NHKETVシリーズ「原発事故への道程」の文字起こし記録と評注の、《後編》その2
- 2011年 11月 29日
- 評論・紹介・意見
- 「原発事故への道程」松元保昭
======以下、後編(その2)転載======
【解説】:その裁量権を認めた司法。原発建設は更に進むかに見えました。
【画面】:日本初の原子力船「むつ MUTSU」の進水式の映像
【テロップ】:原子力船「むつ」
【解説】:日本で初めての原子力船「むつ」。
【テロップ】:「むつ」放射線漏れ事故 1974年9月1日
【解説】:この船のトラブルがきっかけで、国の原子力政策が国民から疑問視されるようになります。太平洋上での出力実験中に、放射線漏れを起こしたのです。基本設計の安全性を審査した科学技術庁と、船の建造を管轄する運輸省が、責任を押し付け合ったため、非難の声があがりました。
【テロップ】:島村原子力政策研究会 1992年
【解説】:島村原子力政策研究会。むつの問題に関わった官僚たちが、原子力行政の見直しを迫られたことを語っています。焦点は1956年に設置されて以来、日本の原子力政策を担ってきた原子力委員会のあり方でした。
【テロップ】:元通称産業省官僚 島村武久
[元通称産業省官僚 島村武久]:「原子力船「むつ」の放射線漏れが1974年9月1日にあったわけですけれど、これが直接の動機だったことには間違いはないんですが、それまでに原子力発電所でいろいろ、まぁ・・事故っていうのは変ですけれども、[◆註:27](事故が)あったりとか・・あるいは、分析研究(放射線の研究所)の問題もありましたね。なんだかんだという、いわゆる不祥事みたいなものが相次いで起こったと・・。これも「むつ」で頂点に達したということだと私は思うのですよ」
[◆註:27]原子力推進関係者の間では「事故」の言葉は敢えて使わず、「事象」という言葉に置き換えられて表現されている。
【テロップ】:科学技術庁官僚 沖村憲樹
[科学技術庁官僚 沖村憲樹]:「原子力委員会に対する批判といたしまして、まず原子力行政の責任体制が不明確であるということが批判の大きなものであると。それからもうひとつは、規制と推進が同じ組織で行われているということに対しまして、国民の間で不信感が起きているんじゃないかと・・」[◆註:28]
[◆註:28]「規制と推進が同じ組織で行われていることに対し国民の間で不信感が起きている」というのは、原子力委員会が原発を推進しながら、安全審査等規制にも係わる役割も担っていたことを指す。
【テロップ】:原子力委員会 開発 規制
【解説】:当時の原子力員会は、原発を推進しながら、安全審査等、規制に係わる役割も担ってきました。このことが問題とされたのです。
【テロップ】:科学技術庁官僚 沖村憲樹
【画面】:「沖村憲樹 028」のラベルの貼られたカセットテープの画面
[科学技術庁官僚 沖村憲樹]:「当時はエネルギー問題がですねぇ、非常に、まぁ、重要な問題ということで、石油が足らなくなるっていうことで、原子力に非常にシフトしなければいかんという議論があったわけなんですけれども。一方におきまして、まぁ・・あの・・不安・・国民の不安ということから、(原発の)立地がなかなか進まないということで、これをまぁ、進めるためには・・・・行政機構全体を一回、いじってみなきゃいけないんじゃないかっていうようなことも、背景にあったんじゃないかというふうに思いました。要するに行政全体を見直す委員会をつくらなきゃいかんっていうのは、なんとなく大きな世論みたいな感じだったというふうに記憶しておりますけれども」
【テロップ】:原子力行政懇談会 1975年
【解説】:1975年、政府は原子力行政懇談会を設置。有識者に原子力行政のあり方を議論してもらいました。そこで出されたのが原子力行政を規制する強力な組織、原子力規制委員会を求める意見でした。
【画面】:11555
UNITED STATES
NUCLEAR
REGULATORY
COMMISSION
と書かれたビルの標識
【テロップ】:アメリカ原子力規制委員会(NRC)
【解説】:参考とされたのは、アメリカで行われた改革でした。
【テロップ】:アメリカ原子力規制委員会(NRC)→規制→原子力事業者
【解説】:アメリカでは強力な権限を持って、原子力関係機関の規制に当たるNRC、原子力規制委員会が作られていました。ところが(1975年に開催された我が国の原子力行政の)懇談会の事務局を勤めた沖村憲樹さんによれば、アメリカのような組織を作ることには、反対意見が多かったといいます。
【テロップ】:元科学技術庁官僚 沖村憲樹さん
[元科学技術庁官僚 沖村憲樹]:「やはり規制だけを集中的に考える機構はですね、原子力開発の根幹である炉の設置許可とか、運転とかを全部握るわけですよね・・そういうことで原子力の開発が旨くいくんだろうか・・っていう意見[◆註:29]が、随分寄せられました。
[◆註:29]こうした意見を寄せたのは一体誰なのか?
[元科学技術庁官僚 沖村憲樹]:「非常に反対意見が根強くってですね。はっきりおっしゃる方、はっきりおっしゃらない方も含めて、やはり、あの・・アメリカ型の規制委員会っていうのはですね、日本の原子力開発の将来に懸念がある、って言うので反対意見だったというふうに思っています」
【解説】:1976年7月、原子力行政懇談会は最終の取りまとめを、元三木首相に提出します。これを受け、原子力委員会を分割し、新たに原子力安全委員会を発足させます。
【画面】:科学技術庁
科学技術会議
原子力委員会
宇宙開発委員会
原子力安全委員会
の標識
【解説】:規模はアメリカNRCの僅か10分の1程度。権限も限られていました。
【テロップ】:原子力安全委員会→助言・提言→監督官庁(経済産業省・文部科学省など)→規制→原子力事業者
【解説】:電力会社などを指導する場合には、意見を述べるだけに留まり、直接、支持、命令する権限はありません。
【テロップ】:島村原子力政策研究会 1992年
[発言者不明]:「ちょうどあの時でしたからね。アメリカが二つに分かれたでしょう」
【テロップ】:元日本原電 板倉哲郎
[元日本原電 板倉哲郎]:「アメリカもね、失敗はしたと思っているところは多いんですね。あれでもう、さっぱり開発がなくなりましたからね」
[発言者不明]:「ううん・・もう開発がなくなりましたからね」
[元科学技術庁官僚 沖村憲樹]:「結果的に15年経ってみても、原子力の反対も安全委員会が吸収してですね、原子力発電も滞りながらも、まぁ、スムーズにいってますので、この体制も、まぁ、結果的にはよかったのではないかというような気がしますけど」
【テロップ】:元日本原子力研究所職員 佐藤一男さん
【解説】:早くから原子炉の安全運転に取り組んできた佐藤一男さんは、新しくできた原子力安全委員会で仕事をするようになりました。
[元日本原子力研究所職員 佐藤一男:「安全なんていうことを口にするな、と・・・。安全の研究なんかとんでもないと・・。そんなものはね、国民を不安に陥れるだけじゃないかと・・・と言うんでね。そういう風潮がわりと強かったんですよ、ええ・・・。あの・・で、だからね、安全性なんてことを銘打った研究はね、まず、とても死ぬまで日の目を見ないですよ、そんなことは・・ええ・・。そういう時代がだいぶ続いていたんですよ」
[NHK記者の質問]:「それで?安全のことを言ったらどうなるんですか?」
[元日本原子力研究所職員 佐藤一男:「そりゃ・・村八分だからね。言うなれば・・。誰も相手にしなくなっちゃうんだから・・」
[NHK記者の質問]:「どこから村八分にされちゃうんですか?」
[元日本原子力研究所職員 佐藤一男:「だから原子力ムラからですよ・・ワハハ・・いやねぇ・・村八分って言うのは、まぁ、単なる表現ですが、あの・・そんなことを言う人はねぇ・・仲間外れにされちゃいますから・・」
【解説】:100万分の1という大事故発生の確率。原発は限りなく安全だという考え方に疑問を抱くことをタブーとする暗黙の了解が定着しつつありました。そんな矢先でした。
【テロップ】:スリーマイル島原発事故 1979年3月28日
【解説】1979年3月28日早朝、アメリカ、スリーマイル島原発で安全装置ECCSが停止し炉心溶融事故が起きました。原子炉からは大量の放射能が大気中に放出され、数万人の住民が町から非難する事態となりました。
【テロップ】:スリーマイル島原発事故に関する学術シンポジウム 1979年11月26日
【解説】:アメリカで起きた事故は日本の研究者を動揺させました。スリーマイル島の事故を受け、これまで原子力政策に協力してきた研究者たちは、事故を検証するシンポジウムを開きました。しかし、原発の危険性を訴える研究者たちが排除されようとしたため、激しい対立となりました。スリーマイル島原発事故の直後、伊方原発訴訟の控訴審が高松高等裁判所で始まりました。
【テロップ】:原告側準備書面
【解説】:原告側は、国が立地審査の際には、想定していない、想定不適当事故だとしていたメルトダウン事故が起きた以上、原発許可は無効だと、改めて訴えました。
【テロップ】:原告側証人 藤本陽一
[原告側証人 藤本陽一]:「スリーマイル島原の原子力発電所で起こった事故は、論争の経過を言えば、”想定不適当”な事故に属するものでございます。スリーマイル島の事故で出ている放射能は、伊方の安全審査のときの最悪の仮想事故の数字を上回る量で、数十倍に達する量が出たわけです」
【テロップ】:国側証人 佐藤一男
【解説】:二審で国側証人に立ったのは、佐藤一男さん、たった一人でした。
[国側証人 佐藤一男]:「運転員と呼んでよろしいかと思いますが、この人たちの誤った判断に基づく行動によると思います。それが決定的な要因でございます」[◆註:30]
[◆註:30]スリーマイル島原発事故の原因が、同発電所原子炉の運転員の「人為的ミス」が事故原因であったとの、国側証人佐藤一男氏のこの証言を松山高裁判事たちはどう評価したのか?100万分の1という確率の事故を想定することは、想定不適当事故であるとした、一審判決の判断根拠の中に、人為的ミスも含まれていたのか?それとも人為的ミス(いわゆるヒューマン・エラー)は一切考慮されず、設計工学上での事故の発生確率だけに基づいただけの「想定不的確」の判決であったのか?一審も含め二審以降の判決を下した判事たちの判断内容、彼らの思想内容も含め、改めて再検証されねばならない。
[国側証人 佐藤一男]:「従って、その設計そのものが直接の決定的要因になっているということではございません」
【テロップ】:「国側証人 佐藤一男」「原告側弁護士 仲田隆明」
【解説】:原告側は、一審で、国側が起こることはないとしたメルトダウンが現実に起きたことを問い質します。
【テロップ】:原告側弁護士 仲田隆明
[原告側弁護士 仲田隆明]:「メルトダウンにより、圧力容器が割れたら、放射性物質が全部外へ出てしまいますね。大変なことになりますね」。
[国側証人 佐藤一男]:「はい」
[原告側弁護士 仲田隆明]:「国のほうでは、いや、それは破損することはない、という前提に立ってますね?」
[国側証人 佐藤一男]:「はい」
[原告側弁護士 仲田隆明]:「住民のほうからは『圧力容器だって破損しないという保証はないじゃないか』と主張しておった。これはご存じですか?」
[国側証人 佐藤一男]:「私は、直接は目にしていないと思います[◆註:31]。ただ圧力容器が破損するかどうかという問題は、いろいろなところで論じられております」
[◆註:31]ここの佐藤一男の陳述内容は不鮮明で解りずらい。二様に解釈できる。ひとつは「圧力容器の破損した原子炉の現場を、国側証人の佐藤一男氏自身が彼自身の目で直接は見たことが無い」という発言にも受け取れる。
しかし、この陳述では、原告側弁護士仲田隆明氏の「これはご存じですか?」の問いへの答えになっていないトンチンカンな陳述になってしまう。もうひとつは「住民の誰かが『圧力容器だって破損しないという保証はないじゃないか』と(法廷か法廷外で)語っている姿を、佐藤一男は「直接は目にしていない(目撃したり聴いていない)」という意味なのか?私(諸留)は前者の意味での佐藤一男氏の発言だったと思われるが・・・
[原告側弁護士 仲田隆明]:「圧力容器の破損に対しては、安全装置が無いんだということ、これはいいですね?」
[国側証人 佐藤一男]:「破損そのものに対しては、破損してしまえば、直接にはございません」[◆註:32]
[◆註:32] ここで、国側証人佐藤一男が、「(圧力容器の)破損そのものに対しては、破損してしまえば、直接にはございません」と発言しているのは重要な発言。
福島第1原発1号機~5号機で使われている「Mark I」原子炉の設計者で元GE(ゼネラル・エレクトリック)社社員のデール・ブライデンボー(Dale Bridenbaugh)氏及び、同原発の基本設計士であり、また同原発6号機工事現場監理者でもあった菊地洋一氏自身が『週間現代』4月16日号で以下のような証言を行っている。
・・・「MarkI」が抱えている問題点は、その後の改良である程度は是正された。格納容器にガス放出の為のベント弁(ウエットベント弁とドライベント弁の二種類あり)が取り付けられたのは、ブライデンボー氏の証言から解る通り、設計当初からでなく、アメリカでは1990年頃になって、後から設置されたとの証言がある。従って伊方も福島原発も含め我が国の原子炉では20年以上もベント弁が備わっていない状態で「安全基準を満たしている」との政府や東京電力の「お墨付き」の「安全神話」で擬装させ国民を欺し続けてきていたことがブライデンボー氏の証言から明らかにされている。
アメリカでは1980年代後半になって、彼の訴えの一部が認められ、圧力を逃すガス放出弁を取り付けることが義務づけられ、1990年頃にアメリカ国内のすべての「MarkⅠ」に、この弁が設置された。「MarkⅠ」オーナーズグループのアドバイスは東京電力や福島第1原発にも届いていた筈。しかし実際に福島第一原発など我が国の原子炉へのベント弁設置を、原子力安全委員会が言い始めたのが、1992年以降であった。しかも放射能防塵フィルターは設置さなかった!
(井野博満編/井野博満・後藤政志・瀬川嘉之共著『福島原発事故はなぜ起きたか』79頁。藤原書店2011年参照)
この伊方原発訴訟の原告が高松高等裁判所に控訴したのが1978年(昭和54年)4月。高松高等裁判所で控訴審が始まったのが1979(昭和54年)年からで、控訴審で請求棄却判決が下ったのが1984年12月。従って、国側証人佐藤一男が正直に証言している通り、伊方原発も含め、その当時の日本国内にはベント弁すら設置されていない状態であった。
[原告側弁護士 仲田隆明]:「日本では破損しない前提で安全審査をしているんですね?」
[国側証人 佐藤一男]:「さようでございます」
【解説】:佐藤(一男)さんは、原発事故発生の確率は、100万分の1という国の主張してきた安全性を、たった一人で背負って争うことになりました。
[国側証人 佐藤一男]:「それはね・・・あの・・誰が言ったのかっていう事になるんすよね、そんなことのね。それでね、住民の方でね。そいうのは耳障りがいいからね。そっちのほうを、『うん・・・そうか・・』って、思いたくなるんですよね」
[NHK記者の質問]:「国が安全だ、って言っているからですね・・」
[国側証人 佐藤一男]:「あぁ、あぁ・・だって、安全だって言われたほうが安心でしょう、ねっ?だけどね、それはね、そういうことを言っているその人は、本当にそういうことを思ってそう言ったんだろうか?」
[NHK記者の質問]:「それって、どういう事ですか?」
[国側証人 佐藤一男]:「いや、あのね。その場しのぎのことを言ったのかも知れないですよねっ。あるいは、本当にそう思ったんだとしたら、その人はそういう仕事をする資格に欠けていたのかも知れないよね。逆にね。うん。そんなねぇ、いい加減な事で、安全する資格に欠けていたのかもしれないな・・・逆にね。『そんなねぇ、いいかげんなことで、安全を担当していたんですか?』なんて、言いたくなる話でしょう?だからね、そういう話しをね、あの・・・実は非常に後になってね、災いを残すんです。いろんな意味で。あの・・だからねぇ、あの・・そういうことを言う人たち、言った人たちっていうのは、もうお亡くなりになったり、死んだりしちゃっているからさぁ、まぁ、いいかもしれないけれど、後継者はひどく苦労するんですよ、ええ・・・」
【テロップ】:高松高等裁判所 公判 1983年3月4日
【画面】:第22回口頭弁論調書
昭和58年(1983年)3月4日午前10時
高松高等裁判所
宮本 勝美
山脇 正道
磯尾 正
小松 一郎
【解説】:原告側は一審の証人であった、内田秀雄原子力安全委員の証人尋問を求めます。
【画面】:
被控訴指定代理人
昭和五八年三月4日付書証認否書に基づき各書の成立を、写しについては原本の存在も認めた。
控訴代理人
2号証の認否は次回にする。
控訴本人 廣野房一の弁論
別紙のとおり陳述。
控訴代理人
準備書面(六)(昭和五八年三月○日受付)陳述。
控訴人、補佐人久米三四郎の弁論
別紙の通り陳述。
【解説】:これに対し、国側は、審理は尽くされていると、早期の結審を求めます。その結果、裁判長は弁論集結を宣言しました。
【画面】:・・・る意見書」と題する書面陳述。
四 本件については右二で述べたとおり審理はすでに尽くされているから早急に結審願いたい。
証拠関係別紙のとおり
裁判長
弁論終結
右弁論結論の告知直後、「判決言渡し。期日は追って」との告知と同時に控訴代理人藤田良一、同仲田隆明、同熊野勝人ほか数名の控訴代理人から「異議の申し立てをする、裁判官を忌避する」との発言があった。
【解説】:翌年、1984年(昭和54年12月14日)、控訴は棄却。原告住民は上告しました。
【テロップ】:伊方原発訴訟 控訴棄却 1984年12月14日
【解説】1970年代になると、原発政策の担い手たちの間では、原発の稼働率の低さが問題にされるようになっていました。
【テロップ】:島村原子力政策研究会 1991年 通産省 谷口富裕
[通産省 谷口富裕:「電力の技術屋さんというのは会社によって非常に差がありますけれど、まぁ、一般的には技術のユーザーだということですね。私なんか、その・・嫌みで、電力の技術屋さんは、電話をかける技術屋さんが非常に多いんじゃなかと、言っているんですけどね。まさにその自ら技術の改良とか、基本的対応というのを、積極的に取り組むようなトレーニングを受けていない。あるいは能力を開発していない、というのは明らかにあって、基本のところは自分でデザインしたり、開発したりをしたわけじゃないですから、運転とかメンテナンスや、きめ細かいところの改良は、得意なんですけどね。根っこまで入っていくと、技術基盤が十分強いのかなと思いますけどね・・」
[元 通産省 島村武久]:「電力会社はね、何にもできないのかと。検査も、受け入れも。疑問があるんですよ。物を買ってね、悪かったから取り替えろは当たり前かもしれないけれど、自分で買ったものを動かしておいて、そしてそれが自分も気が付かない」
【解説】:この頃、各地の原発では故障やトラブルが続出していました。その度に、長期間運転を停止しなければなりません。原発のメリットは燃料費が安いため[◆註:33]、電力を安価に供給できる[◆註:34]ことでした。そのメリットが生かせません。
[◆註:33]「原発のメリットは燃料費が安い」とするこのNHKのコメントは、明らかに間違い。原発推進派の燃料費計算をそのまま「鵜呑み」「横流し」報道しているだけ。ウラン核燃料の国際価格は、ウラン鉱石採掘から使用済み核燃料の最終処分処理工程に至るまでの全工程でのコストを考慮していない計算法に基づく価格だけを報道している。
[◆註:34]原発は「電力を安価に供給できる」とのこのコメントも間違い。原発の電気は水力発電や火力発電など原発以外の発電単価より、はるかに高くつく。原発の発電コストを、どこまでコスト経計算に含ませるかを、詳しくチェックせず、現行の電力会社の原発発電の単価をそのまま受け売りし、「メリットである」と解説する報道は、私は問題と思う。
【画面】:原発の稼働率(設備利用率)[◆註:35]
[◆註:35]この画面も問題と思われる。原発の稼働率(設備利用率)のグラフを示すなら、全国の火力発電や水力発電の原発の稼働率(設備利用率)も、なぜ、同時に比較して映さないのだろうか?
小出裕章氏の以下のURL
http://www.rri.kyoto-u.ac.jp/NSRG/kouen/msm081026.pdf
の9頁の図5 日本の発電設備の量と実績(2005 年度)の縦棒グラフ図参照
原発の稼働率(設備利用率)だけを画面いっぱいに放映するNHKの報道(編集)姿勢は、「原発推進の国策の後押し報道」と思われても仕方がないのでは・・・?
【解説】:原発の稼働率をグラフにしたものです。原子力発電が本格化した1970
年以降、稼働率は低下を続けていました。
【画面】:1970年の原発稼働率:74%が、年々低下し、1975年では42%にまで低下している折れ線グラフの映像(縦軸に稼働率。横軸が年度。出典:原子力施設運転管理年報)
【解説】:当時、東京電力の原子力保安部長だった豊田正敏さん。財界から稼働率を上げるよう要請があったといいます。
【テロップ】:元東京電力副社長 豊田正敏さん
[当時 東京電力原子力保安部長(元東京電力副社長) 豊田正敏]:「トラブルが多くて止まった時はね・・・あれから(あの人から、という意味か?)・・・経団連の会長だった土光さん[◆註:36]から『おい、何とかしろ』と言われたのですよ」。
[◆註:36]エンジニア、実業家。東芝社長。第4代経済団体連合会(経団連)会長の土光敏夫(どこう・としお:1896年~1988年)のこと。我が国の国策としての原子力発電を牽引しリードしているのは政府(国家権力)だけでなく、その背後に巨大独占企業が君臨していることを物語るエピソード。
[当時 東京電力原子力保安部長(元東京電力副社長) 豊田正敏]:「そんなことを言ったって、任してくださいよ、ともかくね、って・・・。そんなに今日言われて、今日やって、すぐにね稼働率は上がるものじゃないのでね。数ヶ月とか一年はかかりますよ、と言ったんです」
【画面】:「通産省 わが国独自の軽水炉技術確立に本腰」「改良標準化委が発足」「近く耐震性なども検討へ」の見出しの1975(昭和50年6月26日)年付の新聞紙面記事
【解説】:1975(昭和50年6月26日)年、国は原発の改良に取り組む委員会、改良標準化調査委員会を、通産省の中に設置します。故障やトラブルの原因となる機械の欠陥を改良し、国内の原発の新たな企画を作ることで、稼働率を上げようとするものでした。
【解説】:これは原子炉にかけられた投資額をグラフ化したものです。改良標準化が始まってから原発に注がれる資金は急増しています。
【画面】:原子力関連メーカーの研究投資額(原子炉関係)
1972年の60億円から次第に増加上昇し1984年頃では350億円にまで急増している折れ線グラフが表示
(縦軸に投入資金額。横軸に1972年~1995年までの年代。出典:原子力産業実態調査報告)
【解説】:電力会社は稼働率の高い新しい型の原発を導入することに力を入れています。そんな中、アメリカから思わぬ知らせが入ります。アメリカ議会公聴会での証言です。
【テロップ】:元ゼネラル・エレクトリック(GE)社技術者 デール・ブライデンボウ
[元ゼネラル・エレクトリック(GE)社技術者 デール・ブライデンボウ]:「問題を検証し、正しい判断を下す基準が見当たらないと言っているのです」
【テロップ】:マークI型原子炉
【解説】:福島第一原発などで採用している原子炉マークI型には、重大な事故に繋がる問題点があることが指摘されたのです。
【テロップ】:元ゼネラル・エレクトリック社技術者 デール・ブライデンボウさん
[元ゼネラル・エレクトリック社技術者 デール・ブライデンボウ]:「いくつかの原発は、すぐに運転を停止すべきだと思いました。安全かどうかの調査が終わるまでは、電力会社に停止すべきだとの意見を伝えました。GEの上司にも伝えました」
【解説】:しかし、東電はマークI型の原子炉を停止することはできませんでした。
【テロップ】:元東京電力副社長 豊田正敏さん
[元東京電力副社長 豊田正敏]:「一番の目的はやっぱり新しいものを、材料も、それから設備も、標準化すればですね、予備も共通で持てるとかね。それから、安全審査なんかも、一回で済ませ(られ)るわけですよね。あと右へならえで。安全審査期間も短縮できるわけですよ。まぁ、そういうメリットはありますよ。だけど、既設のものについては、やることはやりますけれども、100%やりません、ということはあります」[◆註:37]
[◆註:37]ここの豊田正敏氏の発言も解りづらい。豊田正敏が発言する前に、NHK記者が、豊田氏に発した質問内容が解らないので、如何なる質問に対して、豊田氏が答えているのかが不明なので、回答の意味も不明な点が多い。
おそらく「電力会社が稼働率の高い新しい型の原発を導入することの利点は?」とNHK記者が質問したのであろう。もしそうだとすれば豊田氏のここでの回答の前半部は、つじつまが合う。しかし、もしそうだとすると、回答の後半部が問題発言になる!
後半部で豊田氏はキッパリと、「既設のものについては、やることはやりますけれども、100%やりません、ということはあります」と断言している。「100%やりません、ということはありません」ではなく、「100%やりません、ということはあります」と言っている!ということは、既設の耐用年数の古くなった原発に関しては、「安全審査や点検、整備、修理を100%(=全く)しない事はあった」という発言であろうか?この箇所が豊田氏の言い間違い、勘違い発言ではなく、正しい発言だとすれば重大な発言。
[元東京電力副社長 豊田正敏]:「それを福島第一(原発)・福島第二(原発)とか、4号機までのものにやれといっても、それはできませんということでね。[◆註:38]」
[◆註:38]豊田正敏氏が言う「それを・・やれと言っても」の「それ」とは一体何のことなのか?耐用年数が大幅に経過した古い型の原子炉を、改良標準化型の新型の原子炉に置き換えることなのか?それとも、 デール・ブライデンボウ氏が望んでいたマークI型の原子炉を停止させることなのか?あるいは、上述のような、安全審査や点検、整備、修理、定検作業のことなのか?意味不明。豊田氏の発言の真意がどうあれ、福島第一原発を始めとする、老朽化した原子炉は、何ら改良されることなく放置され続けたことは、豊田氏の以上の発言から明らか。
【解説】:1984年、改良標準化で急増を続けていた原子炉への投資は、下降に転じます。代わって増加したのが、核燃料サイクルへの資金投入でした。
【画面】:原子力関連メーカーの研究投資額(原子炉関係)
1972年(60億円)~1984年(350億円)まで急増したグラフ線が、1984年の350億円をピークに1997年の130億円までに降下。
同時にこの折れ線グラフに重ねて、核燃料関係の研究投資額(赤の折れ線グラフで表示)が、1972年の25億円)から、1997年の275億円へと急増。
(縦軸に投入資金額。横軸に1972年~1995年までの年代。出典:原子力産業実態調査報告)
【テロップ】:島村原子力政策研究会 1991年夏
【解説】:島村研究会は、その予算配分の変化について触れています。その時、国の原子力政策に大きな方針転換があったといいます。
【テロップ】:元四国電力幹部
[元四国電力幹部]:「電力会社も、相当長年にわたって、ずいぶん(改良を)続けてきたんですよ。で、一渡りもう、軽水炉の方はいいなと言い出したのは、今から何年くらい前でしょうかね・・7から8年前でしょうか?それくらいになると(研究投資額が)減ってきましてね」[◆註:39]
[◆註:39]この元四国電力幹部の発言は1991年夏であるから、それから7から8年前は、1984年か、1983年ということになり、上述にも解説のあった「1984年、改良標準化で急増を続けていた原子炉への投資は、1984年以降、下降に転じます。代わって増加したのが、核燃料サイクルへの資金投入でした」の1984年ともピッタリ一致する!
[元四国電力幹部]:「それで、次は再処理の問題だというので、再処理の方へお金がずっと流れ始めたような記憶があるんですけれどねぇ・・。いっぺんそこをトレースしてみると、二度目の軽水炉への援助は、ある一定のとこまで行って、また落ちているんですよ。その電力の援助もね」
【画面】:「谷口氏 008」のラベルのカセット・テープ
【テロップ】:通産省 谷口富裕
[通産省 谷口富裕]:「今のそのプルトニウムの技術を中心にしたですね、核燃料サイクルの確率っていうあたりも、それについての国際的なアクセプタンスをどう得ていくかという、こんな経済的に引き合わなくて、政治的には、最近(国際社会の各国の)みんなが日本に警戒心を高めている中で[◆註:40]、うまくいくわけがないんじゃないか、という心配をですね、非常にしているというのが、率直なところです」
[◆註:40]核分裂を起こさないウラン238は、炉心内では中性子を吸収し、プルトニウム239の超ウラン元素に変換する。このプルトニウム239はウラン235同様、核分裂をするので、これを核燃料として利用するのが増殖炉である。通常のウラン235に純度7%~13%のプルトニウム239を混合したのが、いわゆるMOX燃料。
しかし、核兵器の核弾頭用としては90%以上の高純度プルトニウムが必要。1994年5月に「日本の動力炉・核燃料開発公団(動燃)東海工場で5年半で約70キロのプルトニウム大量残留があったことを IAEA に注意された。更に、日本の「もんじゅ」にも、停
止するまでの1年半の間に濃縮度96%以上のプルトニウム239がおよそ60kg程、ブランケット部に貯まっていると言われる。現在の核爆弾技術では小型核弾頭一発に、96%以上の高純度のプルトニウム7キログラム~9キログラムがあれば製造可能。我が国は核弾頭に装備できる96%以上の高純度プルトニウムを7~8発分を保有している。これが米国でさえ、我が国に警戒の目を光らせる理由である。
我が国政府は、プルトニウム240などの不純物を混ぜることで軍事転用への懸念を回避したかどうかさえ、未だに国内外に明らかにしてきていない。ちなみに、プルトニウムは核兵器の原料となる危険があり、米国のカーター政権が高速増殖炉から撤退することを決めたのも、日本が典型的であるように、プルトニウムの拡散防止が理由の一つであった。
【テロップ】:核燃料サイクル
【解説】:核燃料サイクルとは、原発から出る使用済み核燃料を循環させるシステムです。再処理をしてプルトニウムを抽出します。それを高速増殖炉などで、再び燃料として使用するというものです。国がこの核燃料システムの完成を急いだのには、国際情勢の変化があったといいます。
【テロップ】:島村原子力政策研究会 1989年10月12日
【テロップ】:外務省 遠藤哲也
[外務省 遠藤哲也]:「そもそもの始まりというのは、インドの、1974年の、確か5月だったかと思いますけど[◆註:41]、インドが核実験をやったと・・・」
[◆註:41]インドの核実験は、1974年5月18日に初めて行われた。この核実験はそのコードネームから微笑むブッダ (Smiling Buddha) とも呼ばれて
いる。
[外務省 遠藤哲也]:「核の平和利用だというけれども、いづれにしても核爆発をやったということで、アメリカが、これはうっかりしたら、核が世界に拡散していって、大変に国際政治上の不安定要素を引き起こすと[◆註:42]。NNPAという、例の1978年の核不拡散法をアメリカで作ってですね、これはまぁ、勝手極まりない法案ですけれど、国内法を作ってですね、『お前も(この法案を)飲め』と、各国に要求した(わけなんですよね)。アメリカは力が強いですから、あんなふうに言えるんでしょうけれど、押しつけてきたと・・・」
[◆註:42]外務省の遠藤哲也官僚は、インドの核兵器開発には厳しく言及しながら、イスラエルの核兵器保有に関しては全く触れていない。意図的な政治性を感じる。
デビッド・ベングリオン初代首相は、首相就任早々、核兵器開発に乗リ出していた。その時、国防省文民シモン・ペレス氏(後に首相)を秘密核開発プロジェクトの事務局長役に、有機科学エルンスト・バーグマン教授を技術責任者に任せた。ペレス氏は、フランスと秘密の核技術協定を締結し、イスラエル南部のネゲブ砂漠にある、ディモナにフランスの協カで「ネゲブ核研究センター」を建設した。こうした経緯は、米民間調査機関、国家安全保障公文書館の上級研究員アブナー・コーエン氏らの研究で既に明らかにされている。
米中央情報局(CIA)は1960年にも、同センターでの核開発を察知した。ベングリオン首相は米側の指摘に対し「平和目的」の核開発と回答した。
ケネディ大統領は核拡散防止に積極的で、イスラエル側に現地査察を要求。米政府専門家は1961年~1969年の期間中、年に一回程度の割合で、現地訪問したが、重要部分は視察できなかった。
後を継いだジョンソン米政権は、現地視察を認めさせる代わりに、武器を供与する妥協策をとり、M48戦車やF4戦闘機などをイスラエルに供与した。
この間、イスラエルは核兵器開発を既成事実化することに成功した。
1969年9月26日、ホワイトハウスでのニクソン大統領とゴルダ一メイア・イスラエル首相の会談で、「イスラエルの核兵器保有に関してはあいまい戦略で通す」ことで同意。この首脳会談の議事録も、首脳会談に先立つ国家安全保障検討メモ(NSSM)40号も極秘で未公開。両首脳は《1》米国はイスラエルの核保有の翼を受け入れる《2》イスラエルは核実験や核保有宣言といった明白な行動をとらない・・ことに同意した。実際、イスラエル政府は、現在に至るまで、核兵器の保有を肯定も否定もしない政策を堅持している。
イスラエルが、もしも、核兵器を保持していないのなら、モルデハイ・バヌヌ氏を国家反逆罪で、1986年以来18年間も禁固刑にしたり、釈放後も、依然、バヌヌ氏の発言を警戒し、1年間の海外渡航禁止など、外部との接触を制限する、人権蹂躙の非人道的な措置をバヌヌ氏に対して取り続けるのか!!
外務省官僚の遠藤哲也氏が、バヌヌ事件を知らない筈はなかろう。イスラエルの核兵器保持、バヌヌ事件をほとんど報道せず、黙殺し続けてきているNHKの報道姿勢は、アメリカやイスラエル一辺倒の、世論誘導報道と言わねばならない。
[元 通産省 島村武久]:「まだ再処理工場は(?)にも入っていないのだから、何ですけれども、あれ(再処理工場)がね、本当に皆が願うように完全に動きだしたらね、(プルトニウムが)とても余ってしょうがない・・日本の(プルトニウムがです)ね。見通しから言うと・・・。そうすると、ランニングストップやる。何か、日本が必要とする物をアメリカが認めるだろうけど・・。当面、使用の見込みのないプルトニウムのほとんどを、再処理工場で製造すること(に)はね、アメリカが黙って許せるだろうか?私が危惧するには・・・だいぶ昔から『アメリカに反対する根拠はない』、とかなんとか、(日本の政治財界のある人たちは)言っているけれどね・・。
実質的には、それこそ、(外務省の)遠藤(哲也)さんが、さっき言われたようにね、アメリカは行政府じゃなくって議会(が政策決定に大きな影響を持っている国)ですから・・。すると(アメリカ)議会がまた騒ぎ出して、『日本国民はプルトニウムを貯めてるじゃないか』となってくると・・いやぁ・・(そんなことにでももしなると)問題だし・・。仮に(再処理工場が)技術的に旨く(再処理工場が)動い(たとし)てもですよ、動かせないと運搬ができないと・・そのようなことにでもなると、その損失というのが相当な問題になるというふうに思うんですよ」
【テロップ】:インドの核実験 (1974年5月)
【解説】:1974年、インドが核実験に成功します。核爆弾の材料となるプルトニウムは、平和利用の為の原子炉で抽出されていました。[◆註:43]
[◆註:43]「原子力の平和利用」と「軍事利用」の区別は不可能である。両者は「一枚のコインの裏と表の密接不可分の関係」にある。
【テロップ】:アメリカ大統領 ジミー・カーター
【解説】:アメリカ、カーター政権は、核不拡散の為に、ウラン燃料を厳しく管理する政策に転じます。
【テロップ】:日米原子力協定交渉[◆註:44]
[◆註:44]インドの核実験を背景とした「日米原子力協定改訂」の動きは、1977年の「東海再処理交渉」に始まり、その翌年の1978年から本格的に動き始め、紆余曲折を経て、チェルノブイリ事故の2年後の1988年に、ようやく妥結している。
ちなみに、最初の日米原子力協定は、米国から研究用原子炉と濃縮ウラン供給を受けるための「研究協定」が1955年に締結。3年後の1958年には低濃縮ウラン供給を受けるための、いわゆる「一般協定」が締結。1968年にも商業用原子炉も対象とする「包括的協定」(1973年に一部改訂 )も締結されてい
る。
日米原子力協定(1988年)の成立経緯と今後の問題点、遠藤哲也著(H22年11月)
http://blogs.yahoo.co.jp/kyomutekisonzairon/64668029.html
【解説】:日本は、アメリカから使用済み核燃料の使用法を注視されるようになりました。日本はプルトニウムを軍事利用しないことを示す為、一刻も早く、プルトニウムを燃やす新型炉を完成させる必要がありました。
(原子力関連メーカの研究投資の)予算の(1984年を境に、原子炉関係から核燃料関係へと大きく)重点配分(が転換した)の背景には、こうした事情がありました。
【テロップ】:チェルノブイリ原発事故 1986年4月26日
【解説】:1986年4月、ソビエトのチェルノブイリ原発で事故発生。自己評価レベル7。これまで人類が経験したうちうで最悪の原発事故となりました。ヨーロッパ一円に広がった放射能汚染の実態は、未だ全容が明らかになっていません[◆註:45]。
[◆註:45] チェルノブイリ原発事故では京都大学原子炉実験所助教今中哲二氏の精力的な調査研究がある
「チェルノブイリによる放射能災害 国際共同研究報告書」
http://www.rri.kyoto-u.ac.jp/NSRG/Chernobyl/J-Version.html
「放射能汚染調査から見た福島とチェルノブイリ」
http://www.youtube.com/watch?v=9U1FKpWiVmg
参照
【解説】:島村研究会でも当然、この歴史的大惨事は取り上げられていました。
【テロップ】:島村原子力政策研究会 1991年夏
【テロップ】通産省 谷口富裕
[通産省 谷口富裕]:「この間、ヨーロッパの人たちと議論していてですね・・うーん・・・・フランスの政府の人と、あとOECDの人がいましたけれど、チェルノブイリは非常に良かったと言うんですよね。チェルノブイリ(事故)がなぜよかったかというと、まずそのチェルノブイリ事故が起こったことで、もちろん、さっきのそのソ連の体制がおかしくなっただけじゃなくて、ソ連でもがむしゃらに原子力をやらなくなったと・・。で、東欧圏も原子力をやめになったと・・・。それから発展途上国でもですね、原子力をやることに非常に慎重になったと。結果として日本が一番得するんじゃないかと。要するに、石油危機の時にも同じようなことを言われたんですよね。石油が、その・・・足らなくなって、脆弱で一番困るのは日本じゃないかという俗説に対してね、石油をもっとも効率的に使う技術なり、産業ポテンシャル(潜在力)が一番高いのは日本だから・・・(だから)日本が一番得するだろうと・・・。
[通産省 谷口富裕]:「で、今度のチェルノブイリ(事故)なんかでもですね、そういう意味で原子力技術はなかなか難しくて大変で、かつその、それぞれ各国で目いっぱい社会情勢をふまえてやっている中で、ブレーキがかかった時に、一番改善の能力と持ちこたえる能力今あるのは、日本じゃないかと(私は思うんですけど)」
【テロップ】:東京電力 柏崎刈羽原子力発電所
【解説】:東京電力が新潟柏崎、刈羽に最新式の世界最大の原子力基地を完成させたのはチェルノブイリ事故の後でした。[◆註:46]
[◆註:46]東京電力柏崎刈羽原子力発電所の着工は1978年12月。最大出力が6号機及び7号機の出力135.6万キロワット。運転開始が1984年11月。新潟県柏崎市と同県刈羽郡刈羽村に跨る二つの行政境界線上の土地に敢えて原発を設置したのは、原発交付金の札束をちらつかせることで、両自治体住民の間での互いの欲望の競争心を煽る目的からでもある。
【テロップ】:伊方原発訴訟最高裁判決 1992年10月29日
【解説】:1992年10月29日。一審以来19年間争われた伊方原発訴訟が結末を迎えました。
【画面】:最高裁裁判所正面および最高裁判事以下5名が並ぶ最高裁第一小法廷の光景
【解説】:上告棄却。原告住民の敗訴が確定します。原子炉設置許可は各専門分野の学識経験者などを擁する原子力委員会の科学的専門技術的知見に基づく意見を尊重して行う内閣総理大臣の合理的判断にゆだねる趣旨と解するのが相当である。周辺住民が原子炉設置を告知されたり意見を述べる機会がなかったことは法による適正手続きを定めた憲法違反とはいえない
「最高裁判所判決 理由」より
【テロップ】:原告側弁護団長 藤田一良
[原告側弁護団長 藤田一良]:「とにかく最悪の判決だ、というふうに思いました。最高裁がこういうふうに不誠実な判決を出す、司法としてあるまじき判決を出す、ということであれば、原発に関してどのような大災害が起こり、そして、国民の(不詳?)にそれが降りかかるという事態に対しては、最高裁も共同して責任をとらなければならないと、そういうふうに考えました」[◆註:47]
[◆註:47]この伊方原発1号炉差し止め訴訟の最高裁判決(第一小法廷)で不当判決を下した判事5名は、裁判長小野幹雄、陪席裁判官大堀誠一、同橋元四郎平、同味村治、同三好達の5名。なお、判決は全員一致、意見なし、反対意見なしの最高裁判事5名全員の「政府御用学者原発村民の主張丸投げ丸任せ」判決であった!
この5名の最高裁判事の中の一人味村治(みむら・おさむ。2003年7月死去)判事は、福島第二原発差し止め訴訟でも上告棄却の判決を下した後、70歳で最高裁判事を定年退官。退官後は弁護士となり「勲一等旭日大授章」の最高位の勲章を受け取った後、98年からの2年間、福島第二原発差し止め訴訟を上告棄却判決した「功績」を東芝から評価された代償であろうか、東芝の社外監査役に天下っていた!
【解説】:これ以降、原発立地を巡る裁判で、原告勝訴が確定した裁判は、未だ一件もありません。安全審査の妥当性を司法審査でチェックする道が絶たれる中、原発の安全神話が広く定着することになったのです。
【テロップ】:島村原子力政策研究会 1991年夏
【テロップ】通産省 谷口富裕
[通産省 谷口富裕]:「日本の電力会社っていうのは、諸外国、先進国の電力会社に比べると相当特殊な感じがありまして・・。何が一番特殊かというとですね、その・・・日本の電力会社っていうのは、際だって立派っていうか・・・その・・・諸外国の電力会社に比べると、強力な組織なわけですね。それは、地方へ行ったらもっとさらにですね・・地方の電力会社っていうのは、地域の本当の、文字通りのリーダーっていうか、殿様というか・・・そういう感じがあって、地域の開発の隅々まで、電力会社に依存しているような図式がありましてね・・」
【解説】:そしてあの日を迎えます。
【画面】:3・11福島第一原発事故発生直後の現場の上空撮影の映像
【テロップ】:撮影:陸上自衛隊
【解説】:問題点を指摘されていた福島第一原子炉のマークI型。
【テロップ】:映像提供:東京電力
【解説】:耐用年数とされた30年を越え、40年も越え、更に10年の使用延長許可を得た矢先でした。建屋の損壊、放射能の放出という、最悪の形で廃炉が決まりました。
【テロップ】:東京 新橋
【テロップ】:原子力政策研究会 2011年7月
【解説】:日本の原子力の歩みを記録に残してきた島村原子力政策研究会。今も島村武久氏の後輩の世代によって、会合は続けられています。
【テロップ】:元 日本原子力発電副社長 浜崎一成さん
[元 日本原子力発電副社長 浜崎一成]:「起こる筈のない事故が起きたと・・まさにこれは・・・え~・・・こんな事故は起こる筈がないし、まぁ、起こしてはならない事故であるというふうな認識姿勢であったのが、実際には事故が起きてしまったと・・・」
【テロップ】:元原子力安全委員会委員長 松浦祥次郎さん
[元原子力安全委員会委員長 松浦祥次郎]:「この『起こる筈の無い事故が起こった』と言う表現は、読み様によっては、非常に奇妙な表現でもあるわけなんですよね。もう少し言い方を変えれば『起こる筈は無いと思っていた事故が起こった』と言うのなら皆さんそうだなぁ・・・って思いますけれども・・」
【テロップ】:元日本原子力研究開発機構理事長 殿塚猷一さん
[元日本原子力研究開発機構理事長 殿塚猷一]:「起こる筈がないよねぇ・・と我々が思っていたという、その一つの思いこみというのが・・・あ~~・・・かなり原子力ムラしか通用しないというふうに言われた、独占性の気持ちというものを表現しているような意味にも取れるんだよねぇ・・」
【テロップ】:元外務相科学技術審議官 遠藤哲也さん
[元外務相科学技術審議官 遠藤哲也]:「日本の国はもう信用されてないと思うんですよ。いくら日本の国が言ったってダメだと思いますよ」
[元 日本原子力発電副社長 浜崎一成]:「そりゃぁねぇ・・・遠藤さん、政治の指導力によるんじゃぁないですか?・・・そういう・・」
[元外務相科学技術審議官 遠藤哲也]:「いやぁ私は、誰が来たってですね、ろくな政治家なんて来っこないですよ・・・」
[元 日本原子力発電副社長 浜崎一成]:「いやぁ・・・だから、遠藤さん・・・いずれにしてもねぇ・・国民の理解と地元の合意が無ければ、原子力っていうのは、やっぱりもう継続して出来ないわけでしょう・・?」
【解説】:メンバー全員、事故後も変わらないもの。それは日本には、原子力は必要だという信念です。
【テロップ】:元中部電力副社長 伊藤隆彦さん
[元中部電力副社長 伊藤隆]:「じゃあ、そこで簡単に原子力をやめてしまっていいのか。どうなのか?いやリスクがゼロでなければ止めてしまっていいのか・・?やはり、原子力というものを離れて、日本全体を考えた時には、じゃぁ日本の将来はどうなるんですか?エネルギー無しに日本はやっていけないわけなんで・・」
[元原子力安全委員会委員長 松浦祥次郎]:「だからエネルギーの究極は原子力っていうか、核反応、あるいはその核の崩壊によるものだと・・。だから、それをどのように安定して、安全に使うかっていうのは、まさにもう人間の知恵次第ではないかと思うんで・・」
【テロップ】:元原子力安全委員会委員長 松浦祥次郎さん
[元原子力安全委員会委員長 松浦祥次郎]:「一口で言えば、日本は石炭も石油も無いわけですから、エネルギーとして頼るのは原子力しかないわけですから、だから非常に危険なものであっても、これを何とか飼い慣らして・・・ええ~~・・・その・・・ちゃんとしたものに仕上げなくちゃいけないっていう、そういう発想へ、ずっと今まできていると思いますね」
【解説】:ある時は立地を進めるため、ある時は稼働率を上げるため、安全という言葉はいつも口にされてきました。しかし、それが誰の為の安全であったのか、今初めて、厳しく問い直されています。
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NHKETVシリーズ 原発事故への道程(後編)そして”安全神話”は生まれた
[2011年10月23日放映]
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資料提供
立教大学共生社会研究センター
埼玉大学共生社会教育研究センター
内閣府原子力委員会
原子力公開資料センター
原子力資料情報室
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共同通信社
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リサーチャー 和田京子
取材 伊藤夏子
編集 田村 愛
ディレクター 森下光泰/松丸慶太
制作統括 増田秀樹
(以上、《後編》(その2)終了、完)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion0702:111129〕
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