安保反対の「6・15」を忘れまい -声なき声の会が記念集会の存続を確認-
- 2012年 6月 22日
- 時代をみる
- 60年安保岩垂 弘
52年前の反安保闘争の中で生まれた反戦市民グループ「声なき声の会」による恒例の「6・15集会」が、6月15日夜、東京・池袋の豊島区勤労福祉会館で開かれた。毎年、さまざまなテーマで話し合ってきた「6・15集会」だが、今年、議論の的となったのは「これからもこの集会を続けるかどうか」。結局、参加者たちは、参加希望者がある限り、これからも日米安保条約反対を掲げたこの集会を続けてゆくことを申し合わせた。
日米安保条約が結ばれたのは1951年だが、57年に発足した岸信介・自民党内閣は条約改定を急ぎ、日米両政府間で調印された条約改定案(新安保条約)の承認案件を60年に国会に上程した。社会党(社民党の前身)、総評(労働組合のナショナルセンター)、平和団体などによって結成された安保改定阻止国民会議が「改定で日本が戦争に巻き込まれる危険性が増す」と改定阻止の運動を起こす。これに対し、自民党は5月19日、衆院本会議で承認案件を強行採決。これに抗議して全国各地から集まった大規模なデモ隊が連日、国会周辺に押しかけた。
デモの中心は労組員と学生だったが、千葉県柏市の画家、小林トミさん(当時30歳)らが「普通のおばさんも気軽に参加できるデモを」と思い立ち、6月4日、小林さんら2人が「誰デモ入れる声なき声の会 皆さんおはいり下さい」と書いた横幕を掲げ、国会に近い虎ノ門から国会に向けて歩き出した。
横幕に「声なき声の会」と書いたのは、岸首相が抗議デモに対し「私は『声なき声』にも耳を傾けなければならぬと思う。いまのは『声ある声』だけだ」と述べたからだった。
沿道にいた市民が次々とデモに入ってきて、解散時には300人以上にふくれあがっていた。小林さんらが提唱した安保反対デモはその後も続けられ、参加者は毎回、500人から600人にのぼり、この人たちによって「声なき声の会」が結成された。無党派市民による反戦グループの誕生だった。
6月15日には、全学連主流派の学生たちが国会南門から国会構内に突入、これを阻止しようとした警官隊と衝突、混乱の中で東大生の樺美智子(かんば・みちこ)さんが死亡した。抗議の声が国会を包む中、新安保条約は6月19日に自然承認となった。
翌61年の6月15日、小林さんは国会南門を訪れた。前年、そこは樺さんの死を悼む人々とおびただしい花束で埋まっていたが、それから1年後は閑散としていた。「日本人はなんと熱しやすく冷めやすいことか」と衝撃を受けた小林さんは「日米安保条約に反対する運動があったことと、その中で死んだ樺さんを忘れまい」と誓い、毎年6月15日には、声なき声の会の有志とともに花束を携えて国会南門を訪れるようになった。
その後も、この日を記念する、声なき声の会主催の6・15集会と国会南門での献花は1年も欠かさずに続けられてきた。2003年に小林さんが病死してからは、柳下弘壽さん(横浜市)が世話人となって続いてきた。
52回目となった今年の集会の参加者は約30人。神戸や大阪からやって来た人もいた。初参加は2人。
この集会は、出席者の全員が自由に発言するというやり方をずっと踏襲しており、何事かを多数決で決めるということはしない。今年は、柳下さんの「声なき声の会がスタートしたころからこの集会に参加してきた方の多くはすでに亡くなられるか、高齢と病気のために集会に参加できなくなった。小林トミさん亡き後、私がこの10年、連絡係をやってきたが、この間二度も病気をし、年もとったので、会場を確保したり、案内状を出すなどの作業が困難になった。きょうは、この集会を今後どうするか皆さんの意見を聞きたい」との発言を受けて、6・15集会をこれからも続けるかどうか話し合った。
参加者全員が意見を述べたが、「もうやめよう」という意見はなく、全員が「ぜひ続けてほしい」「参加者がいる限り続けよう」、あるいは「集会の開催が無理なら、希望者による国会南門での献花だけは続けよう」といった意見だった。そして、存続を願う理由を口々に語ったが、ある男性は「60年安保闘争から50周年の2010年には、それを記念する催しがいくつかあったが、その後はなく、いまや60年安保闘争を記念する催しといえばこの6・15集会だけ。それだけに極めて貴重な催しだ。ぜひこれからも続けたい」と述べた。
また、東京都目黒区からきたという初参加の女性は「樺美智子さんの追悼をやっている集会があることを知って、参加したいと思っていた。6・15の時は高校1年生。50人ぐらいの高校生で毎日、デモに行った。樺さんの死を知りショックを受けた。政府はこれで安保をやめてくれるなと思った。が、すんなり通ってしまい、政治の冷酷さを知った。あのころは、世の中をよくしてゆこうという希望があった。しかし、今は、弱い人を抑え込むような世の中。この集会をやめてはいけないと思う。52年前、国会構内で女子学生がどうして死んだかを伝えてゆかねば」と話した。
さらに、板橋区からきたという初参加の男性は「60年安保の時は高校2年生。6・15には国会へ行かなかったが、翌日の樺さん追悼集会には参加した。その後、学生、労働者にあのころの情熱がなくなって残念。そのせいか、君が代の口ぱくを監視するようなひどい世の中になってしまった。そればかりでない。憲法9条をなくそうという動きがあるし、沖縄の米軍普天間基地もそのまま。それに消費増税。6・15集会はぜひ続けてほしい」と発言した。
埼玉県狭山市からきた定連の男性は、こう述べた。「この集会には毎年ずっと参加してきたが、なぜそんなことを続けてきたのか。それは、自分が1年間考えてきたことがサビついたかどうかを点検するためだった。集会に参加することが、サビ落としをする意味をもっていた。60年安保の闘いは学生が主力だった。学生が、ヤマ場を切り開いて行った」。
元大学教授(社会思想史)は「原爆と原発は一体である。原発をやめるからには日米安保条約もやめなくてはならない」と訴えた。
最後に、声なき声の会の古くからのメンバーである細田伸昭さん(東京都)が、1983年ころにも声なき声の会内で、その解散をめぐって論議があったことを紹介した。
細田さんによるとその時、小林トミさんが「市民運動というのは他から強制されてやるものでなく、やりたい人がやるものだから、1人でも参加者があれば続けてゆけばいいのであって、いわば、最後は野垂れ死にでいいと思う。私は続ける」といった意味の発言をし、同会の存続が決まったという。細田さんの発言は参加者の胸を打ったようだった。
今後の世話人は、細田さんが引き受けた。
集会後、参加者たちは国会南門を訪れ、そこに花束を供え、故樺美智子さんを偲んで黙とうした。
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