なにがこの子をそうさせたか ーー八ヶ岳山麓から(497)ーー
- 2024年 12月 4日
- 評論・紹介・意見
- 「リベラル21」阿部治平
私もいつ死んでもおかしくない年齢に達したので、終活なるものをはじめた。そうしたら、今から50年余り前の生徒の作文が出てきた。私が一時期、定時制高校の教員をしていたからである。その中に、現在しばしば起こる児童虐待に通じるものがあったのでここに紹介したい。
私はあまり勉強しない生徒らに、「そんなに勉強しないと、なにかに困ったときにどうやって解決するか、どう子供を育て、どう年をとった両親の面倒を看るかわからなくなるよ」といったものだが、この頃は児童虐待や親殺しのニュースが毎週のようにあって、この予感が当たったようだ。
もうあの頃の生徒はすでに若いものでも60台の終り、80を越したものもいるが、関係者に迷惑がかかる恐れがあるので人名地名を隠し、読みづらいところは幾分加筆をした。
◇◇◇
「私が定時制に来た理由」
私の家は農家で2ヘクタールほどの田んぼと少しの畑がありました。村では中の上ぐらいで,そのくらいの農家の子供はみな全日制の学校へ行けたのです。いま定時制のクラスの友達の中には、家が貧乏だとか兄弟が多いとかで、全日制の高校へ上がれなかった人がかなりいますが、私はそうではありません。そのわけを書きます。
私は、小学校のころ、母親に痛めつけられて、もうすぐ殺されるかもしれないと思っていました。一番小さかったときの記憶は、まだ小学校へ上がる前のことで、ある晩、何かのとき母親が私の頬をつねったことです。痛みと悔しさで泣いたら「外へ放り出す」と言って私を抱えて雨戸をあけて真っ暗の中に外へ出そうとしました。その恐ろしさと言ったらありませんでした。私は父の袖をつかみましたが、父親は母親を強く止めることはありませんでした。
そういうことが幾度もあって、わたしは夜放り出されるたびに暗い夜が怖くなくなり、ある時は牛小屋の屋根裏へ入り込んで寝てしまい、両親が探し回ったことがあります。
次の記憶は、小学校2,3年のとき、何かのことでガラス瓶を割ったことです。本当のことを母親にいうと怒られると思ったので、近所の友達と遊んでいて、友達が落して壊れたといいました。母親は友達から私のウソを確かめると、いきなり、私の襟首をつかんで、家のそばの用水路に仰向けにつけました。鼻から水がはいり、息が苦しくてじたばたしました。私が「助けて」と悲鳴を上げたのを通りがかりのおばあさんが見たのでしょう。
その人は「おめえさま、よせっせえ、よせっせえ」と叫び、母親を押しのけて私を川から引き揚げてくれました。そうしたら母親は泣いている私に向かって、「おばあさまにありがっさまえ(ありがとうございます)」と言えと言いました。
また、忘れられないのは、何かの時母親が怒り、友達の前で私を押さえつけて鋸の刃を私の首に押し付けて、「首を切る」というのです。私は恐ろしさで泣きました。もちろん首は切られませんでしたが、友達が見物しているなかで、正座して謝らせられました。そのときは自分が悪いなどとは思いませんでした。
こういう親の仕打ちは村の人には良く知られていたようで、私に聞こえるように「おらあ、子供を叩いて育てたことはねえ」とか、「あの野郎は、叩かれねえと怒られたと思わねえ」という人がいました。また、学校の先生も「おれの前だけでいい子ぶるんじゃねえよ」などと言いました。
一方で母親は、私が子供同士の付き合いで、いじめられたとか悪口を言われていると思い込むと、その子の家に怒鳴りこんだりすることがありました。また、私は学校の成績がよかったのですが、それを母親は自慢げに近所の人に話すのです。隣近所ではいい笑いものだったと思います。
父親はおとなしい人で、母親のそういうやり方をやめさせることはありませんでした。田植えや稲刈りなどのときはもちろん家にいますが、たいてい村から離れてダムの建設や道路工事の人夫として出稼ぎに行ったり、村にいるときもよその家の植木の手入れや庭造りをやっていました。いま思うと、母親と一緒にいる時間をさけていたのです。
私は小学校の4,5年生からできるだけ野良仕事をやるようにしました。母親は怠け者だったので、畑にはあまり出ませんでした。私は友人たちの嫌がる畑の雑草取りをよくやりました。家にいたくなかったのです。だから夏休みなど、雨の日は学校へ行きました。母親は勉強というと許してくれました。学校では日直の先生が「おう、休みの日まで学校へ来て勉強をするのか。そんなに優等生でいたいか」と嫌味を言いました。
家の裏の道は鉄道の駅のある町に通じていました。小学生の私はこの道を歩いて駅まで行き、汽車に乗ってどこかへ行くことをいつも夢見ていました。汽車賃がないのだから貨車のつなぎ目のところへ乗るんだなどと考えました。
中学になると、私も自分がどんなように近所の人に思われているかとか、母親が村の嫌われ者だとか感じるようになりました。そして、いつもなんとなく肩身の狭い思いをするようになり、いつの間にか、中学を卒業したら遠くの町へ行くと決めていました。
中学3年生のはじめ、進学するか就職するか、担任の先生が調べました。母親は進学しろと命令しましたが、その頃はもう母親に反抗することができました。私は嫌だと強くいい、就職と書きました。
先生はおどろいて、「おまえは進学するんだ。親が進学に反対するなら僕が頼んでやる」と言いました。私は先生に「それだけはやめてほしい」と泣いて頼みました。先生が妙な顔をしたのを覚えています。
私が村から離れるとき、どういうわけか、母親は寂しいと言って泣きました。父親は「体に気を付けて暮らせ」と言いました。私はそれを見て何とも思いませんでした。それで、この町へ来て鋳物屋の小僧になったとき、本当に気持ちがすっきりしたのです。(中略)
就職してから4年目だったと思います。鋳物屋の親方は自動車の部品の仕事が愛知県の方に取られて、少なくなったといって、なんとなく僕を邪魔にするような感じになりました。偶然、この話を聞いてくれたのが東京の古本屋の社長で、私を誘ってくれました。
私たちは「金の卵」といって仕事はどこでもあります。でも、仕事を変わるとなると、どの工場でも親方が困るので、やめるのが大変です。ところが、私の親方はわりにすんなりやめさせてくれました。そのころ、わたしは砂を運ぶとき、腰を痛めましたので、それも原因だったと思います。職工は「けがと弁当はてまえもち」といって、けが人の損というだけです。
私は、それで喜んで本の配達をやる仕事を始めました。古本屋でよかったのは、社長が外国語の本の背表紙の英語やドイツ語を教えてくれたことです。それで学問への関心が強くなり、社長の許しを得て、学校生活が始まり、先生と会いました。わたしが夜間学校へ来るようになった話はこれで終わりです。
このごろ、変なことを考えます。いままで私が付き合った女の子は3人です。私の方からではなく、女の方から誘ったのです。身長が180センチもあったので自分でもかっこいいといい気になっていました。ところが、つきあって1年くらいで、相手の方から別れ話が持ち出されました。どの女の子も決まったように、「本気でつきあってくれているとは思えない」とか「冷たい」と言いました。
そのときはなぜかわかりませんでしたが、いま考えると、わたしの心の底に母親に対する憎しみあって、それが女の子に冷たい態度をとることになったのではないかと思います。これから私は一生結婚できないのではないか、結婚してもうまくいかないかもしれないと思います。それに自分に母親の性格が遺伝しているのではないかと心配です。(後略)
おわりに
第一次石油危機(1973年)までは、東京とその近郊の夜間の定時制高校の生徒は、年齢もまちまちで、教員の私より年上のものがいた。出身地も北海道の離島から沖縄の先島諸島までさまざまであった。学力も、引算の繰り下がりがわからないものから大学に進学し、さらに司法試験に合格するものまで多様だった。
第二次石油危機(1978年)ごろからだんだん地元のものが多くなった。地元出身の生徒には、家庭の不幸を一身に引き受けている者があったが、地方出身のものはそれから免れていた。彼らは出身家庭や学力に関係なく、自律的で、3・4年生になると、我々教員よりも立ち居振る舞いに大人のものが多かった。労働が心を鍛えていたのだ。そのためだろうか、この頃、わたしは、一生定時制教師で過ごそうと考えていた。
この作文を書いた生徒は、入学時かなり年齢がいっており、若い教師に近かった。授業中クラスが騒がしくなると、よく「しずかにしなさいよ」とみんなを叱った記憶がある。彼が教室にいるとこちらはありがたかった。たしか大学の夜間部に進学し、故郷の県の職員になったのではないかと思う。その後のことはわからない。
(2024・12・03)
初出:「リベラル21」2024.12.04より許可を得て転載
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