一歩手前でとどまった「名著」
- 2011年 9月 23日
- 評論・紹介・意見
- 「それでも、日本人は戦争を選んだ」阿部治平
――八ヶ岳山麓から(3)――
1988年公務派遣の日本語教師として中国へ行って以来ついこの間まで、断続しながらほとんど13年を中国で過ごした。この間もっとも気になったのは、日中両国間の日中戦争についての見方、感じ方の違いである。
こういうと、江沢民元中国主席が日本訪問の際「歴史を直視せよ」と日本人に繰返し説いて日本人をうんざりさせたことがあったから、またかととられるかもしれない。だが、中国「老百姓(民百姓)」の間には、江沢民以前から日本では想像を絶する反日感情がある。その象徴的存在は南京虐殺事件である。
結論を先にいえば、日本政府と日本人はこの認識を決定的に欠いている。これを直視しこれに対処しない限り、日中関係の好転などずっと先の話である。
「日中関係についてあれこれいうならこれを読んでおいた方がいい」と親しい友人にいわれて、近年のベストセラーという加藤陽子東大教授の『それでも、日本人は戦争を選んだ』(朝日出版社 2008年)を通読した。
本の帯に「歴史的知性とは、未来がまだわからない時点においてなお蓋然性の高い推理ができる知性の働きのことであるという著者の信念に、私は深く共感するのである」(内田樹さんの書評)とか、「歴史が『生き物』であることを実感させてくれる名著だ」(佐藤優さんの書評)とかといった文言があるから、とにかく加藤先生がどんなふうに歴史は生き物だと語っているか、どんなふうに、未来のことを確実に推理できる知性の働きを信じて戦争を語っているか、とくに日中戦争をめぐってはどうか、非常な関心をもって読んだ。
というのは、私の小学校のクラスで5分の1は父親を日中戦争と太平洋戦争で失ったからである。また満蒙少年義勇軍(隊)にいとこが3人参加し、うち2人が悲惨な死に方をしたからである。
どうしてこの人たちは死ななければならなかったか、その死に意味があったのか。
まだある。中国へ出征したことがある中学の担任田中先生は、あるとき中国人捕虜を木に縛りつけて初年兵の刺突訓練の的に使った話をした。級友の1人が「もげえ(かわいそうだ)」といったのを皮切りに、私たちは口々に先生を非難した。
村の畳屋のおやじは私に大都市(記憶が薄れているが南京だと思う)を占領したときの話をした。凶器の使用禁止というのに人を鉄砲で撃った。「子どもまで殺すという戦友がいておれは止めたが、相手は、これだってでかくなりゃ敵になるといってなかなかきかなんだ」
20年前、中国人留学生は私と非常に親しくなってからこう打明けた。「実は、私の祖父は家族の前で銃剣で殺され、祖母は強姦されそのショックで目が見えなくなり、父のきょうだい4人は飢えて死に、父だけが生残りました。私が日本へ留学すると知った親戚は付合いをやめるといいました」
どうして日本人はこんなに残酷になれたのか。
さらに私には、山田風太郎著『あと千回の晩飯』(朝日新聞社 2006年)のなかの一文と同じ関心があった。
「いっとき日本を亡国の運命に追い込んだめんめんをあげてみる。
(中略)東条大将よりも、近衛公のほうの責任が重大だ。細川首相の祖父である。
これが第二の責任者と評して差し支えない。以下、第三は石原莞爾、第四番は東条が引受けなければしょうがない。五番目はミッドウェー作戦で敗北した山本五十六ということになる。六番目は――いやそれよりも一番目はどこへいった?」
加藤先生は多くの研究者の成果を引き、さらに史料に語らせる手法によって、ひとくちで「日中戦争は侵略戦争だった」というのではなく、戦争というものはじつにさまざまな要素が複雑にかみ合ったものだったと我々にわからせる。
日清日露の勝利も薄氷を踏む思いだったが、満洲事変に始まった日中戦争は泥沼化し、対米戦争も真珠湾攻撃の緒戦の大勝にもかかわらず短期決戦では終らず、戦争によって戦争を養うために拡大の一途をたどる。
私の疑問、なぜ満洲事変から「満洲帝国」の建国、日中戦争、太平洋戦争へと歴史が動いたか。これについて加藤先生は史料によって権力の性格変化、事実の経過をあきらかにする。指導者らの希望的観測や、それがどこから来るかも実証される。
昭和天皇は「ほんとうにやれるのか」という強い疑いをもちながらも、軍部と側近たちの意見に引きずられてゆく。そして亡国の結果となる。こうした日本支配者階級の内部事情は手に取るようにわかる。山田風太郎の疑問についても、加藤先生は史料によってほぼ明確に語っている。
なぜいとこたちは満洲へ行ったか、なぜ友だちの父親らは死んだのかもわかるように思う。彼らは犬死だった、そう思うと実に悲しい。
高校日本史の授業では古代から始めるといつも江戸時代末期、明治維新くらいで時間が尽きる。このための補習授業をまともに受ければともかく、日清・日露戦争以後の歴史について知る若者は少ない。かなりの日本人が日中戦争は侵略戦争だったと漠然と考えていても、また「南京大虐殺」「南京事件」をことばでは知っていても、しっかりした知識がないから何がどうしてと説明できない。
だから戦争容認論や占領地での虐殺や捕虜への虐待などなかったといった、国際的にはまったく通用しない話が日本人の間にかなりの影響力をもつのである。これが日本人の戦争の歴史を見る目を曇らせていることは紛れもない事実である。日本に来た欧米のジャーナリストや学者や留学生が「南京大虐殺」否定論が店頭にひろびろと並んでいるのに驚き、「日本人の精神状態を疑う」などとあきれることがある。
日本語教師として中国にいた日々、その時々で起こる問題で日本人がときどき中国人学生に詰問されて立ち往生し、はらいせに陰で中国の悪口をいうのを私は見てきた。中国人学生の詰問の下敷きには日中戦争の歴史がある。
私はこの状態に日本民族の精神的痴呆状態、もっといえば民族の危機を感じる。
中国では政府主導の反日愛国主義の教育、新聞・テレビによる宣伝が1980年代から繰返されている。「老百姓」の日本に対する反感がこうした宣伝から生まれていることは否定しない。
また日本軍と正面から戦ったのが国民政府軍であったために、中国共産党政権下では国民政府軍の対日戦争研究がそれほど進まなかった。だから中国でも日中戦争の実態は宣伝ほどには明らかになっていないということはできよう。たとえば南京に動員され捕虜となって殺された10万を超える兵士の遺族の実態などはいまだまとまった記録がない(笠原十九司著『南京事件論争史』(平凡社新書))。だからといって中国人の反日感情を根拠のないものとすることは絶対にできない。
加藤先生の本は日本人が戦争を選んだ理由と経過を明らかにするものだから、戦争の実態に言及した部分が少ないのはしかたがないと思う。だが「日中戦争、太平洋戦争における中国の犠牲者は(数値は統計によって異なり、議論もあるものですが)中国が作成した統計では、軍人の戦死傷者を約330万人、民間人の死傷者を約800万人としています(p389)」という。
また「ドイツ軍の捕虜となったアメリカ兵の死亡率は1.2%にすぎません。ところが、日本軍の捕虜となったアメリカ兵の死亡率は37.3%にのぼりました(p398)」として、「自国の軍人さえ大切にしない日本軍の性格が、どうしても捕虜への虐待につながってくる」ともいう。――麗筆はここで止まる。
だが、ここが重要だ。なぜ日本軍では自軍兵士を大切にせず、軍隊内でリンチや虐待がまかり通るようになったか。それが捕虜や占領地人民への日本軍兵士の虐殺虐待とはどのようにつながるのか。
これを解明しないと、農民を主とする兵士にとって軍隊とか戦争はどんなものだったかあきらかにならない。日本の支配者らが捕虜や占領地の人々を虐待せよと命令したのではない。そうしたのはまさに戦地の兵士だ。少年義勇隊すら「満人」に非行をおこなった。この行動論理の解析に加藤先生すら切り込まないのは残念というほかない。
私は繰返し書く。南京虐殺事件に象徴される日本軍の残虐行為のほんとうの重大性に日本人のおおくが気がついていない。帰国してから、このことは私の最大の気がかりとなった。世間の人が名著という『それでも、日本人は戦争を選んだ』でさえも軽く通過していることに、私は焦燥感をおぼえる。
中国人はこれを忘れず非難して日本人を「鬼子」と呼ぶ。中国政府は1930年代からの課題を解決できない日本人の脆弱さを奇貨として、あるいは政治資本として日本に絶えず中国に膝を屈するよう迫るのである。(2011・9・17)
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〔opinion0618:110923〕
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