「尾崎秀実の関東軍司令部爆破計画」は実在したか (第三回)
- 2012年 8月 6日
- スタディルーム
- 「関東軍司令部爆破計画」尾崎秀実渡部富哉
─小林英夫・福井紳一著『満鉄調査部事件の真相』に反論する─
(http://chikyuza.net/archives/25067 より続く)
7)満鉄調査部事件で検挙された石堂清倫は証言する
ゾルゲ事件やコミンテルン史に詳しい石堂清倫は満鉄調査部事件で検挙され、憲兵隊の取調べで小泉はほか被疑者と同様に「手記」を書かされた。その詳細を『わが異端の昭和史』(上)(平凡社新書)に書き残している。彼の証言はそのまま小林英夫氏が提起している6項目の問題点の回答になるので以下要約して紹介する。
1943年7月17日、石堂清倫は憲兵隊に検挙される。第1次検挙は調査に参加した者が含まれていたが、私はどの調査にも参加していなかったから憲兵隊も捕まえることが出来なかったのだろう。第1次検挙は調査の神経系統を根こそぎしたから、残りの業務も全体が麻痺した。発智善次郎がおろおろしながら私に取りすがった。押川(一郎)から検挙の内報を聞かされ、生きた心地もしないようだった。数日後私も検挙された。一緒に検挙された者は合計9名。うち東大新人会に在籍した者は4名、予審中に死亡した者2名、不起訴で釈放された者4名。裁判にまわされた者3名。
憲兵隊が検挙を予告する筈はない。ことによると、調査部が憲兵隊に9名を引き渡したのであろう。でなければ発智に因果を含めるわけはないのである。
鈴江言一の突然の訪問をうけた。鈴江は憲兵隊から釈放されてまっすぐに私のところにやってきた。憲兵隊の計画は遠大でもっと拡大しそうだという。
図書館への第2の訪問者は安斎庫治であった。憲兵隊での取り調べは峻烈を極めたが、事実無根であることを主張してやっと釈放されたのだという。彼は任地包頭に帰って行った。この事件は一切が架空であるから、全員が安斎のように、または彼以上に頑強に抗弁したに相違ない。(注、安斎庫治の釈放について、石堂清倫はこれとは別に安斎が軍の特務機関の仕事に関わっていた五原作戦の関与についての情報を私に書き残している。)
行き先は本渓湖憲兵隊分遣隊である。食事は兵隊食であった。新京から藤本准尉がやってきた。次に奉天憲兵隊に連れて行かれた。処遇は一変した。さらに南新京憲兵分隊へ移送され、さらに新京憲兵隊本部に移された。ここで本格的な訊問が始まった。担当は板倉軍曹。この事件では事実の究明は必要がなかった。事実がどうのということ自体が無反省の証拠なのである。はじめのうち、私は安斎ではないが頑強に抗弁した。誰しも初めはそうなのだ。そのうちに真の「日本人」の心に立ち返り、憲兵隊とともに過去を清算することになる。憲兵はどなったり、テーブルを叩いたりはするが、不思議なことに絶対に暴力はふるわない。残酷をもって鳴る関東軍憲兵隊が、われわれに兵食をたべさせるだけでなく、手を下ださない。
軍司令官の梅津美治郎大将が満鉄社員検挙を決済するときに、勾留中兵食を給すること、取調べに当たっては暴力を行使しないことを条件にしたことを彼は(成田政次関東軍司令官秘書課長)は教えてくれた(306頁)。
そのうち板倉は私宛の何通かの手紙を渡した。1通は大上末広のもの、原稿用紙にして50~60枚はあった。彼はすばらしい記憶力をもっていて、私がすっかり忘れていた事を細かに叙述している。たとえば「中学3年のとき、君は反軍演説をしている。14~15歳のときから不逞思想を抱いていたことを反省すべきではなかろうか。(中略)
満鉄入社の経緯については、自分は調査部赤化の目的で入社を勧告したのであり、君はそのことを充分に了解して大連にきたはずではないか。進入社員の教育のために、共産主義者山田勝次郎の『米と繭の生産構造』をテキストにし、その講義を君が担当することを約束したではないか。そうした一切を頑なに否定していると聞いたが、その事自体が君が共産主義思想戦線の一分野を死守していることを意味する。陛下の赤子に立ち返るため、勇気をもって一切を告白し、清算し、おくればせながら聖戦の一兵士として立ち直るほかに君の前途はない。ここに至るまでの責任の一半が自分にあることを認めるがゆえにこそ、君の反省を求めて一文を呈する」というものであった。
いま一通は佐藤晴生からのものであった。彼が私のところで食事や入浴をし、孝子が兄のようにしたって、ほとんど家族の一員であった。だから大上とはちがって、安心して内々の話もしている。佐藤はそれを詳しく持ち出し、一貫して共産主義者として、部内の赤化のために努力した事実の証明にしていることには閉口した。日本の対中軍事行動が失敗するだろうとか、中国の民族解放運動の指導力が国民党から共産党に移りつつあるとか言ったことは事実である。いろいろの事実を並べ立てて、彼はこう結んでいた。あれほど愛し親しんでもらった奥さんやお嬢さんのことを思うと、情において忍びないものがある。しかし国家非常の秋、大義親を滅すの思いで、大兄の反省を切に願う。大志一番、自分を導いて新しい生涯に進んでほしい」。
この他にも私宛の手紙はあった。これらの手紙に書いてあることは、事実とは関係がなかった。しかしそこには共通の態度があった。最初は誰しも憲兵隊の告発に反対し、抵抗した。しかし、それは全く無力であった。憲兵隊は何がなんでも満州革命への意識的参加の事実があったことにしている。もはやこれに逆らっても釈放されるとか、罪が軽くなる見込みはない。逆にそれは罪を重くするだけである。重刑をまぬがれようとするなら、憲兵隊の言う通りの事実を認めるか、あるいはそれを上回る事実をみずから作り上げそれが日本国家に対する反逆であることを完全に承認し、その上で大幅な悔悟反省の新しい境地にたっしたことを断言するしかない。
そのためにはそこにまでの自己の精神の根本的浄化過程を力説し、自己を告発するのは当然のことであっても、それだけでは不足であり、進んで同僚友人の告発、いわば自己告発と相互告発の強化がただひとつ残された道である。このことが以心伝心で全員に了解されたのであろう。
そこである人は、欧州事務所でコミンテルンに近づこうとしたり、紐育事務所でアメリカ共産党に加入したことを「自発的に」告発する。思いがけない新事実に憲兵隊は色めいたが、それがあまりに上出来で、憲兵自身がこれでは信憑性がないときめ、拘禁性ノイローゼとして釈放するという喜劇もあった。
板倉軍曹は誰かの作文にもとづいて訊問するのであるが、書いてあることを理解しているとは見受けられなかった。たとえば2段階革命についてそれ以上詳しいことは知らされていなかったと見える。調査部員のうち中国人の友人をもっている者がいくらもいない現状で、どうして中国人と共に2段の革命がやれるのか。私は軍曹を困らせてやろうと思うつもりはすこしもない。ただ調書が一貫しなくなる。そこで軍曹と「協力」のうえ私の調書は次のような趣旨のものになった。私は過去に革命思想をもっていた。しかしそれを根絶するために努力した証拠はない。つまり社会主義への自然の転向を温存してあった。したがって、私の1つ1つの行動は自然に革命を志向することになる」。
石堂清倫は自らの体験をこのように書き残している。これが小泉吉雄と同じ新京憲兵隊本部で体験をした者の証言であり、小泉に対するさまざまな憶測や疑問に対する回答として好例の証言ではないだろうか。
もう一つの証言を紹介する。合作社者事件に関連して逮捕された鈴木や山村は、憲兵から『おまえら、うまくいって無期懲役、ふつうで死刑だぞ』と脅かされ、全員がしまいには発狂状態になって、口からでまかせに『満鉄調査部内における赤色分子の摘発リスト』をつくり、さらに罪を軽減してもらえると思ったのか、『日満支同時革命計画』とか、『パリとニューヨークの事務所はコミンテルンとの接触機関である』とか、憲兵のほうが錯乱するような絵空事を並べ始めた。結局、彼らは『精神分裂症』と認定され、釈放された。(『実録・満鉄調査部』(下)336頁)。
同事件で逮捕された三輪武によると、「関特演のときに関東軍司令部を爆破するという計画を、調査部の業務担担当者会議のあとで和尚山へ行って、共同謀議をしたというように取調で追及されたことがありましたが、こんな計画などどこにもなくて、まるで荒唐無稽なものでした。(『満鉄調査部─関係者の証言』報告者・山口寛一)
これらの証言を見ると、小泉だけが拘禁性ノイローゼになったわけではないことがわかる。
8)内地から派遣された検事はゾルゲ事件の捜査を指揮した玉沢光三郎だった
『在満日系共産主義運動』によると、「第3章 検察庁に於ける処理状況」、
1)今次事件に対する検察庁の態度として、「満州事変以降に於ける在満日系共産運動事件としては、所謂1・28工作(注、合作社事件)が満州思想警察上に現れた具体的事件であった。従ってこの種運動に対する満州国思想検察陣は完備しているとは言い得ない状態であった。これには種々の原因があったと思われるが、その一因は最近まで在満日系共産主義運動が具体的事件として当局の指弾を受けなかったことに因るとみられる。
昭和16年11月所謂1・28工作検挙(注、満州合作社事件)以来、司法当局に於いては事犯の重要性に鑑み、急遽思想検察陣の強化を意図し、国内思想検察官を動員して事件に対処すると共に、日本内地より専掌検事の出向を求め、陣容の整備強化を期し以て非常時局下此の種運動に対し断乎剔抉方針を以て臨むこととなった。
かくて昭和18年5月より専掌検察官3名増強せられ検察官、憲兵一体となり、相互密接なる連繋の下に終始円滑に事件処理に当たった(同書610ページ)。
2)処理状況。昭和17年12月26日以降、昭和18年12月27日の間、総計40名の事件関係者を受理せる新京高等検察庁は専掌検察官3名を以て鋭意審理を進めているが、1・28工作関係者の残存処理と所在地監獄に於ける未決監房の収容制限、その他施設の不備諸種の事情の為、未だ全面的に審理の終結を見るに至っていないが現在までの理状況を示せば左の如くである。(以下、40名の氏名、処理年月日、処理状況(適用法条、起訴不起訴、摘要、が書かれている。文字の強調及び下線は筆者による)
『在満日系共産主義運動』によると、「国内思想検察官を動員して」「専掌検察官3名増強せられ検察官、憲兵一体となり、相互密接なる連繋の下に終始円滑に事件処理に当たった」という。
この数行の記述は小林英夫・福井紳一著の「小泉手記」の6項目の問題点の真相に迫る重要な記述であり、満鉄調査部事件の真相に迫る記述でもあるが、これまでゾルゲ事件研究者はこれが『在満日系共産主義運動』に関する資料だから、ここまで調査が及ばなかった。3人の内地から動員された「専掌検察官」「思想検事」とは一体誰のことだろうか。
「専掌」とは文字通り、「もっぱらつかさどる」という意味だが、この3人の内地から動員された思想検事が「専掌」した事件とは実は「ゾルゲ事件」であり、それを摘発し取調べを担当した検事のことだったのである。3人のうちすでに岡嵜格と吉岡述直については書いた。残る一人は一体誰か。石堂清倫は次のように証言している。
2度目の運動のときは中年の朝鮮の牧師が憲兵隊に呼び出され、キリストと天皇のどちらを上位におくかと訊問された。日本の牧師はそろって天皇が上だと答えて、事もなく帰宅を許されたが、朝鮮の牧師は一人残らず、キリストは精神界の主であり、天皇は俗会の主だと答え、それでこのように治安維持法違反の罪に問われたのだと語った。
日本内地でも検事局が牧師の訊問をやったが、灯台社を唯一の例外として、みんな天皇をキリストの上におくことで「罪」をまぬがれた。という話もある。そのとき腕を振るった検事を関東軍に召集して満鉄事件を担当させたそうである(『わが異端の昭和史』316頁)。
当局が宗教弾圧に使った手練手管は灯台社に限らなかった。曼陀羅の一番上に描かれている大日如来と天皇のどちらが上に位置するのか、と信者に回答を迫った。戦後、府中の予防拘禁所から解放された徳田、志賀らに交じって、天理教の別派の人たちもいた。
恐らくこのあくどいやり口は検事局がリトマス試験紙を作成し、宗教弾圧の武器にしたのだろう。その宗教弾圧に辣腕を振るった思想検事こそ満州調査部事件の応援として憲兵隊の要請で、内地から派遣された専掌検察官だというのだ。残りの一人の確定はこの事件を担当した思想検事を調査すれば確定できる。
やがて残るあと一人の専掌検察官が判明した。なんと驚くなかれその検察官こそゾルゲ事件捜査の最高責任者の一人で、その半年前に起こった企画院事件の摘発をした主任検事としても著名な人物で、尾崎秀実の検挙、取調べや西園寺公一の取調べを担当した玉沢光三郎検事だったのである。以下、玉沢光三郎の経歴を記す。彼は昭和4年に司法試験に合格し、翌5年に東大を卒業した。昭和8年、京都、東京の区裁判所の検事をつとめ、のち東京地裁検事となり、警視庁特高を従えて、ゾルゲ事件捜査指揮を担当し、満州国最高検察官司法部刑事局思想課長として派遣され、東京地裁検事刑事局思想課長を歴任した。戦後、1952年に札幌で起こった白鳥事件の最高裁判所の審理では最高検察庁検事として登場している。
玉沢光三郎検事は尾崎秀実に対する訊問の前に、西園寺公一の検事訊問を1942年3月16日から31日にかけて4回にわたって行い、次いで尾崎秀実の「検事訊問調書」は、高橋与助警部の第19回「警察訊問調書」のあと、第20回、1942年3月5日から第28回、1942年5月8日まで行われている。前述の吉岡述直検事の宮城与徳の場合と時期はほぼ同じであるから、満州派遣の年月は、『在満日系共産主義運動』の記述に照らせば、「昭和18年5月より専掌検察官3名増強せられ」とあるから、3人は同時期に満州新京高等検察庁に派遣されたのであろう。
関東憲兵隊の証拠書類や「手記」や供述が専掌検察官によって洗い直されたことはいうまでもないし、満州の実質支配者である関東憲兵隊や関東軍の最高幹部の諒解の上におこなわれたことは間違いない。いくら内地から派遣されたとはいえ、彼らを無視して独走することなど東條英機憲兵政治下で、内務官僚ができるはずはないだろう。
裁判長飯守重任と満州の治安体制
満鉄調査部事件を担当した裁判官は飯守重任だった。戦前の裁判官で戦後、戦争責任について自己批判を公表した者は極めて少ない。その数少ない裁判官の自己批判として記録に残る飯守の反省の書(「記録に残る」とは、後にこれは本心ではないと撤回したからだ)を見てみよう。
「僕は偽満(満州国)で残酷極まる植民地統治に対して、敢然と起って抗争した勇敢なる愛国中国人民に対して、過酷極まる血の弾圧を以て酬いたのだ。僕が1941年偽中央司法部参事官のとき、かかる抗日愛国の士に対して死刑その他、重刑を以て望んだところのいわゆる『治安維持法』の立法者の一人となった。僕は何と抗日愛国の中国人民を徹底的に弾圧することが正しい処置であると考えていたのだ。
この法律を立法することによって僕はいわゆる熱河粛清工作に於いてのみでも、中国人民解放軍に協力した愛国人民を1700名も死刑に処し、約2600名の愛国人民を無期懲役その他の重刑に処している。僕の立法した『治安維持法』の条文は愛国中国人民の鮮血にまみれている。この法律によって愛国中国人民は約1万数千名も逮捕された。この法律が被害者の家族、親戚、知人に及ぼした間接の破壊的影響及び一般中国人に及ぼした心理的圧迫は測り知れない深刻なものがある」(青木英五郎『裁判官の戦争責任』日本評論新社)
「この告白中の『1万数千名』という数値が過大とも言えないことは、『満州国』警務総局特務編野『特務彙報』第4号所収の43年1月から3月までの『特高関係主なる検挙一覧表(共産党関係)』だけで、8800名となっていることからもわかる。そのなかには、『第一次基号作戦期間における中共党政匪関係者検挙』1655人、(承徳憲兵隊)、『承徳、青龍、興隆県、喀中旗地区中共党政匪関係者検挙』5043人という」(荻野不二夫『解説 治安維持法成立・「改正」史』)
合作社事件や満鉄調査部事件は満州全体の治安体制からすれば、それはほんのひとつまみのものにすぎなかったが、日本人社会への影響はゆるがせにはできなかったのであろう。
9)満鉄事件は反国家的行動が計画されたわけではなかった
戦後関東憲兵隊の戦友会の記録は痛苦な記述をのこしている
これが憲兵隊のでっちあげだったことは何よりも当該の憲兵隊自身が認めている。筆者は「楊国光著『ゾルゲ上海に潜入ス』に異議あり」の執筆中、中共諜報団事件で検挙された中国人の釈放の経緯を調べているときに、中国の研究者からの教示により全国憲友会刊行による『日本憲兵外史』を取り寄せて読む機会を得た。1600ページを越える厖大な各地の憲兵隊の記録を網羅したものである。
合作社事件の究明のためにコピーしておいた「第2編 満州」に、「満鉄事件」の記録がある。そこには以下の通り記述されている。
「鮎川義介を総裁に特殊法人満州重工業開発株式会社が設立され、満鉄の業務が縮小された。このことはこれまでの国策企業としての満鉄の自主、独立性を奪うものとなって、満鉄が強力な国家統制の下におかれる第一歩となった。かくて関東軍の満鉄への弾圧は、また満鉄社員の反発をかって、両者の軋轢は次第に深刻な様相を呈してきた。
満鉄事件は、関東軍司令部幕僚の陰謀に近い弾圧と見られる理由がここにあった。残念なことに、この事件の直接の担当者とみられる当時の関東軍憲兵隊司令部や新京憲兵隊本部特高の憲兵の多くが故人となり、確認できないので、憲兵隊の反論や調査事実を明かにできないが、結論を言えば、憲兵隊が功をあせって、無理した向きも見られないではないが、やはり関東軍司令部の命令によって動かされたことになるだろう。(中略)
満鉄事件は現実に反戦、反国家的行動が計画されたり、行われたわけではない。またその証拠もない。捜査、審議の対照となったのは、あくまで容疑者の思想動向であった。したがって、最後には容疑者に国家への忠誠を誓わせ40名が検察庁へ送られ、5名が1年以上5年までの有期刑で執行猶予付となった。
憲兵隊が容疑者を長期間拘留して手記を書かせ、相互告発の方法を使ったとの非難はあるが、さすがに拷問の行われなかったのは幸いであった。結論を言えば、満州国治安維持法を利用した関東軍の満鉄弾圧であった」(454頁)と書かれている。
石堂清倫によれば、「5月1日に新京の法院で判決があった。全員が執行猶予月の徒刑であった。ここでわかったことは、被告の大半が単独犯として処理され、結社関係で処理されたのは、野間清、渡辺雄二、三輪武、石田七郎など業務係責任者だけであった。共産党事件といいながら大部分の者には組織がなかったことになる。経済調査会以来の理論的中心の大上でさえ単独犯である。結局のところ、生じた事実に対してではなく、まだ生じていない可能性にたいして処罰した奇妙な事件であった」(「わが異端の昭和史」上・326頁)
「容疑者に国家への忠誠を誓わせて執行猶予となった」という記述は小泉の「回想録」(70頁)と全く同じであり、「小泉と共に関東軍司令部爆破を計画したとされる渡辺雄二もほかのメンバーも起訴猶予となったり、執行猶予付の判決を受けている。だが「石堂清倫、渡辺雄二、石田七郎の3人は釈放と同時に軍に召集された。渡辺は興安嶺山脈でソ連軍と抗戦中に戦死した」(『実録・満鉄調査部』337頁)。
石田はソ連領内に拉致されてのち死亡したと伝えられる」(田中武夫『橘撲と佐藤大四郎』352頁)同じ境遇に突き落とされた石堂清倫は当時、匍匐前進もままならぬ41歳の老兵だった。彼の奇跡の生還劇については『わが異端の昭和史』に詳しい。
渡辺雄二と石田七郎と石堂倫の3人だけになぜ「懲罰召集」にかけられたのか。石堂が「老兵」だったというなら、渡辺雄二も同じだろう。渡辺が逮捕されたときの年齢は「当36年」とあるから、応召時の年齢は37歳ということになる。
「小泉手記」にある。「尾崎秀実の関東軍爆破計画」に同調する証言を拒否したからではないだろうか。渡辺にしてみれば「小泉手記」の裏付証言をすれば、死刑はまぬがれなかっただろう。石田が「小泉証言」に反論したことは小泉の「回想」にある。
小林氏は「回想」が「小林手記」の内容に及んでいないと書いている。これらの事情を考えるとあまりにも痛ましい悲劇をもたらした遠因が「小林手記」にあることを思うと、釈明することもできなかったのではないだろうか。「容疑者に国家への忠誠を誓わせて執行猶予となった」という記述は小泉の「回想録」(70頁)と全くおなじであり、「小泉と共に関東軍司令部爆破を計画したとされるメンバーも起訴猶予になっている。この事実を、小林たちの著作は説明することができない」とする松村氏の小林氏への批判は、戦後、憲兵隊自身の手による『日本憲兵外史』でさえ否定しきることはできなかった。「正史」ではないから「十分に裏付けられている」とまではいかないまでも傍証にはなるだろう。
小林英夫氏が重ねて引用している関東憲兵隊司令部『在満日系共産主義運動』(極東研究所出版会)の引用も、こうした憲兵隊内部の自戒の記述に充分意を用いるべきで、裏付けがないままの使用は禁物であろう。
以上で小林英夫・福井紳一著『満鉄調査部事件の真相』と『満鉄調査部の軌跡』の「尾崎秀実の関東軍司令部爆破計画」についての反論を終わりたい。
語り尽くせなかったのは「中核体」「ケルン」の問題である。なぜ憲兵隊は「中核体」にこだわり続けたのか。満州国の治安維持法は「団体結成罪」であって、個人の思想を罰するものではない。「合作社事件」のうち中心的な役割を果たした佐藤大四郎が懲役12年だったのに比べて、情野義秀、進藤甚四郎、田中治、井上林、岩間義人ら5名に下った「無期懲役」はあまりにも過酷で、満鉄事件にもその例をみないものになっている。法の下に於ける公平さを著しく欠いているが、その両者の量刑の差は情野らが「中核体」を結成したとでっちあげられたことが原因になっている。
関東憲兵隊が「中核体」「ケルン」にこだわるのはそうした理由によるが、「ケルン」の名称が、在満日本人の共産主義運動事件に登場するのはかなり古く、1928年の「ケルン協議会事件」(18人が検挙された)以来のことだ。
幸いなことに井上林、進藤甚四郎らは生命を全うして日本帝国主義の敗戦を迎え、それぞれ戦後、民主主義革命の陣営で活動することができた。
この点については「合作社事件関係資料」(不二出版)がある。一読を薦めたい。小林氏は「企画院事件」について多くのページを割いているが、これは当局発表の表の顔にすぎない。真相は裏の顔にある。時間がなくて報告出来なかったが、本日来聴の研究者のために「和田耕作氏の聞き書」は資料に掲載しましたし、ネット情報で検索すれば容易に読むことができる。長時間の聴講有り難うございました。
《補遺》
不可解な「論戦『満州国』・満鉄調査部事件」の論点
小林英夫・福井紳一著『満鉄調査部事件の真相』につづいて小林英夫氏は『真相』を加筆修正した『満鉄調査部の軌跡』刊行し、一方、松村高夫、柳沢遊、江田憲治編による『満鉄の調査と研究─その「神話」と実像』が出版された経緯は冒頭に書いた。それにもとづいて筆者は反論してきた。ところが本報告をする直前に、刊行されたばかりの小林英夫・福井紳一共著『論戦「満州国」・満鉄調査部事件─学問的論争の深まりを期して』のうち、関連する部分だけ大急ぎで目を通した。なにしろ講演依頼から3週間の余裕しかなかったので厳密な検討は後回しにして、「レジュメ」と資料の作成に追われた。読み直したのは講演が終わってからのことだ。
「論戦『満州国』・満鉄調査部事件」の論旨は何とも不可解であり、許しがたい研究者にあるまじき卑劣な著作だ。小林英夫・福井紳一は「7関東軍司令部爆破計画とフレーム・アップ」として、それは満鉄調査部から関東軍に軍属として派遣されていた小泉吉雄が『関東軍司令部爆破計画』について触れて供述した部分である。私たちが論じた当該箇所をもう一度確認すれば、小泉吉雄の供述とは、調査部員の渡辺雄二から、日ソ戦争勃発防止のための反戦活動を行うことを打ち明けられた時に、関東軍司令部に爆弾を仕掛け、政府関係者との連絡役の任務を果たすと約束したというものである。この小泉の荒唐無稽な供述を、もし関東憲兵隊が自前でおこなった捏造と見なすならば、そこに生じる不自然さを否めない。なぜならば、関東憲兵隊のフレーム・アップのシナリオのストーリーにしては、関東軍にも不利をもたらす結果となるからだ。私たちは、この供述は、取調べの中で混乱した小泉が、自発的に虚偽の供述を行った可能性は大きくとも、関東軍幹部の管理責任にも及ぶ恐れがあるので、関東憲兵隊が強いて被疑者たちに語らせた一連の『捏造』の類とは性格を異にするのではないか、と考えた。それ故小泉供述の不自然さについて、小林・福井は、『この供述が公判で述べられたとしたら関東軍の中枢の軍人たちの責任問題に発展する事態は不可避だからである。
この供述は『捏造』とは考えにくく、関東憲兵隊にとっても、大きな衝撃となったことは間違いないであろう』と書いたのである。それは前述したように、関東憲兵隊が強いて被疑者に語らせた一連の『捏造』の類とは性格を異にするものであるという意味であり、『事実』であるという意味では全くない。『捏造』でないことは『事実』であるということを必ずしも意味しない、ということは論理的に明確なことである。さらには、この時、小泉が錯乱していたと本人が語る、戦後の小泉の回想録も紹介・引用して誤解が生じないように配慮したはずである。その上で、『供述が真実か否かは、いまもって定かではない』と表現したのであり『事実』と言ったことは一度もない。
それにもかかわらず、松村高夫氏はある意図を持って、『この供述が公判で述べられたとしたら、関東軍の中枢の軍人たちの責任問題に発展する事態は不可避だからである』という、小林・福井の文章における重要な部分をわざとカットして引用し、読者の目を覆った。そして小林・福井が、『関東軍司令部爆破計画』について、あたかも『事実』であると主張するかのように、『満鉄調査部事件の真相』を未読の人びとに誤解させることを図った」(70~71ページ)と書いている。
要するに小林氏が言いたいことは「供述が真実か否かは、今もって定かではないと表現したのであって、『事実』と言ったことなどは一度もない」「松村氏は小林・福井の文章における重要な部分をわざとカットして引用し、読者の目を覆い、小林・福井が『関東軍司令部爆破計画』について、あたかも『事実』であると主張しているかのように、『真相』を未読の人々に誤解させることを図った」と言うのだ。
小林英夫・福井紳一氏を卑劣だと言うのはこのことを指すのだ。冗談もいい加減にしろといいたい。「『捏造』でないことは『事実』であるということを必ずしも意味しない、ということは論理的に明確なことである」とは何という言う卑怯な誤魔化しか。高い代金を支払って講読した読者を冒涜するものではないか。両氏は、これまでマスコミを通じて宣伝し、著作を何回も発表して、世間の話題にしてきたではないか。それを、このような詭弁を使って誤魔化すつもりなのか。このやり方は、小林・福井と松村・江田の両者の「論戦」の域を遥かに越えている。
われわれは伊藤律の名誉回復とゾルゲ事件研究に20数年も賭けてきた。その真相を求めて筆者は5回もモスクワを訪れ、研究者たちと討論を交わし、資料交換をすすめ、6回に及ぶ国際シンポジウムを重ね、会報「ゾルゲ事件関係外国語文献翻訳集」は季刊で、すでに31号を数える。いい加減な結論を後の研究家に引き継ぐことはできないのだ。だからこそ尾崎・ゾルゲの墓参会で、尾崎秀実の『関東軍司令部爆破計画』について、会員からお叱りをうけて「小泉手記」の6項目の問題点を挙げて真剣に反論してきたのである。この小林・福井氏の文章によるとそれは茶番でしかなかったことになる。
そこではっきり小林・福井氏に回答して貰いたい。小林・福井氏は『真相』において「関東軍司令部の爆破計画はあり得る」「この供述は『捏造』とは考えにくい、憲兵隊にとっても大きな衝撃となったことは間違いない」、などと書かなかったと言うのか。繰り返してもう一度引用する。
「これが事実なら、事は重大である。尾崎─渡辺─小泉とつながる線で『ケルン』は見事にコミンテルンの活動の一環につながることになる。したがって憲兵隊は必死になってその証拠固めに熱を入れた」(『軌跡』288頁)。
「これは重大な供述であり、憲兵が描いた『ストーリー』に乗って語ったものと考えるには、ことは重大過ぎて、やや不自然な感を持つ。なぜならば、もし、この供述が公判で述べられたとしたら、関東軍の中枢の軍人たちの責任問題に発展する事態は不可避だからである。この供述は『捏造』とは考えにくく、関東憲兵隊にとっても、大きな衝撃となったことは間違いないであろう」(『真相』209頁)。
「尾崎がヘッドになって、満鉄調査部員をコミンテルン幹部に密会させ、日ソ戦が勃発し、満州が戦場となった場合には関東軍司令部を爆破する、そして企画院のメンバーとも連絡をとり、ゾルゲとも渡りをつける。このような大計画が述べられていたのである。小泉吉雄の戦後の回想録では、この手記の記述は憲兵隊の追及と己の妄想の結果だったように記しているが、尾崎のこうした行動は、ありうる話だと思う。『東亜共同体論』の立場からすれば、尾崎がソ連、中国、日本の反戦勢力の結集を図る動きをすることは、十分可能性がありうるからである。少なくとも関東憲兵隊はその危険性を重く見たのであった」(「真相」256頁)
これらのことは書かなかったとでも言うのか。それは当然、尾崎秀実の『関東軍司令部爆破計画』を否定したものではなく、はっきり肯定したものではないか。「『事実』と言ったことなどは一度もなかった」のか。この点についてはっきりと回答してもらいたい。事はゾルゲ事件、尾崎秀実研究の神髄に関わる問題だからである。
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〔study547:120806〕
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