内村鑑三 : 日本の基督者になる――先人の営みから――(4)
- 2010年 9月 3日
- スタディルーム
- 野沢敏治
札幌に観光スポットの時計台がある。今では周りのビルに埋もれそうになっている。その2階に明治の北海道開拓時代を伝える展示室がある。そこをちょっと注意してみていると、「イエスを信ずる者の誓約」という文書を見ることができる。1876年(明治9年)に開校された札幌農学校の生徒と職員が作成したもので、キリスト教を信じ、6個の誡めを自らに課し、団体を作ることを約束したものである。日付は1877年3月5日で、7回にわたって署名が続く。署名者は全部で31人。その一つにK.Uchimura、つまり今回取りあげる内村鑑三の名がある。内村は農学校に来る前には八百万の神々を信じていたのであるが、キリスト教の唯一神に改宗したのである。
内村はどうやって基督者・内村になっていったか
前回にあげた山路愛山もクリスチャンであったが、俗界のことに関しては現実的であった。彼は日露戦争を肯定して日本の帝国主義化を認める。それに対して、内村は同じく「基督者」(一般の教会と区別して独立的であることを示すための書きかた)であったが、国際紛争の解決にさいして武器をもってする解決は暴力を根絶することにならないと考え、日露戦争に反対する。彼はその前の日清戦争については専制の中国とヨーロッパ帝国主義を打破する正義の戦争であると認めていた。しかし日本は勝った後に傲慢となり、裏切られた感じをもつ。その彼は聖書の見返しに、I for Japan ; Japan for the World ; The World for Christ ; And All for Godと書きつける人であった。そこにも窺える彼のナショナリズム批判=非戦思想は非国民扱いされる。それが評価されるようになるのはアジア・太平洋戦争で日本が連合国に負けた後である。愛山はこの内村と対照的であったが、内村の文章の面白さには感心し、それは「自己の心を以て人の心に刻む」からだと認めていた。
内村の信仰であるが、そこには独特のものがあった。最初、彼は青年の熱情にまかせて「誓約」に署名はしたのであるが、それは何度もの迷いと試練をへて、あの「接ぎ木」の考えに進化していく。そのことを『基督信徒のなぐさめ』(1893年、明治26年)と『余は如何にして基督教徒となりし乎』(1895年、明治28年)を参考にして追ってみると、こうであった。改宗後の彼は欧米を「はるかなさいわいの国」と理想化し、反対に日本を木石信仰の堕落した国と軽蔑する。よくあったキリスト教徒の態度である。これではまだ本当のキリスト信仰とは言えず、「祈り」にもなっていないのであるが、そのことは彼がアメリカに渡って実際に触れることによって痛感するようになる。その経験の数々……シカゴで入ったレストランで給仕に親切にされ停車場まで荷物を運んでくれるが、お礼を言って別れようとすると、手を出してお金を要求される。それから、洋傘を盗まれる、家々の家具は鍵だらけ、「愛」の信徒なのに黒人に対しては人種差別、そしてミッション報告のいやらしさ。アメリカはキリスト教の教えが実現している国ではなかった。そこで彼は自分を振り返ってみる。すると、気づくことがあった。
1)①日本の神々はけっして暗いものではなく、月のように清らかであり、儒教には捨ててはならない武士魂がある。②自分の信仰は外面的であって精神的でなかった。とくに②について。内村はキリスト教を豊かで自由平等の文明国の宗教だからということで信じていたのである。彼はキリスト教を信ずればアメリカのような文明国になれると思っていた。信仰は外的な印によってでなく、内的な信仰によって固められるべきなのに。こういう反省をへて彼の本当の闘いが始まる。内村は自分が異教の国の人間であることを自覚する。その異教徒がキリスト教を受け入れるには本国の人間が受け入れる以上の疑惑に取り囲まれる。キリスト教の本国の人間であれば、すぐ「愛」を口に出す。しかし日本人にはその隣人愛なるものは分からない。その分からない日本人が大変な障害を克服して回生したら、それは本国人以上に固い信に向かうことができる。それこそ異教徒の特権である。彼はその後こういうふうにしてキリスト教を自分のものにしていく。十字架上のイエスによる贖罪によって罪人のなかの罪びとであった自分が生き返るという経験。
2)内村の基督教はプロテスタントのカルヴィニズムであった。日本ではキリスト教は今日に至るまでもそうであるが、絶対少数である――韓国と異なる点。啓蒙家の福沢諭吉はキリスト教の四海同胞の考えに違和感を覚え、今の日本に必要なのは国民主義であると非難していた。でも少数派でもキリスト教は日本の思想に大きな影響を与え続けてきている。内村の基督教は日本が欧米文明と接触し、化学反応を起こした結果うまれる。それは儒教の教えや武士魂を「台木」として、それを完成させるために基督教を「接ぎ木」するというものであった。これは海老名弾正のようにキリスト教を日本に土着させるために日本化したのとは方向が違う。彼はこの考えに至りつくまでにたくさんの障害にぶつかる。
二宮金次郎は日本のピューリタンである
内村は欧米にむけて『日本及び日本人』(1894年、明治27年)を書き、日本人の善き性質を世界に知ってもらおうとした。西郷隆盛、上杉鷹山、中江藤樹、日蓮上人、それと並べて、二宮尊徳。この二宮論に注目してよいものがある。
二宮尊徳と聞いて、私たちが思い浮かべるイメージは少年期の金次郎の物語である。今でも小学校には薪を背負って本を読みつつ歩いている銅像があるだろう。それは勤勉努力の象徴である。子供に修学を勧めるには格好のものであり、いかにも教育的である。いまの若者はこの銅像を見てどう思うだろう。古臭いであろうか。……でも内村の紹介する尊徳にはやっぱり見失ってはならないものがある。前回の山路愛山の場合とは別に、ここでも倫理と経済とが関連づけられていて面白い。
内村は宗教者であるから富に対して厳しい。聖書には金持ちが天国に入るにはラクダが針の穴を通るよりも難しいという話がある。文学者の漱石も『吾輩は猫である』のなかで成り上がりの男を軽蔑しているが、内村の厳しさの比ではない。ところがよく見てみると、は内村は信仰や倫理に反する金もうけには厳しいが、信仰や倫理の結果である財産は認めている。天道の自然法則と人道の社会法則に従って得られる富は許されるのである。次のものは彼が晩年に長野県の星野温泉の主人・星野嘉助氏に書き与えた「成功の秘訣」である。
一、自己に頼るべし、他人に頼るべからず。
一、本を固うすべし、然らば事業は自づから発展すべし。
一、急ぐべからず、自働車の如きも成るべく徐行すべし。
一、成功本位の米国主義に倣ふべからず、誠実本位の日本主義に則るべし。
一、濫費は罪悪なりと知るべし。
一、能く天の命に聴いて行ふべし。自ら己が運命を作らんと欲すべからず。
一、雇人は兄弟と思ふべし。客人は家族として扱ふべし。
一、誠実に由りて得たる信用は最大の財産なりと知るべし。
一、清潔、整頓、堅実を主とすべし。
一、人もし全世界を得るとも其霊魂を失はゞ何の益あらんや。人生の目的は金銭を得るに非ず、品性を完成するにあり。
ここには幾つも興味深い事項があり、内村がプロテスタントであったことに納得できるのだが、それらについては省略する。3番目などはスピードを出す車に乗せられて閉口したのであろうか。4番目と7番目は1980年代の日本的経営をめぐる議論を思い起こしてしまう。
内村は尊徳について富田高慶の『報徳記』(1880年、明治13年)と福住正兄の『二宮翁夜話』(1886年、明治19年)を参照しているので、私もそれに倣う。また『後世への最大遺物』(1894年、明治27年)も参照する。尊徳の生涯の本領は人心の荒れた貧窮の村々を更生させた仕法にあるのだが(――天下国家を論じることとは別にこういう村の再生の事業は価値があるのだが、地域振興は説かれ、欧米の実験はモデルとして盛んに勉強される今日、身近にあったことが参照されないのはいかにも淋しい)、ここではおなじみの金次郎少年の部分をとり上げる。われわれ日本人がよく知っている話であるが、内村の読み方には独自のものがある。おさらいのつもりで、『日本及び日本人』を開いてみよう。
金次郎は1787年(天明7年)に生まれ、1856年(安政3年)に没している。生は平、名は尊徳。金次郎は通称である。その金次郎は3人の男兄弟の長子であった。父は善人であって困っている者に施しをすることが多く、祖父がせっかく築いた財産をつぶしてしまう。そこへもってきて災害と重い貢租である。親はその貧苦のなかでもなんとか子供を育てる。後に尊徳はそのことを想いだして感泣するくらいであった。金次郎少年、お酒が好きな父のために働いて毎夜1合をすすめるほどの孝行息子であったが、彼が14歳のときに父は亡くなる。そのあと彼は母を助けて兄弟を養うために山に入って薪をとり、それを売って養育費に充てる。その時に彼は『大学』を声を出して読んでいた。読書が好きだったのである。百姓が本など読んで何になるという世のなかである。村人は彼を「きじるし」と思う。その彼が16歳のときに母親も亡くなる。そこで兄弟は分けられ、金次郎は隣の伯父万兵衛のもとに預けられる。この伯父はけちであったので、3年後に金次郎はそこを去っている。金次郎は昼間は伯父のために働くが、夜は『大学』を読んでいた。父祖伝来の家を再興するには文字が読めなくては駄目だと思ったからである。伯父はそれをとがめて言う。お前を養うにはお金がかかっている。お前の働きではまだ足りない。それなのに夜に貴重な油を使っている。実益にならないことをするな。そこで金次郎は考える。では独力で勉強しようと決める。川べりに「無主の地」を見つけ、そこに油菜の種をまく。それを収穫すると7,8升となる。それを市で売り、そのお金で燈油を得る。彼はそれを使ってまた夜に勉強をする。伯父はそれをまたとがめる。お前が自分で求めた油は俺の費用ではないが、本を読む時間は俺のものだ。深夜まで縄をなってわが家を助けよ。そこで金次郎、休日は自分のものであることを利用する。彼は休日に「洪水で沼地となっているところ」を干拓して稲田にする。そして「捨ててあった余りの苗」を植え、秋に一俵の米を得る。これは完全に金次郎のものである。この一俵がその後の金次郎の活動の資金となり、伯父の元を去って独立を試みていく際に役立つことになる。
以上の話で気をつけることがある。「 」にしたところである。それはあの重い貢租の時代に、何の公課もかけられず金次郎のものになったのである。菜種であり、お米である。封建時代でもこのような抜け穴があったのである。金次郎はそれを知っていたのである。彼が財産を作るには時の制度に対する知識があったからであって、すべてが勤倹力行に拠るものではない。私はこのことを奈良本辰也の『二宮尊徳』(1959年)から知った。
これに対して内村は違った読み方をする。傍点部分に注意せよ。それは日本の学校教育では教えなかったことである。金次郎は封建倫理のなかにいる。その倫理は主君に忠で親に孝であるが、彼はそれに反抗せず、それに従うことで独立を得ていく。彼は伯父から2度叱られるが、それを「道理」と受け止める。家の再興のためには他人の厄介にならず独立せねばならなかったのである。そして伯父のとがめを聞きつつ、他人の油でなく自分の油を求め、他人の時間でなく自分の時間を用いて自分の米を得ていく。その油と米は「正直なる労働の報償として「自然」から直接に受けたもの」であり、「労働の価値」を示すものとなる。人は誠実で正直な労働をすれば自然からそれ相応の報いを得ることができる。
内村は金次郎の行動に「清教徒の血」を見てしまう。初期プロテスタントの禁欲「倫理」は西ヨーロッパ近代の資本主義の「精神」となっていくのであるが、内村はそのことを先駆的に見ていたのである。
尊徳は国家批判をするのでなく、村の更生に生涯を捧げたのであるから、明治政府にとっては好都合な人物であったであろう。でも眼の前の困窮を救うことは国家の革新を考えるのと同じく、意義のあることではなかろうか。
再び「富と徳」について
内村にはそのものずばり、「富と徳」と題した論説がある。それによると次のようである。『基督信徒のなぐさめ』第5章とあわせてみる。
彼は貨幣は富ではないと言う。これは常識と異なる。普通はお金持ちが豊かな人である。では何が富なのか。富は貨幣をもって買った商品の使用価値のほうにある。その商品を個人的に使用するときにもたらす力のことである。でもそれだと、その力はお金持ちほど得られることになり、結局お金が富とならないか。内村はその起こりうる反論に対してこう弁じる。「富とは心の満足を言うなり」。すると富とは人の主観的な気分を言うのか。彼の説明はこうである。100万円の欲望を持つ人には50万円の商品では貧しいであろう。10円の欲望を持つ人には20円の商品でも豊かとなるだろう。人の貧富は相対的なものであって、心の持ちようで決まる。こうなると貨幣はどういうものか。内村にとって貨幣は生活必需品を買うための手段であって、富をため込むためのものではない。要するに蓄蔵貨幣ではない。貨幣で買う財にしても、道楽や放蕩に使われる物ではない。ところで財にはこういう使用価値もある。それを持って消費することでその人の社会的な地位を示すという力もある。内村はこういう富をも批判する。世間が褒めてくれるという理由で消費するのでは本当の富にはならない。富は心の独立とつながるように消費してこそ、何物にも代えがたい愉快が生ずるのだ、と。
以上の内村の「富と徳」の関係論を少しばかり専門知識をひけらかして整理すればこうなる。彼の富の考えはヨーロッパ経済学史のなかでは古典派スミスのものに近い。スミスは重商主義の富観を批判した。重商主義は貨幣こそ富だ、それは貿易差額の黒字に示される主張した。スミスはその考えを批判した。富は貨幣で買われる商品のほうにある、消費財の豊かさにある。それを得るには労働生産力を増大させればよい、つまり分業を拡大深化させればよい。また国民のうちで生産的労働者の占める割合を大きくすればよい、そのためには生産で用いられる資本を増大させればよい。これがスミスである。これで分かるようにスミスはかなり資本主義的である。内村はスミスとは違って文明批判的な要素もあるから、J.J.ルソーのほうに近いといえる。ルソーは独立生産者的な富観をもっていた。ついでに社会思想史的な知識を持ちだせば、内村は三井・三菱の財閥や古河財閥のような政商的活動による財産づくりや豪華な散財を嫌い、明治政府の商工業重視の富作りを批判しているのである。
富の源泉は正直な労働をもって自然に働きかけることから生まれる。内村はこの考えを個人のレベルだけでなく、一国全体にもあてはめる。『後世への最大遺物』(1897年、明治30年)においてである。彼はヨーロッパの近世以来の世界を見渡して、そこに繰り広げられた諸国の興亡は道徳によって決められたと言い切る。昔は国富はスペインやポルトガルのように金銀鉱山を所有する国のものであった。それが近代になると、オランダやアメリカ合衆国が進出してくる。これらは金銀鉱山をもたないプロテスタントの国である。国富はプロテスタント的な勤労と禁欲の道徳のある国で生みだされていく。
この富論は後の大塚久雄に受け継がれる。しかし、それは17・8世紀の初期資本主義期には当てはまっても、19世紀に確立した時になると当てはまらなくなる。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study322:100903〕
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