時代は性の商品化から出会い系サイトへ(その2)
- 2011年 9月 27日
- 評論・紹介・意見
- 出会い系サイト大木 保性の商品化
心の闇にねざした自傷行為としての性 —
さてAV市場でデフレ化したとされる女性たちの<性> にたいして、前回の末尾に、
“ するとここでは「商品」を購買する側である男性の動向が相対的な意味をもってくるようにおもえる。”
と記しました。
しかし、女性の<性> の商品化にたいして、それを購買する側の男性の選別化も、
じつはアダルト業界側のマーケティング・マネジメントの内にあるわけです。
だが、いくら周到なマネジメントによっても、購買数の落ち込みを防げなかったのは事実である。
だからといって、それはこのデフレ経済にすべての要因をおしつけられることではないようにおもえる。
ここではむしろ、ほんとうに男性側に相対的な意味をみとめるとするならば、
やはりそれは究極の資本主義にさしかかったこの頃に、
「 しいられた個の生き難さ」 を背負わされた大衆のなかでも
さらなる < 孤立化> をより鮮明に病理的に発現させるほかないものが
より鬱破り(うつやぶり)の快の欲求としての<性の関係> を妄想イメージし、
それを実際に行動にをあらわしたことにあるとかんがえられる。
それはすなわち、もはやアダルト・メディア程度に依存していられないものたちであり、
そしてその向こう側には、おなじ強迫性をかかえこんだ女性たちが息たえだえに待っていたのである。
いわゆるネットの世界の登場による「出会い系サイト」がかれらをかれらたらしめたといえよう。
したがってそこはもう、アダルト・メディアに依存して<性> を売る女性たちとはちがう、
無数の「ふつう」の女たちの心の闇の世界というべきところであった。・・・
— さて話をすこしもどしましょう。 前回のところで、
「飯島愛が固執した 「AVに出ること」のタブー意識」 にふれました。
たしかに「性行為が公になる」ことが「恥ずかしい」というタブー意識(社会との関係意識)を
彼女がまだのこしていたことはまちがいないところでしょう。
ほんらい「性愛」は対の関係にもとずく私的な行為であり、
それが撮影され、商品化されて社会に販売されることは、当然だが
のこされていたタブー意識を破りすてた、金銭が目的の行動とみなされよう。
飯島愛には、次の世代の女性たちのような
「それなりに名前が売れているAV女優の多くは、
その職業を誰に隠すこともなく親や恋人にまで報告して堂々と仕事をしている。
カメラの前でセックスをして自分のすべてを晒すことが恥ずかしいという前に、
自分自身が作品となって多くの人に認められて、人より多い収入を得ていることが誇りであり、
なにひとつ後ろめたいことがない」という意識はなく、
最後のタブーを破った後ろめたさが飯島愛を社会からより孤立させ、強迫的な病理へ誘った。・・・
それとはちがって、タブーをかんたんに跨いでしまう世代が登場する。
次の世代といわれる女性たちの中の勝ち組は「隠すこともなく堂々と」していて、
負け組は「家族にバレなきゃ、OK」というように、タブーそのもののハードルがごく低く、
適当な理由づけによって心的に上になれたり、居直れる世代なのだ。
たとえ彼女たちが、<性の関係性の本質> というものからはるか遠くまで疎外されていても、
飯島愛的な精神の生き難さからは、見かけのうえでは解放されているようにみえる。
ある種スター気取りで性を売るか、高額バイト感覚でひそかに性を商品として売る世代の出現は
すくなくともそれが女性の性を社会的な位相において徹底的に開放できたことにはちがいないだろう。
むろんのことに、ここでわたしにこんなことを言われようとは露ほどもおもっていなかったにちがいないだろうが。
あえてくりかえしていうと、彼女たちが意図したわけではないが
それはAVという女性を性商品としてあつかうSEXYメディアの媒体を逆手にとった、
したたかな「性(SEX)女の社会化」に至ったあらたな時代をしめしているといえよう。・・・
— また <性の関係意識> ということにおいてみてみれば、
まったく <性の関係性の本質> としての対の心情の関係いうものから無縁に生きてきたとみなされる。
端的にいえば、「相手をどこまでも支えつづける」ことが根っ子にある性的関係意識をもちあわさない、
それどころではない哀しい生育歴と負の学習を背負って生きてきたのだということがいえよう。
「オヤジに売春する」ことや「タレントと寝ることがステータス」などとかんがえていた飯島愛や、
ほぼ全員がおなじような売春を十代のころからやってきている「次の世代」とは
社会というものへの了解意識の不全に見合う不安恐怖からの回避逃亡を無意識にめざした、
おそらく「自傷行為としての性」行動というところで共通している。
そこのところでは「出会い系サイトしかない」人たちの生育歴と負の学習による生き難さとも
また共通する心の闇の悲哀がみられる。
AV界に <性> の直截な切り売りにむかうか、それとも、
あまりの孤立ゆえの生き難さに出会い系サイトしかないと、
見知らぬ相手に<性の関係> を妄想イメージし、それを実際に行動にをあらわすのかは
やはり、その人たちのそれぞれ固有の生育歴と負の学習から分かたれる。
かれらの親世代のほとんどが、妄想としていだいてきた社会観に敗北していったことと、
この時代が若いひとたちを「どこまでも生き難い」という心的なところへ追いこんでいることとはリンクしている。
それゆえにわたしたちはいま、< 互いの個の尊厳と自由 > を規範においた
ゆたかな精神の自由・自立の社会をあらたな社会観としてかかげるときではなかろうか。・・・
ブログ・心理カウンセラーがゆく!http://blog.goo.ne.jp/5tetsuより 転載.
(この記事は「<性>もまたデフレ商品となった日本の病理(その1)」 http://chikyuza.net/archives/14013 からの続きです。―編集部)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion0622 :110927〕
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