憲法96条改正の動きを見過ごすことはできない
- 2013年 3月 15日
- 評論・紹介・意見
- 三上 治
アベノミクスと称される経済政策《デフレ脱却のための金融・財政・成長戦略》を隠くれ蓑にして憲法改正を準備したいという安倍政権の本音が見え隠れする。まずは経済の浮揚を前面に掲げても安倍政権の根本的な政治構想に憲法改正が置かれていることは誰もが知っていることだが、今、この動きが憲法96条改正の動きとして出てきているのだ。安倍の焦りをそこに見ている人も多と思える。相当に身体が悪いのだろうか。早いうちに憲法改正の道筋を立てて置きたいということか。集団自衛権の行使に執着し、憲法9条の骨抜きをいっそう進めようとすることも同じことである。
憲法96条はなじみの薄い条項と言えるかもしれない。が、一般にはこの条項は三分のニ以上の賛成がなければ国会での憲法改正の発議は出来ないもといういみではそれなりによく知られているともいえる。この条項は憲法を擁護し、安易な改正などを拒むという点に立てば重要な外堀のような位置を持つものである。逆にいえば憲法の改正を志向する部分にとっては大きな壁としてあるものと言える。「第96条{憲法改正手続き}この憲法の改正は各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会がこれを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。《以下略》」。略の部分は国民投票の規定であって、そのための法律が「憲法改正のための国民投票法案」として成立している。
憲法改正には他の法律と違って安易な改正を許さない高いハードルが課せられている。これは各国の憲法においても見られることだが、それには二つの理由がある。その一つは憲法が根本法《最高法規》であって簡単に変えてはならない原則を定めていることにある。もう一つは憲法が権力にあるもの乱用を制限するものであるためだ。この後者にこそ憲法改正に高いハードルが設けられている理由と言っていい。憲法改正が統治権力の都合に合わせて変えることは乱用と同じでありその制限が高いハードルである。憲法は権力者が権力を乱用することを防ぐための権力の運用ルール《法》であり、一般には国民主権と呼ばれているものである。憲法96条は国民主権の別の言い方であると考えていいのである。逆にいえば、統治権力は統治の手段として憲法を考えがちであるが、96条の改正に手をつけようとするのもここに根ざしていると言えなくはない。
国民主権は憲法の内実である根本的な精神である。この憲法の精神や理念は誰でも憲法の授業の初め教わるものだが、憲法の常識であるが、これはわが国では一般化したものとしては理解されてはいない。言葉としては広く流通しているにしても血肉化したものとしてあるといはいいがたいのである。まだ、よそ行きの言葉である。小室直樹が「我が国は未だ近代国家にあらず」と言ったことでもあるが、法治という事が言葉に過ぎないということでもある。
この事由はわが国においては憲法が国民の意思として成立したものではなく、むしろ権力側から与えられたものだという歴史的な事情にある。《大日本帝国憲法は欽定憲法である》。伊藤博文によって創られた大日本帝国憲法は対外的には日本が近代制度にあることの体裁作りという面をもち、体内的には官僚《明治の藩閥政府》に統治根拠を与えるためのものだった。自由民権運動の背景があっても、それに対抗する面が強かったのである。こうした我が国における憲法成立の歴史的事情は憲法に対する国民の無関心としても作用しているが、逆にいえば憲法は統治権力の技術の体系のように理解されがちになっている。
日本の権力者たちが憲法を権利の体系としてではなく、義務の体系として解したがるのは端的なことだが、このことは憲法を擁護する部分にもジレンマをもたらす。「憲法改正」に反対することはこうした歴史事情にある憲法を擁護し、本来の憲法を擁護するのとは違うという意識をもたらすからだ。憲法を生みだす、創出するということが日本では必要で現行の憲法を擁護はこれとは違うと言う思いが出てくるのだ。これは矛盾的なものとして現象する。僕らは国民主権と言う憲法精神を生成して行くということが憲法改正反対する場合も根底にあり、それを自覚することでここを乗り越えなければならない。個々の憲法の条文の擁護はそこにある憲法精神を擁護し、そこに憲法精神を吹き込むものとして意識しなければならない。日本における憲法闘争は「憲法改正」に反対するにしても、日本の憲法の歴史的制約を超えるという契機が含まれていなければならない。こういう主体の契機が一見すると保守的に見える「憲法改正」反対の中にあることを自覚し、積極化しなければならない。
憲法96条の改正の向こうにあるのは憲法9条の改正であるが、僕らは個の反対を通して国民主権としての憲法を生成している闘いをやっているのであり、そこにこそ革命性のあることを自覚しなければならない。憲法も統治権力の統治手段であるという我が国の伝統、権力の歴史的性格を変える闘いがここにあることを深め広めなければならない。沖縄からはじまり、脱原発運動でも広くある自己決定を目指す闘いは別の言葉でこれを実現していると言える。これは僕らが何を目指しているかになるが、憲法問題を契機にこの点に視野の拡大を。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion1199:130315〕
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