米国特権層の病にとりこまれた、戦後日本のアメリカ依存(米国史その7)
- 2011年 11月 30日
- 評論・紹介・意見
- 大木保
はや7回目となりました米国史シリーズですが、そろそろ結論をえるときがきたようです。
前々回の末尾につぎのように書きました。–
– 「 ためしに、アメリカ特権支配層から巨万の富と権力をとりあげてみれば、あとには 根拠のない虚飾にすぎない社会ダーウィニズムの選民意識と、悪行の連鎖によって固着した、荒んだ社会病理の性格しかのこらないことにやっと気づくのではないか」と。
だがもとより、かれらこそは「われわれに敵対する未開の民族を駆逐しただけであって、眼には眼をであり、適者生存がはたらいたにすぎない」 という、かれらの手前勝手な理屈で非道の生き方をみずからにゆるしてきたものたちである。非道を不問にしたゆえ、そののちにその申し子のような機能主義やプラグマティズムをおしたてるようになったのも自然の成り行きといえよう。
悪行を犯したという認識すらないために、富と権力を失くしたとき、かれらの醜悪な選民意識はかえって先鋭化するだろうとおもわれる。
しかし、悪行という社会病理の性格形成に並行して獲得された、自己妄想としての選民意識はそれがまた共同観念でもあるが故に、正しく自己覚醒することがはなはだ困難であること。
共同観念の内側にいるものには、 他をもって、この共同観念である選民意識を解体するほかに
自己を覚醒する方法はないようにおもわれる。
まったく心的病理の側面からみれば、このようにとらえられる。
やっかいな観念としての選民意識ゆえに、だれにもわかるように、ためしに富と権力を取りあげてみればと言いかえてみたわけであり、そのかれらの選民意識を、わたしたち無名の者の<個の生存と自由>にかけて解体することが、
かれらの富と権力への妄執と、さらには機能主義やプラグマティックな商品化思考をも、解体することになる。
かれらアメリカ特権支配層がかつて一度もかんがえたこともない「個の尊厳とほんとうの自由」は、とうぜんだが、すくなくとも日本のわたしたちのうえに、いまだ実現されない、切実な理念としてかかげられてひさしい。
それどころか、情況はますます悪しき方向にむかっていて、かれらの悪行の連鎖に刻印された社会病理が突出し、
覇権主義となって世界中を席巻しつつある。
– これはかれらが強大な軍隊を要しているゆえに、実行可能であるのかといえば、けっしてそうではない。
世界が軍事力のパワーゲームで動いているとかんがえるものは、時代錯誤の夢想家にすぎない。
(軍事の本態の大部分は産業化であり、戦争という幻想をぶらさげた産業であり、戦争とは無縁であっても成り立つことがこの国で証明済みである。)
仮に、軍事力で他国を制圧したとしても、それは単に戦闘に勝ったというだけのことで、それだけでは彼の地に立ったとしても一歩もすすむことができない。
軍事力とはしょせんそれだけの意味しかもたない。
このときに世界に発信する言葉が、思想が受け容れられてこそ占領活動にうつれるわけで、米国がその発信力をそなえていることはまちがいない。 それの善悪はともかく。・・
かれらの国策であるPR戦略にもとづいた圧倒的なキャンペーンによって、「民主化!」と「市場自由化!」という、
(じつは米側の利益要求にすぎない)スマートなキャッチフレーズのみの幻想を日本はもちろん世界中に浸透させることに成功していることがすべてに優先することであり、興味ぶかいことに、軍事力は軍事力に重きをおく相手に対してのみまれにしか発動されない。
– しかし、なによりそのまえに、軍事の本質が「狂気」そのものであることを理解しておかなければならない。
それは対象国のひとびとを「殺傷し」、施設を「破壊する」ことを目的の第一義としているゆえである。
年配のひとは戦争と聞くと、平気で「相手をやっつける」イメージを頭にえがけるほど、いつのまにかすりこまれてしまっていることが、おそろしく哀しいことだ。
だがかならずや戦場の兵士は、戦争が狂気そのものであることをいやでも実感させられるのだ。
権力者の頭に巣くう、現実に殺傷し、破壊するという、戦争軍事の思考は、「個の尊厳と自由」から隔絶した者の、孤立の思考であり、分裂症候とみるよりない。
もとより、過大な富と権力妄想にとりこまれた機能主義的で、人間代替主義に属する「狂気」であり、あるいはまた中ソを筆頭に、国民に敵対する官僚独裁政権の保身のための軍事志向そのもののもつ「狂気」も本質的に同様である。ついでにいうと、金魚の糞のように米政権にくっつきたがる、おろかで幼稚な保守を看板にする日本の被害妄想家の脳内にも瀰漫している狂気でもある。
この種のものはなぜか自分の狂気に気がつかないまま、真面目な顔で「大義や正義」をふりかざしている。
だが、なにもナチス・ヒトラーだけが残虐で狂気の人ではないのだ。
「おまえたちの残虐と狂気が、あまりに無自覚で、それゆえにスマートにみえるだけではないか」と、
かのヒトラーに言われても、しかたのないところだ。
お利口にみえてはいても、かれらの自覚の無い狂気は、狂気ゆえに自覚できないものなのか?
それはそのとおりであり、心的病理とおなじく現実から解離し、破綻したものの思考にはちがいない。
ここまでくれば、さきほどの “自己妄想としての選民意識は、それがまた共同観念でもあるが故に、正しく自己覚醒することがはなはだ困難である ” という認識と共通していることに気づかされよう。
– このように米国特権支配層は、自己妄想をかかえるゆえに尊大であり、かつ性格形成(開拓史)において暴力= 狂気の体験を連鎖し、あるいは学習したために、ほぼ無意識に自分の利益をえるためには平然とひとを欺き騙す典型的な精神の病理をあらわすものたちであり、いまかさねて覇権主義による世界の簒奪を欲求してやまないものたちである。
ウィルソン大統領がアメリカ金融資本のために謀略とPRで国民を欧州戦線につれだしたごとく、また「自分たちが手にしてもいない米国の民主主義」をもたらすために、差別と貧困のなかの若者たちがベトナムやイラク、アフガニスタン戦争の最前線に送りこまれたごとく、特権支配層は、「愛国心こそが悪党たちの最後のよりどころ」といわれる通りに、周到なプロパガンダによって伝家の宝刀である「愛国心」を国民に突きつけて強迫するのが常である。
– 本来、どこの国であろうと、どのような政権下にあっても、他国が介入すべきではない。
その国の困難は、その国のひとびとがいずれ解決するほかないのである。
それだけが民主主義とよばれるものがもつ、意義であり前提でなければならない。
いまやというより、もともとはじめから米国にも日本にも「ほんとうの民主主義」などあったためしがない。
米国では、あるときは占領政策のために、あるときは対外戦争をしかけるために、あるときは大統領選挙に勝つために、エセ自由・民主主義が都合のいい正義の仮面をかぶせられてスマートに登壇する。
また、日本では、敗戦のトラウマから逃亡したいために、占領されるための(依存するための)形式だけの多数決民主主義をありがたがって信仰し、これ見よがしの米国社会の商品化プロパガンダにとりこまれ、国民こぞって羨望し、占領と収奪の現実をいまだに夢にも理解しないという、世界でも例のない、お人好しの国民性(依存症)を、痴呆のごとくあらわしつづけてきた。
– 先日の大阪府知事、市長W選挙は、いまだにお人好しの国民がいよいよジリ貧にあって、 時代の生き難い閉塞感から、その疎外意識を共同観念に転化する機会をえたときに、その多数が「異質で強力なリーダー像」をもとめるほかなかった結果だとみられる。しかしそれがまた、なにごとか良い結果をもたらすとは、とうていおもわれないのだが・・。
なぜなら、こんどの知事、市長が典型的なアメリカナイズ(借りてきたアメリカ化)された方たちだからである。
竹中・小泉が破壊して見捨てた地方行政から、大阪だけは脱出できると妄想したかれらだが、そのじつ竹中・小泉路線を踏襲する政治家であるのが理解の外である。
破壊に破壊をかさねて、いったいどうしようというのだろうか?
市民の多くは、このような人物だとはしらずに選んで、とんだ災いをよんだことにならねばよいが。
たとえば大阪市の突出した生活保護行政をとがめる、かれらの愚は、他の全国レベルで受付をサボタージュされた事実こそが問われるべきで、同時に、地域経済を破壊してきた小泉以来の政権の罪こそ問われるべきことをみとめないところにある。
こうした姿勢を見ても、おそらく市民を根っから疎んじていて、ただコストとしてしか頭にないためであろう。
万事がアメリカナイズされたこの手の連中が肩で風切る日本の政治・文化情況こそ哀れなり。・・
– それにしてもこの間、本家本元の世界の「資本主義」そのものが、露骨に実体経済をはるかに乖離し、そのかくされた本質のとおりに、増殖する金融資本が世界をすべて計量化し、商品市場化し尽くしてしまっている。
数値化であり、記号化であり、ドル変換化がその目的のようにみとめられる。また、ドル覇権を背景にしてあくことなく「富と権力」を欲求しつづけるかれらは、すべての市場に介入、売買操作することにより、
「物の相場」を恣意的な価格に維持させて支配的にふるまうことを至上の価値であるかのように求めてやまないものたちでもある。
M.ムーア氏が「貪欲という名の依存症」だと言い放ったとおり、現代資本主義は「かぎりなき成長の呪縛」という強迫意識から逃れる術をもっていない。
それはまさに強迫神経症を常同症的にあらわしつづける病理にほかならない。成長こそが至上の価値であり、この世から市場価値以外の存在を除外して、本質的にそなわっている意味を剥奪し去ることを要求してやまない
「究極的な悪」とよばわるべきものである。
それゆえにみずからの増殖、膨張をを制御できず、タガがゆるんだときにかれらの自壊作用がはじまるとおもわれる。
それがもうはじまっているのかは、非力なわたしにはまだ判断できかねるところだ。・・
いずれにしても、わたしたちは「個の尊厳とほんとうの自由」を獲得してゆくために、かれら米国特権支配層の病理的動向に、注意深く、まったくの不信と警戒をおこたることなく、その解体にむけて、のほほんとして、ひるまず、向き合ってゆかねばならない。
願わくは、 いつの日か、富と権力の妄執を手放した(解放された)かれらもまた、のほほんとして生きられる、ほんとうの自由な社会が実現されることを!・・・
(ひとまずこの稿は終了させていただきます。)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion0704:111116〕
「ちきゅう座」に掲載された記事を転載される場合は、「ちきゅう座」からの転載であること、および著者名を必ず明記して下さい。