『南京大虐殺』をどう見るか
- 2012年 3月 8日
- スタディルーム
- 増田都子彦坂諦
(この論考は、増田都子さんの<「河村市長への抗議文」への返信への返信>http://chikyuza.net/archives/20231にふれて書かれたものです。これに続くものとして、「『南京大虐殺』を日本の作家がどう描いたか――堀田善衛の『時間』に触れて――」を掲載する予定です。―編集部)
増田さん、みなさん、
とってもたいせつなことですから、これは、増田さんにあてた手紙のかたちで書きますが、どうか、もしすこしでも心ひかれるところがあったら、全文を読んでください。
それにしても、このようなひとを学校教育の現場から追放できる「東京都教育委員会」とはそもなにもの?
「教育」とはなになのかがまったくわかっていないこんなひとたちに「教育」など「指導する」資格がないどころか「教育」について語る資格さえありませんね。
かなりの分量になりそうなので、2回に分けてお送りします。これはその1回めです。
増田さん、ありがとう!
ほんの些細なことばづかい(表現のしかた)にも敏感に反応して、そういった表現がどのような役割を(心ならずにであったとしても)はたしてしまうのかを、だれもがわかるようなかたちで、きっちりと、しかもていねいに、説明してくれたことに対して、です。
文学作品を読んだり書いたりすることをしごととしているひとりの人間として、つぎの3点を、つけくわえておきたいとおもいます。
1.「両論がある」と見る姿勢では真実に近づくことはむつかしいでしょう。
2.この種の戦争犯罪にはそもそも「物証」などないのがあたりまえではないか?
3.軍事行動の一環として(将兵が)殺すことと個人が他の個人を殺すこととはおなじではない。
1「両論がある」と見る姿勢では真実に近づくことはむつかしい。
増田さんの言いかたを借りれば、この問題に関してはもともと「一論」しかないのです。 研究者はおおぜいいました。民族的にもさまざま、国籍もいろいろでした。
けれども、到達された結論は、その根底において同一でした。「南京大虐殺」は存在した。これが結論です。
この結論を認めたくないひとびとがいました。
そのひとびとは、せめて、この結論の持つ力あるいは重みを半減させようとした。
このひとびとも民族的に日本人に属していたので、日本人のものの見かた、感じかたをよくこころえていた。だから、そこにぴったりするような手法を用いた。どういう手法か?
一般的であった「説」に「異議」をとなえるのではなく、これは誤りであるとまっこうから否定した。「南京大虐殺」など幻だ、そんなものは存在しないと断言したのです。
むろん「精緻な学問的裏付けをもつ論」という体裁(ていさい)で、ですよ。
そのことによって、どういう効果がもたらされたか?
増田さんも正確に指摘しているように、
家永三郎さんや洞富雄さんをはじめとする歴史研究者たちが気の遠くなるほどながい時間をかけて、ひとつまたひとつと、事実を精細に検証していき、その事実の歴史的意味を具体的に考え、あきらかにしていくという、地道で真摯な努力をつみかねてきた結果ようやく到達しえた結論を、一挙に全否定することによって、真実はどちらにあるのかよくわからないといった「印象」をおおくのひとびとにあたえることができたのです。
むろん、こうした「印象」を「国民」のなかに定着させていくには、この国の主要な大手出版社や大新聞の強力な援護射撃があったのですね。
ある「説」ともうひとつの「説」とがまっこうから対立しているという「事実」をつくりあげることに成功すれば、
日本人は、ふつう、真実はその中間にあるのだろうと考えやすい。
そこがつけめなのです。
その結果、どうなったか?
現実にその経過に立ち会ってきた、家永さんには特別講義を受けた体験があるし、洞さんとも手紙のやりとりをしたことのあるわたしとしては、それこそ、くやしくって、くやしくって、いたたまれなかった。家永さんや洞さんをはじめとするすくなからぬ研究者たちが、文字どおり営々として地道に真摯に築きあげてきた研究の成果が一挙に否定され、それのみか、それを否定する「うろんくさい」言説と同等なものとされてしまったのですからね。
「両論がある」という状態は、現にあった「論」の価値を貶める目的で、きわめて意図的につくりあげられたものだったのです。
その過程それ自体が、「戦後歴史学研究史」の一項目として歴史的に正しく検証されなければならないことなのです。
2.この種の戦争犯罪にはそもそも「物証」などないのがあたりまえではないか?
歴史研究においても、「文書」と「物証」と「証言」とは重要な「証拠」です。
まず「文書」(「ぶんしょ」と訓もうが「もんじょ」と訓もうが)は基本的な史料ですが、
なにごとかについて「書いて」「残す」ことができるのはどういうひとたちであるのか?
端的な例をひとつあげておきましょう。1945年8月、アメリカ占領軍の進駐にそなえて、
「大日本帝国軍隊」の首脳部は、発見されては不利だと思われる文書(ぶんしょ)はすべて焼却するなりなんなりして処分せよ、という命令を出しています。
この命令が隷下の諸部隊によって十二分に遂行されたこともあきらかにされています。
後日の証拠となりうるものはすべて消してしまのが「大日本帝国軍隊」の姿勢でした。
そのことを考慮しないで、書かれた証拠(軍の公文書)がないからその事実はなかったのだ、などと言うのは、根本的にまちがっている。
「書かれた物」としての史料にはおのずから限界があります。それを書いて残す者と一方的に書かれるだけの者との落差あるいは断絶です。
要するに、書く側の者は「権力」を持っていて、書かれる側は、その権力によって支配される一方の者だということです。
この反省から、近年「オーラル・ヒストリー」つまり現にそこを生きたひとたちの体験や見聞を聴きとって、それにもとづいてその当時のその場での事実やできごとを再現していくという作業、これを歴史研究の一翼として正式に認めようじゃないかという気運がたかまり、いまではもうすっかりこれが定着しています。
ところで「物証」ですがね。
これについても、文書の隠滅とおなじ問題があります。いや、それ以上に、大きな問題があると言ってもいいでしょう。
ポルポトによる虐殺現場には無数の人骨が残っていた。
カチンの森での虐殺が判明するきっっかけとなったのはそこから発見された人骨だった。
これらは有力な「物証」でありえたでしょう。
しかし、旧日本軍将兵が殺したひとびとに関するかぎり「遺骨の調査」など現実的に不可能なだけでなく意味はないだろう、とわたしは考えています。
だいいち「遺骨」などもはや存在しない可能性が大いにあります。有名な死体処理現場のばあいならともかく、南京で当時旧日本軍将兵に殺された中国人の遺体など、その当時すでに「処理され」て消滅させられている可能性が高いでしょう。
これもまた、増田さんが正確に指摘しているように、
広島と長崎での原爆投下によってどれほどのひとびとがどんなふうに死んでいったのか にかかわる「物証」などきわめて不完全にしか残されていません。
「南京事件」にかぎらず、旧日本軍がアジア各地でやりまくった殺しに関してもおなじことで、その「物証」などまずほとんど残っていないでしょう。
個人の犯罪における「物証」と、軍によっておこなわれた戦闘行為における「物証」とは、そもそも、その意味も比重もことなるのだということです。
どうやら、現にいまこの国でおこなわれている裁判での物証の位置からの類推で、物証がなければその事実は事実と認定しがたいのではないかという観念がいきわたっているように思われます。
3.軍事行動の一環として(将兵が)殺すことと個人が他の個人を殺すこととはおなじで はない。
旧日本軍による南京占領にともなってひきおこされた大量殺人は、個々の兵による「行きすぎた」行動であったのではなく、軍としての戦闘行動の一環であったのだということをきちんとおさえてから議論することが肝要なのではないか?
増田さんが紹介してくれた、南京戦当時の「第16師団」長中島今朝吾の日記からも、そのことははっきりと読みとれます。
ところが、これを一部の将兵のいきすぎたふるまいであったと考える風潮はいまでも根強く残っています。
たしかに、兵の「いきすぎたふるまい」と見なす見解は当時はむしろ一般的でした(むろん、「内地」にいる「一般国民」には完全に秘匿されていて、一部の「事情通」「関係者」のみが知ることではあったのですが)。
増田さんが挙げている石川達三は雑誌の特派員として南京戦がおわってから現地に足を踏みいれているのですが、つぎに引用する火野葦平の文章は、火野が、軍の報道部に所属する兵隊として、当時広東にあった南支派遣軍報道部発行の軍内部向けパンフレット(1939(昭和14)年8月15日日付)に掲載するために書いたものです。
《率直にいえば少しく戦火のおさまった占領地域内において、残留している支那民衆に対して、幾分不遜と思える態度を以て臨む兵隊を時々見るからである。
飽くまでも戦勝者とし、征服者として、支那の民衆に対すべきではない。
支那人に対してどんなに威張ってみたところで、兵隊の価値がちっとも上がるわけのものでもなく、その兵隊がえらく見えるわけのものでもない。
(中略)我々は今全く個人ではない。我々一人一人が、日本であり、歴史であるという事を自覚しよう。
(中略)たった一人の兵隊のやったことで、日本の軍隊がとやかくいわれる。
我々兵隊の一人一人が、もはや単なる個人ではなく、日本である、ということを常に忘れてはならない。
我々は自分では何でもないと思う小さな行動によって、日本の名をよくもしたり、悪くもしたりするのだ。》
これが、当時、事実は事実として認めようとするきもちをきちんともっていた軍関係者(と言っても、火野は将校ではなく兵隊でした)の表現しうるぎりぎりの線でした。
もうひとつ例をあげておきましょう。
当時中国に派遣されていた日本軍の最高司令官であった松井岩根大将が、戦後、戦犯として巣鴨拘置所に収監されていたときそこで教誨師をしていた花山信勝に対して語った告白のなかからもこういった見解はうかがえます。
それだけじゃなく、この松井大将の告白からは、当時の陸軍部内にどのような空気がただよっていたかがじつによくわかります。
日本軍による南京占領の直後におこなわれた「慰霊祭」において、松井は、中国人の戦没者もあわせて慰霊しようとしたが、参謀長らの強硬な反対にあって、実行はできなかった。
そこで、松井は、この「慰霊祭」がおわったあととつぜん立ちあがって、参列者一堂に向って、「説教のような演説」をして、南京を占領し、せっかく「皇威を輝かした」のに「兵の暴行によって一挙にしてそれを落してしまった」と叱責した。
「ところが、このことのあとで、みなが笑った。甚だしいのは、或る師団長の如きは『当たり前ですよ』とさえいった」(花山信勝『平和の発見』)
このとき総司令官松井大将の「訓辞」をせせらわらった師団長とは、増田さんが引用している「第16師団」長中島今朝呉中将そのひとです。彼は「強姦の戦争中は已む得ざることなり」と言ったとのこと(洞富雄『決定版・南京大虐殺』)です。
増田さんの挙げているこの中島今朝呉中将の日記からくみとれるのは、当時中国に派遣されていた日本軍では、敵軍の将兵を「捕虜」にはしない「方針」であったという事実です。
捕虜にしないのは、捕虜を「養う」力が日本軍にはなかったからです。
『戦陣訓』はこの時点ではまだ配布されていませんが「生きて虜囚の辱めを受くることなかれ」という「精神」は日本軍将兵のあいだに行きわたっていた。それを「敵」にも投影したという面もあったでしょう。
しかし、なによりの理由は捕虜を収容して食わすだけの経済的余裕がなかったことです。
捕虜にしないで、では、どうするのか?
投降してくる者であろうがなかろうが、ひとしなみに消してしまう、つまり殺してしまう。
これが当時の日本軍の「鉄則」だった。
もういちど言います。
みなごろしは軍事行動の一環だった。
一部の将兵の個人的逸脱行動などではない。
むろん、一部に個人的行為としか言いようのないふるまいをした者がいたことは事実でしょうが。
個人が、個人的動機によって、個人を殺すのと、南京で旧日本軍将兵が大勢の中国人を殺したのとでは、行動の質において、決定的なちがいがあります。
俗に言われるように、この社会でひとを殺せば刑法上の罪になる。しかし、戦場では、どれほど多数の人間を殺戮しようが罪にはらないどころか英雄として賞讃されるのです。
補足をひとつ。
何人以上殺せば虐殺と言える、何人以下ならそうは言えない、などというギロンをおおまじめにするひとたちがいます。
現に、「南京大虐殺」など幻だ、存在しないと主張するひとびとは、死者の人数をしきりに「値切る」傾向がある。
なんとかして低く見つもって、死んだのはこれこれこれくらいでしかなかった、これではとても「虐殺」とまでは言えないのではないか、と言いたいのですね。
日本国以外の国々でなんと呼ばれているのかを知っておくのもわるくないでしょう。
英語以外でなんと言われているかをあげても衒学的と思われるだけでしょうから、英語表現だけにとどめます。
「Nanking Atrocities」というのがもっとも一般的な表現です。「Nanking」は「Nanjing」
と表記されることもある。中国語の発音をなぞっているのだから表記が相違してもあたりまえ。
「atrocity」とは「極悪・残虐な行為」を意味する語です。「兇行」と訳されることもある。注意していただきたいのは「Atrocities」と複数形がつかわれていることです。
「Nanking Massacre」という表現もあります。これはもともとはフランス語で「大量の虐殺・殺戮」を意味します。
「The Rape of Nanking」という表現もあります。「rape」とは、もともと「力ずくで奪う」「強奪する」ことを意味する語で「強奪」「略奪」などと訳されます。そこから女性に対する「性的暴行」という意味が派生している。この表現が定冠詞つきで用いられているのも象徴的です。
これらのどの表現をとってみても、「南京事件」といったごまかしの表現などとは縁がありません。
名指すべきことを正確に名指す。これが出発点でなければならないでしょう。
もはや言うまでもないことではありますが、
たったひとりを殺したとしても、
ひとがひとを殺したことにかわりはないし、
おもいなやみながら殺そうが、
平然と殺そうが、
殺されたほうにとってはおなじことです。
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〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study447:120308〕
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