諸島のドイツ領(マーシャル、マリアナ、パラオ、カロリン諸島)が日本の海上交通の要衝であるということで、1914年8月23日、日本はドイツに対して宣戦布告を行った。
青島では、約一週間の戦いでドイツは降伏した。南洋諸島ではドイツの防衛は弱く、次々と占領を行った。日本は青島の戦いで約5百名の死者を出したが、大戦参加国の中でも少なく、日清・日露戦争の犠牲に比べたら数桁少なかった。
第一次世界大戦の主戦場は欧州であり、そこから遠く離れた日本(とアメリカ)は、開戦時に株価が暴落するものの、1915年から「大戦特需」がやってきた。
欧州が戦時下体制となり、各国が金と紙幣との兌換(金本位制)を停止し、ゴールドを確保。軍需品や民生品の国際市場に、戦場から遠い日本とアメリカが供給することになり、輸出代金のゴールドが猛烈な勢いで大量に流入してきた。そうして財政問題が、一気に片付いてしまったのである。(日米は1917年9月まで金本位制を停止しなかった。)
元老の井上馨はこれを「大正の天佑」と呼んだ。
民間では、海運に爆発的な利益を得て、歴史教科書で有名な「船成金」が現れた。産業・工業界全体の景気が良くなった。
肥料業界も例外ではなかった。英国とドイツから輸入していた硫安が入らなくなり、アンモニアの天然原料であるチリ硝石が輸入されなくなり、硫安価格が3倍弱まで暴騰した。1914年時点では国内の硫安需要の87%は輸入に頼っていた。
【水俣・鏡工場の大増設】
これを期に野口は事業の大展開を図った。鏡・水俣の両工場を拡張し、増設した。
またそれに合わせ四つの発電所を新設した。水俣工場向けに栗野発電所、川内川発電所、鏡工場向けには内大臣川発電所、緑川発電所である。
これらによって、一年間に、水俣工場は、カーバイド4万トン、石灰窒素5万トン、変性硫安4万トン、セメント25万樽。鏡工場はカーバイド4.5万トン、石灰窒素5.5万トン、変性硫安5万トン、セメント25万樽の生産能力を獲得した。
(石灰窒素から硫安を製造する際、前述の水解反応で炭酸カルシウムを副生する。これを原料にセメントを製造販売した。)
1920年には国内の硫安シェアの65%を日窒が占めることになった。
未曾有の好調は続き、1920年には資本金を2200万円に増資した。1908年、日本窒素肥料株式会社となったときの資本金は100万円。12年間で22倍となっていた。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study1308:240725〕
「ちきゅう座」に掲載された記事を転載される場合は、「ちきゅう座」からの転載であること、および著者名を必ず明記して下さい。