水俣病が映す近現代史(16)多角展開と水俣病の萌芽
- 2024年 9月 5日
- スタディルーム
- 水俣病葛西伸夫
1923(大正12)年、日本窒素肥料株式会社(以下、日窒)の延岡工場でのアンモニア合成の成功は、植民地朝鮮への進出によってコスト的に大きな成功を収めた。しかし、アンモニア合成の日窒にとっての成功の本質的な意義は、多角的な事業展開の可能性を開いたことにあった。
アンモニアは大きく3つの分野に誘導品をもたらす。
・肥料
・火薬
・樹脂・繊維
以下、これまで扱ってなかった肥料以外の分野における、日窒の事業展開と、それに関連する歴史的背景を見ていく。
1. 火薬産業への展開
【アンモニア合成と火薬産業の関係】
アンモニア合成技術が確立されるまで、火薬の原料の多くはチリで産出される「チリ硝石」だった。第一次世界大戦においてドイツは、海上輸送の困難を見越し、ハーバー・ボッシュ法によるアンモニア合成の工業的生産が可能になったことを確認してから開戦に踏み切ったという。このためアンモニア合成技術は、後に「平時には肥料を、戦時には火薬を」と形容された。
【日窒の火薬製造への参入】
日窒は、アンモニアの原料である水素を水分解で製造していたので、その際に副生した酸素を利用してアンモニアと化合させ、硝酸を製造すれば合理的だった。延岡工場は、爆薬の原料となる硝酸および硝酸アンモニウムを原料からほぼ一貫製造できた。朝鮮の発電所工事では大量のダイナマイトが必要となり、火薬工場の建設が急がれた。
1930(昭和5)年12月、日本窒素火薬株式会社が設立され、1932(昭和7)年5月には延岡火薬工場が完成した。アンモニアの火薬向け需要が急増し、その結果、延岡では肥料生産は減少した。
1935(昭和10)年4月には朝鮮にも朝鮮窒素火薬株式会社が設立され、1936(昭和11)年10月には朝鮮興南工場の4km西南に龍城火薬工場が完成した。
【軍需への対応】
1938(昭和13)年、陸軍の要請により、TNTよりも爆発力が強いヘキソーゲン火薬の製造が開始され、1940(昭和15)年には海軍の要請で、機雷に用いるカーリット(過塩素酸カリウム)の製造が始まった。
龍城工場では、綿火薬工場、黒色火薬工場、導火線工場、カーリット工場、ダイナマイト工場、窒化鉛雷管工場が次々と新設・拡張され、「火薬のデパート」と称されるまでになった。
【水俣工場での硝酸生産】
火薬の需要は青天井となり、1932(昭和7)年には水俣でも合成硝酸工場が着工され、翌年から生産が始まった。1943(昭和18)年には硝酸生産量がピークに達し、水俣と延岡で日本の硝酸製造量の33.1%を占めた。
【火薬から派生した油脂部門】
火薬の主原料の一つがグリセリンであり、自給体制が求められた。当時、東洋最大の漁場とされた日本海北部で毎年100万トンも捕れるイワシが注目され、これを原料としてグリセリンを製造する計画が立てられた。1932(昭和7)年、興南に油脂工場が稼働し、イワシ油を原料にグリセリンと硬化油が製造された。海岸にはイワシ油の巨大なタンクが立ち並んだ。
副生物として得られた脂肪酸からは石鹸が作られ、油脂部門が確立した。また、満州からの大豆を原料に、食用油脂や、硬化油の水素添加によりマーガリン、ショートニングが製造されるようになった。
苛性ソーダが自給できるようになってからは石鹸もつくられた。植民地を含む日本全体の石鹸市場の30%を獲得し、輸出もされた。
2.樹脂・繊維産業への展開
アンモニア合成が切り拓いたもうひとつの分野が、窒素の特性を応用した人工樹脂・繊維(高分子化学)だった。
【人工繊維産業の始まり】
人類初の人工長繊維(フィラメント)であるレーヨンはドイツで発明され、その後ヨーロッパで急速に普及した。レーヨンには三つの主要な製造法として、硝化綿法、銅アンモニア法、ビスコース法があった。ビスコース法が最も効率的であったため、ヨーロッパでは競争が激化し、カルテルが結成されたため、日本への技術導入が難しかった。
独自の研究でビスコース・レーヨンの製造の緒をつかんだのは、鈴木商店傘下の東(あずま)レザーであった。大戦景気のなかで急成長し、後に帝国人造絹糸株式会社となる。
1919(大正8)年には、近江商人の伊藤忠兵衛の甥、伊藤長兵衛が旭人造絹糸株式会社を設立した。しかし大戦景気の終了とともに不況に見舞われ、経営権を日本綿花株式会社の喜多又造に譲った。その後、化学者の上畠五一郎が主導する形で、事業の立て直しが図られた。
ちなみに旭人造絹糸の「旭」とは、大津市の琵琶湖畔にある義仲寺(ぎちゅうじ)に、平家物語で「旭将軍」と称された木曽義仲(源義仲)の墓があることに因んでいる。これは現在の「旭化成」の社名に引き継がれている。
【人工繊維産業への参入】
野口遵は、アンモニア合成化学の可能性としてかねてから人工繊維を視野に入れていた。
1921(大正10)年カザレーに出会ったときの洋行のさい、イタリアのレーヨン工場に立ち寄り、見本などを持ち帰っていた。
同年秋にふたたびカザレーと契約を結びに行ったさいには上畠五一郎を連れて行った。そしてドイツのグランツシュトフ社から、ビスコース法レーヨン製造法特許実施権を取得した。
だが日窒の重役会は人工繊維への参入を否決。
野口は私財を投入し、喜多又造と共同で1922(大正11)年5月、旭絹織株式会社を設立し、旭人造絹糸を吸収した。工場は近江の膳所(ぜぜ)。喜多が社長を務め、野口は専務。常務に上畠五一郎が就任した。
製品はいたるところで好評を博し、野口はさっそく新工場を建設しようとした。ところが、資本運用や経営をめぐって喜多又造と対立した。
【2つのレーヨン】
硝化綿法レーヨンは、製造工程が危険でコストが高いことでやがて衰退し、結果ビスコース法と銅アンモニア法の2種類のレーヨンが残った。
ビスコース法レーヨンは低コストで大量生産に向いており、一方、銅アンモニア法レーヨンは生産量が少なく高価だが、光沢があり高級感がある。「キュプラ」とも呼ばれ、ドイツベンベルグ社が特許を持ち商標も「ベンベルグ」だった。
どにらも木材パルプが原料だが、ビスコース法は溶媒に二硫化炭素と苛性ソーダを用い、ベンベルグは溶媒に銅アンモニア溶液を用いる。
1926(昭和1)年、政府はレーヨン産業を推進するために人絹輸入関税を引き揚げたことをきっかけに、帝国人絹に続いて三井物産や大日本紡績(後のユニチカ)も参画してきた。いずれもビスコース・レーヨンだった。
【新契約と新会社】
日窒は、銅アンモニア溶液の原料は自社工場で製造しているので、ベンベルグのほうが合理的であったし、品質の優れたベンベルグの市場が日本では空いていた。
また、朝鮮で格安の硫安が製造できるようになったため、コスト的に対抗できなくなった延岡のアンモニア製造ラインを有効利用したいという考えもあった。
野口は新工場計画に意見をつける喜多又造から離れて独自に繊維事業を始めるため、化学者の上畠五一郎と技術者の工藤宏規を連れてニューヨークに渡り、ベンベルグ社長と交渉、契約に至った。
1928(昭和3)年ベンベルグ社と共同出資で新会社、日本ベンベルグ絹糸株式会社を設立。喜多又造は退き、彼の持ち株と、彼が社長を務める日本綿花の持ち株をすべて日窒が買い入れた。
新工場は延岡に建設された。1931(昭和6)年、初めての国産ベンベルグ絹糸が製造・販売された。1933(昭和8)年、高橋是清蔵相による好景気復活の波に乗り売上は好調となり、旭絹織株式会社を吸収し、旭ベンベルグ絹糸株式会社が設立された。
【派生事業:苛性ソーダ製造】
日窒の旭ベンベルグはビスコース・レーヨンの特許も保有しているので、ベンベルグとビスコースのどちらのレーヨンも製造することができた。
ビスコース・レーヨンは低コストではあったが、当時原料の苛性ソーダのほとんどが英国ブラナモンド社からの輸入品だった。そのため日本の参入メーカーはみなブラナモンド社に首根っこをつかまれていたのである。
そこで日本窒素・日本ベンベルグ絹糸は、1931(昭和6)年、大阪曹達株式会社(現・ダイソー)が開発した大曹式水銀法電気分解の特許を導入、1933(昭和8)年、延岡にて苛性ソーダの自社製造を始めた。(3年後、朝鮮の興南・本宮工場でも始まる)
【派生事業:塩素利用】
これによって日本ベンベルグ絹糸だけが独自に生産が可能になった。
さらに、苛性ソーダ製造の際に副生する塩素ガスを利用(処理)するため、塩化物工場が建設された。液体塩素、塩酸、さらし粉、漂白液などが作られた。
【派生事業:化学調味料】
塩酸を使って、大豆たんぱくを分解し、グルタミン酸ソーダを抽出する事業も開始した。
1935(昭和11)年、旭ベンベルグ絹糸延岡調味料工場が稼働し、日産1トンの化学調味料「旭味」が生産された。戦後しばらくの間まで、東の「味の素」、西の「旭味」と日本のシェアを分け合った。
ちなみに朝鮮でも同年、大豆化学工業株式会社が設立され、大豆の加工や「旭味」の製造を行った。ちなみに、のちにチッソ社長となり水俣病の補償協定書に署名した島田賢一は朝鮮の旭味工場に勤務していたことがある。
【水銀の獲得へ】
1936(昭和11)年、北海道の常呂郡留辺蘂町(現・北見市留辺蘂町)のイトムカ鉱山で、東洋最大級の水銀鉱床が発見された。これは野村財閥系の野村鉱山が開発した。
一方で日窒も大量の水銀が必要となったため、北海道天塩中川地方での水銀鉱採掘を目的とした東洋水銀鉱業(株)の株式の半分を取得した。
3.水俣工場とアセチレン合成化学
これまで日窒がアンモニア合成から派生して展開してきた事業を見てきたが、一方でビスコース・レーヨン事業は、原料調達に遡る形で多角的に展開された。
ここで、もう一つ別系統の展開が生じる。
【アセテートの登場と酢酸の需要】
レーヨンに遅れて1923(大正12)年、英国のセラニーズ社よりアセテートが発売された。原料はレーヨンと同じく木材パルプだったが、酢酸を反応させて製造する繊維質がアセテートであった。レーヨンにはない特長があり欧米で人気が出ていた。
世界のアセテートの需要は次第に上昇し、それとともに酢酸の需要が増えていた。
野口は、不要となった水俣工場のカーバイドプラントを有効活用する方法を模索していたが、ドイツではカーバイドから酢酸を製造していることを知り、理論的には可能だと考えた。しかし、当時の日本にはノウハウが不足していた。
【橋本彦七】
日窒・チッソの歴史を振り返るなかで、第1級のキーパソンとして橋本彦七という人物がいる。
1897(明治30)年、北海道に生まれ、1914(大正8)年、東京高等工業学校(現・東京科学大学)を卒業し日窒に入社。1929(昭和4)年、弱冠32歳の橋本は水俣工場で、アセチレンからの酢酸製造を任された。
苦難の末、橋本は1930(昭和5)年、水俣工場のテストプラントでアセトアルデヒドを製造し、そこから合成酢酸を作り出すことに成功した。
翌年、本番プラントの工事が始まり、1932(昭和7)年5月に完成し、7月31日に生産が始まった。日産3.5トンだった。
【水俣病の始まり】
36年後の1968(昭和43)年5月18日、この系統のプラントが停止するまで、水俣工場は水銀を使い続ける。水銀を含んだ排水がいつから海に届いたかわからないが、この日が本質的な「水俣病の始まりの日」と言える。(ただし、1952(昭和27)年頃から爆発的に患者が発生するようになるまでには、いくつかの経緯がある。)
日窒(朝窒)は橋本彦七と部下の井手繁とともに独自の工法を編み出し、連名で「アセトアルデヒド製造方法」の特許を取得した。
橋本は戦後の「チッソ」につながるアセチレン合成化学への道を切り拓いた人物であり、同時に水俣病の原因となる工程をもたらした人物でもあった。
【朝鮮・延岡・水俣】
酢酸の需要は急増し、水俣工場は酢酸プラントを増設。幾度も爆発事故を起こし、多くの犠牲者を出しつつも、1933(昭和8)年には月産200トンとなり、1939(昭和14)年には日本の酢酸需要の64%を日窒がカバーした。
朝鮮で始まった事業が渇水や不況でなかなか軌道に乗らなかったとき、朝鮮の赤字分は水俣工場の酢酸でカバーできると言われるほど利益を上げた。
ただし、日中戦争が始まりやがて太平洋戦争へと状況が移ると、酢酸の需要は平和産業であるアセテートよりも飛行機翼塗料などの軍事用品に応用され、日本のアセテート産業の本格的な発展は戦後を待つこととなった。
日窒は、野口の繊維産業への固執が功を奏し、斜陽の水俣工場の利用価値をアセテートに見出し成功を収めたが、むしろその中間物質である酢酸の製造が大きな活路を拓いた。
戦後は、酢酸製造の中間物質であるアセトアルデヒドが新たな鉱脈を拓く。
こうして日窒(グループ)は大まかに、肥料の朝鮮、繊維と火薬の延岡、酢酸の水俣というふうに、それぞれの工場がリソースを最大限に発揮した。いずれも時代が深まるとともに軍需産業の割合を極限まで増やしていくが、日本が敗戦すると、日窒は朝鮮と延岡を失うこととになる。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study1317:240905〕
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