評論 戦争と社会主義
- 2013年 3月 25日
- 評論・紹介・意見
- レーニン宮内広利帝国主義論戦争
1914年7月、第一次世界大戦が始まったときレーニンを何よりも驚かせたのは、左翼政党と呼ばれていた第二インターナショナルの諸政党、特にドイツ社会民主党の指導者カウツキーをはじめロシアのメンシェヴィキも、自国の開始した戦争の支持にまわったことだった。ロシアのプレハーノフその他や英仏のおもだった指導者が次々と変節し、「社会排外主義」の潮流におし流されて戦争支持の表明をおこなったのである。第二インターの指導者たちは、国家が国民に押しつけている戦争意志を容認し、それを介して敵国と闘うことは他の国家のもとにおける労働者や大衆を解放することにつながるかのような詭弁を弄していた。階級的立場を標榜しながら、いかに易々と国家の意志に飲み込まれて妥協していったか、その見本がここにあった。もし、彼らが全力を上げて戦争反対に取り組んでいたなら、戦争の開始を阻止するまでにいたらなかったとしても、この戦争を機会に階級闘争を進展させることもできた。しかしながら、開戦が決定的になると、それらの政党は先を競うように「祖国防衛主義」になだれこみ、理念としては、事実上、自壊してしまったのである。彼らは資本主義の政府による民族主義的な排外思想や侵略思想を、階級思想といかに調和させ接木するか腐心しているように見えた。いわば、労働者や一般の大衆の中にある民族感情や国民感情の沸騰に驚き、階級的な原則にそれを混ぜ込んで、どこかで調和点や均衡点をみつけだそうとしたのである。レーニンには、彼らのこうした行為は社会主義そのものの放棄に映ったのであり、大多数の者が社会主義を裏切り、恥ずべき死を遂げたと憤慨させた。
しかし、レーニンは労働者同士の階級的な連帯や共有する倫理観、利害の共同性が、近代国家や民族の枠組みを超え、国際主義(インターナショナリズム)に向けて拡げることができると考えていたから、マルクス主義の階級闘争史観を忠実になぞって戦争に対する原則的な立場を貫いた。労働者の階級的な意志は、必ず、資本主義的な民族国家の枠組みを超えて共通の目標に立脚できるはずだからだ。彼は第二インターの社会民主党幹部らに対して、「日和見主義」、「折衷主義」や「修正主義」などのたくさんのレッテルを貼り、卑しむべき行為として批判した。そして、彼らを相手に論争しているうちにたくさんの著作をおこない、マルクス以後の世界経済の発展を分析しようとした。この分析にもとづいて、彼はすべての国の社会主義者は何をすべきかをあらためて問い直そうとしたのである。その批判の大部分は、彼らがマルクス主義を生きて発展しつつある理論ではなく、死んだドグマに変えてしまったという点に帰着させている。
レーニンは、戦争は政治の延長であるとするクラウゼヴィッツのテーゼを引用して、交戦中の諸国が帝国主義であり、政治の次元で帝国主義的政策が対立し合っているなら、戦争は帝国主義戦争として、つまり、帝国主義相互の戦争、帝国主義ブルジョアジー同士の戦争ととらえた。このため、ロシアにおける革命は、帝国主義戦争をロシアの封建領主および大ブルジョアジーに反対する闘争に転化しなければならないとした。そして、彼は「祖国(ブルジョア的)防衛」のスローガンに対抗して、「帝国主義戦争を内乱へ転化せよ」というスローガンを打ち出したのである。こうしてプロレタリア国際主義の名のもとに帝国主義戦争に対して反対しながら、自国政府の敗北と帝国主義戦争の内乱への転化のスローガンを掲げたのはロシアのボリシェヴィキのみであった。
レーニンが『帝国主義論』を書く直接の動機になったのは、勃発した戦争の現実に直面し、他の社会主義者との間で論争がおこったからである。その際、レーニンの頭にあったのは、資本主義の生成期であった古典近代期のマルクスの思想の原則が、目の前の労働者たちの意識の中に、マルクスの時代のままの姿で蘇生できるかどうかの可能性であった。その程度こそが近代民族国家の枠組みを超えるための物差しになっていたのである。彼がそういう国際主義(インターナショナリズム)の原則に立ち、具体的に提起した方策は、①各国の軍事公債にたいする賛成投票を拒否して、ブルジョア的内閣から脱退すること。②国内における平和という政府の政策を拒否すること。③国家政府機関が戒厳令をしいて憲法上の自由を停止しているところでは、非合法の組織をつくること。④前線の塹壕内で交戦している敵対国との兵士たちの交歓を支持すること。⑤プロレタリアートの革命的な大衆行動を支持することなどである。
1916年にレーニンは『資本主義の最高の段階としての帝国主義』を脱稿した。彼は大戦前夜の世界資本主義経済の全体像を描いて、戦争の原因である「帝国主義とは何か」ということを明らかにした。このことで世界史の現実と動向についてのレーニンの認識は飛躍的に深まり、彼の革命観に新しい展望をもたらした。彼が証明したのは1914年から始まった世界大戦が侵略的、略奪的な帝国主義戦争であり、世界の植民地の分割と再分割が動機になった戦争であるということである。これまでとは社会的背景が異なる今回の戦争は、交戦列強の支配階級の動向の中にその原因があることは明らかだった。工業生産の巨大な成長による資本集積によって、ますます大規模化する企業が急速に集中、独占化していく過程が、資本主義の内的なメカニズムによって説明された。こうして20世紀の初めにヨーロッパにおいて新しい資本主義の形態が出現して、古い資本主義に取って替わる時期を迎えていることが予測できた。レーニンによる独占資本主義の発生の歴史は次のとおりである。
① 1860年代と1870年代-自由競争の発展の頂点。
② 1873年の恐慌以降、長期にわたるカルテルの発展期だが、カルテルは、なお、例外的存在である。
③ 19世紀末の高揚と1900~03年の恐慌。カルテルは経済生活全体の基礎の一つになっていく。資本主義は帝国主義に転化した。
そして、資本主義の帝国主義段階は、次のように定式化された。
≪つぎの五つの基本的標識を含むような、帝国主義の定義を与えなければならない。(1)生産と資本の集積が高度の発展段階に達して、経済生活で決定的役割を演じる独占体をつくりだしたこと。(2)銀行資本が産業資本と融合し、「この金融資本」を基礎として金融寡頭制がつくりだされたこと。(3)商品輸出と区別される資本輸出が、とくに重要な意義をおびる。(4)資本家の国際的独占団体が形成され、世界を分割していくこと。(5)最大の資本主義列強による地球の領土的分割が完了したこと。≫『帝国主義』 レーニン著 和田春樹訳
つまり、資本の所有が資本の生産への投下から分離すること、また、貨幣資本が産業資本あるいは生産資本から分離すること、帝国主義あるいは金融資本の支配とは、この分離が巨大な規模に達している資本主義の最高段階であるとみなされたことである。金融資本が他のすべての資本の形態に優越することは、金利生活者と金融寡頭制が支配的地位にあり、金融的な力をもつ少数の国家が、他のすべての国家から隔絶した存在になったことを意味していた。世界国別の金融資本の大きさをみても、証券発行総額が、イギリス、フランス、アメリカ、ドイツの4か国で約80%を占めるまでになっていた。残りの世界はほとんど、国際的銀行業者であるこれらの国々の債務者にして貢納者の役割に貶められていた。
また、自由主義が支配する古い資本主義社会では商品の輸出が主な活動であったが、独占が支配する新しい資本主義にとっては資本の輸出が中心となった。20世紀に入る頃には、資本主義国における独占体の形成、資本蓄積が巨大な規模に達し、少数の富裕な国々において独占的な地位が形成されると、その先進諸国には巨大な資本の過剰が生じた。だが、資本主義が資本主義である限り、過剰な資本はその国の大衆の生活を向上させることに使われることなく、国外の後進諸国へ資本を輸出することによって、利潤の引上げに向けられる。1910年の国別対外投資額をみると1,750億~2,000億フランに達していたが、この額からの収益は控えめに利率5%としても、年間80億~100億フランにのぼるとされた。これこそ一握りの最も富裕な国家による世界の大多数の民族と大多数の国々に対する帝国主義的抑圧と搾取の確実な根拠になった。
資本家の団体であるカルテル、シンジケート、トラストは、何よりもまず国内市場を相互の間で分割し、一国内の生産を完全にその手中におさめることになった。だが、資本主義は不可避に国外市場と結びついている。資本の輸出が増大し、巨大な独占団体の外国および植民地との結びつきが勢力圏を拡大することによって、これら独占団体のあいだの世界的協定、国際カルテルの形成へと向かわせ、資本と生産の世界的集積をおこなうようになる。
金融資本の時代には、私的独占と国家独占とがひとつに絡みあっており、力は経済的および政治的発展によって変化する。そこでは純粋に経済的な力関係か、経済外的な軍事的な関係であるかどうかは二義的な問題にすぎない。この巨大企業の間に世界の経済的分割をおこなう一定の関係がつくられつつあり、これと並行して政治的諸国家による世界の領土的分割、植民地獲得競争を構成する関係が形成される。こうして19世紀と20世紀の境目の時期に、世界の金融資本の植民地の分割は完了した。この資本主義の基本的性質は、巨大企業家たちの国際的な独占支配をあらわしていた。このような独占体が最も強固な基盤をもつようになるのは、原料資源がことごとく一手に握られる場合である。このため資本主義が高度に発展すればするほど、全世界における資本輸出競争と原料資源の確保競争が激化し、植民地獲得闘争はますます熾烈なものとなる。金融資本の渇望は経済的領土の拡張に向かい、資本輸出の利益を求めて同じく植民地の侵略がおこなわれる。その上、資本主義が高度に発達したヨーロッパとアメリカの間の帝国主義的競争において、当時、ドイツが他の帝国主義諸国よりも比較的少ない植民地しかもっていないということで極度に緊張していた。金融資本とトラストは、世界経済のさまざまな地域の成長速度のスピードを弱めるどころか強めていたのだ。だが、その力関係が少しでも変化した場合の矛盾のはけ口は、独占資本主義のもとでは国家と経済が一体化しているから、結局、武力による解決を求める以外になくなる。
レーニンの『帝国主義論』は、『資本論』以後のマルクス主義の発展に一時代を画するものであったが、要約すると次のとおりである。ヨーロッパ列強の資本主義は、20世紀初頭において、国内ではトラスト、カルテル、シンジケート、コンツェルンなどによって資本の集積が進んで独占企業体を産みだし、国内市場を完全に手中におさめるようになる。そして、それが金融資本と癒着することで、ますます巨大金融寡占をもたらすことになる。こうなれば資本の運動に国境はない。次は、巨大企業は膨大な累積資本を背景に、海外の植民地、低開発国への資本輸出をはじめる。そして、これらの影響下にある国々を増やしながら、列強間では世界市場の分割(国際カルテル、トラスト)競争が進んでいく。こうして、先進数カ国によって世界は植民地化されてしまい、分割化を完成する。その結果、植民地争奪戦は、政治的暴力による解決しか出口が見いだせなくなるのである。こういう帝国主義段階においては、先進諸国の労働者階級の意識にも変化をもたらす。
≪帝国主義は、世界の分割と中国だけにとどまらない他国の搾取を意味し、一握りの最も富裕な国々にとっての独占的高利潤を意味するのであるから、したがって、帝国主義は、プロレタリアートの上層を買収する経済的可能性をつくりだすのであり、これによって日和見主義を養い、形成し、強固にするのだ。≫『帝国主義』 レーニン著 和田春樹訳
帝国主義は経済的寄生を本質とするから、これによって支配国家は自国の支配階級を富ませ、労働者階級をおとなしくさせておくために買収して、その属領、植民地、従属国を利用する。植民地に対する搾取によって帝国主義国内が相対的に潤うようになることで、西欧の労働運動も変化してくる。労働者はわずかなお裾分けにあずかるようになり、ブルジョアに買収される労働者がでてくると、労働運動を分裂させ、彼らの間に日和見主義を強め、運動の腐敗と変質をもたらす。帝国主義列強間の競争にともなう排外主義が産まれるはこのような背景を隠している。レーニンはカウツキーをこういう労働貴族の代表として激しく攻撃した。カウツキーの帝国主義列強の全体的同盟という提案は、不可避に戦争と戦争の間の息継ぎにすぎないとしたのである。
レーニンによれば、植民地をめぐる帝国主義列強のあいだの戦争は避けられないものだった。帝国主義の性格はその由来とともに経過的な資本主義として定義し直さなければならなくなったのである。つまり、資本主義のこのような変質は、そのまま資本主義が死滅段階に入ったという認識をもたらしたのである。こうしてレーニンは、帝国主義を死滅しつつある資本主義の最終段階と位置づけた。彼は政治(国家)と経済が密接な関係をもっている帝国主義を何よりも、資本主義の最高の段階とみなし、それは社会主義の前夜という現状認識につながった。そのため帝国主義反対の闘いを革命の課題に結びつけたのである。だが、レーニンは戦争一般に反対したわけではなかった。彼は単なる平和主義を軽蔑しており、クラウゼウィッツと同じく戦争とは政治の延長と考えていた。もし、その政治が帝国主義政治であるなら、つまり金融資本の利益のために植民地や外国を掠奪し抑圧する政治であるなら、その政治から産まれた戦争は帝国主義戦争である。もし、その政治が民族解放の政治であるなら、つまり民族的抑圧に反対する大衆運動のあらわれであるなら、その政治から産まれた戦争は民族解放戦争であるとした。レーニンは、一方で無併合の講和を叫びながら、他方では自国の植民地をそのまま残しておくような提案をするような者は社会主義者と認めなかった。
レーニンの『マルクス主義の戯画と「帝国主義的経済主義」について』の中では、「戦争」と「民族」の問題について、ペ・キーエフスキイに対する批判が埋めつくしている。レーニンは、第一次世界大戦は帝国主義戦争と断定するのだが、ペ・キーエフスキイは「祖国防衛」のスローガンを一律に当てはめてしまうから、帝国主義戦争と民族解放戦争の区別もつかないとしている。政治の延長が戦争であるなら、政治が帝国主義的なら帝国主義戦争であり、政治が民族解放的ならば、その戦争も民族解放戦争なのである。マルクス主義者にとって大切なのは、どのような政治的要因が戦争を引き起こしているかであり、帝国主義戦争に「祖国防衛」の概念をあてはめることは、それをあたかも民主主義的な目的を掲げた戦争であるかのように美化することにほかならず、労働者を欺くことであって帝国主義ブルジョアジーの側に加担しているとしたのである。
≪もしも戦争の「真の本質」が、たとえば、異民族の抑圧の排除にあるとすれば(これは1789~1871年のヨーロッパで特に典型的であった)この戦争は、抑圧されている国家あるいは民族の側から見て、進歩的である。もしも戦争の「真の本質」が、植民地の再分割、獲物の分配、他国領の略奪であるなら(1914~16の戦争がそうだ)そのときこそ、祖国防衛についてのおしゃべりは「国民をとことんまで欺瞞するもの」なのだ、と。≫『マルクス主義の戯画と「帝国主義的経済主義」について』レーニン著 相田重夫訳
帝国主義戦争が、すなわち、政治的意義において最も反動的で反民主主義的な戦争が起こりえたのか、また起こらざるをえなかったのかを考えるためには、先進諸国の資本主義が帝国主義に転化したことを理解しなければならなかった。レーニンはこう述べている。このようなヨーロッパ諸国の帝国主義化が進んでいる中で、自国の民族問題はすでに過去のものになっている。もしも、イギリス、フランス、ドイツ、イタリアが今回の戦争で自分たちの立場を「祖国防衛」と唱えるなら、嘘をついているのだ。彼らが実際に防衛しようとしているのは母国語でもなければ、自分たちの民族的発展の自由でもなく、自分たちが他国に対して奴隷所有者的な立場を維持する権利をもつためであるからだ。
レーニンによれば、帝国主義は、政治的な民主主義の破壊をめざすものであり、あらゆる民主主義を否定するものであって、それはまた、植民地の民族問題における民主主義(すなわち民族自立)も同じように否定してしまう。しかし、ペ・キーエフスキイのように帝国主義のもとでは民族自立が経済的に実現不可能だと説くのは間違っている。なぜなら、資本の権力を間接的に利用して民主主義一般を偽装するやり方によって、資本主義は民主主義と両立しうるからである。したがって、民族の自立が問題になるのは政治の場合に限るのであり、経済的な自立が実現不可能という問題を提起すること自体が間違いだとペ・キーエフスキイを批判しているのである。ここにはレーニンの政治を優先する戦争観が集約して現われているとおもえる。しかも、レーニンは、民族戦争とともに革命戦争は認めるというのである。
≪帝国主義列強、すなわち抑圧者である国に対して被抑圧者(たとえば植民地民族)がおこなう戦争は、正真正面の民族戦争である。これは現在でも起こりうる。被抑圧民族の国が抑圧民族の国に対しておこなう「祖国防衛」はごまかしではなく、したがって、社会主義者はこのような戦争における「祖国防衛」にはけっして反対ではない。≫『マルクス主義の戯画と「帝国主義的経済主義」について』レーニン著 相田重夫訳
トロツキーのように物事を白か黒かというように絶対的な区分で考えないレーニンは「世界革命」の展望を曖昧にしか表現しなかったが、それには理由があった。レーニンは、社会主義革命を一過性の事件ではなく、時間の幅をもった政治的な歴史的経過とみなし、それは先進国におけるブルジョアジーに対するプロレタリアートの内乱と、植民地の後進的な被抑圧民族の幾多の民主主義的革命運動とが結合した場合にしか起こりえないと考えていた。彼はイギリス、アメリカ、フランス、ドイツのような先進の帝国主義国の政治形態においても、それらはおおむね同質ではあるが、必ずしも同一でないから、人類が帝国主義時代から将来の社会主義へ進んでいく過程の多様性を認めている。すべての民族が社会主義に到達するであろうことは歴史的必然であるが、すべてが全く同一軌道で到達するとは限らないとしたのである。彼はそれぞれの国民がそれぞれ異なった民主主義の形態をとりながら、また、それぞれ形のちがったプロレタリア独裁を経過し、社会生活の各分野における社会的改造のスピードに独自性をもちこむはずだと考えた。これは、社会主義と戦争、また、革命と民族の問題との関係を理解するうえでのきわめて重要な示唆であった。
『帝国主義』におけるカウツキー、『マルクス主義の戯画と「帝国主義的経済主義」について』におけるペ・キーエフスキイに対する厳しい論難は、帝国主義が世界に不均等な発展しかもたらしえないこと、したがって、また、それに対決する具体的な革命の形態も多様でなければならないことを、彼らが無視していることに向けられていた。レーニンは別のところで、「何か『純粋な』社会革命を期待しているひとびとは、いつになってもそんなものにはめぐりあうことはできないだろう」と述べている。
1916年にレーニンは日和見主義や社会排外主義から革命運動を隔離するために、左翼の少数の人々が唱えた平和主義と完全・即時・全面軍縮のスローガンを批判し、彼らに対して、「正義」の戦争と「不正義」の戦争、帝国主義戦争と民族解放戦争とを区別する必要性を強調した。レーニンにとって、世界がいくつかの抑圧諸民族と被抑圧諸民族に分かれているのに民族問題を無視してよいはずがなかった。彼には完全な平和主義は空想主義にみえた。絶対平和主義者は帝国主義者の支配する資本主義制度のもとで戦争を根絶しようと望んでいるのだが、そうすることで彼らは倫理的にも、実践的にもプロレタリアを武装解除しているとみなしたのだ。レーニンは直面した世界戦争の渦中から帝国主義戦争の実態をとらえ、それが資本主義の最高で最終の段階であることの認識から革命への道筋を描いた。逆に言えば、戦争の性格づけなくして革命の問題はなかったから、革命は戦争を絶対条件にした。彼が絶対平和主義を避けたのは、ほかでもなく、革命がみえなくなる危惧を抱いたからだ。レーニンには明白にみえたのだが、ヨーロッパの社会主義者に不分明と思われたのは「戦争」と「平和」の両義的な性格そのものであった。レーニンの場合は簡明であった。レーニンは「平和」一般というようなものには賛成でなく、単なる「戦争」一般というようなものに反対でもないという立場である。
≪われわれがブルジョア平和主義者とちがう点は、戦争というものが国内での階級闘争とぬきさしならない関係をもっていることを見ぬき、階級をなくし社会主義をうちたてないかぎり、この世界から戦争をなくしてしまうことはできないことを知っている点である。さらに、われわれが彼らとちがう点は、戦争のひとつである国内戦、つまり圧迫階級に対する被圧迫階級の戦争、奴隷所有者にたいする奴隷の戦争、地主にたいする農奴の戦争、資本家に対する賃金労働者の戦争の、正当性、進歩的性格、必然性を、われわれが全面的にみとめる点である。われわれマルクス主義者が、平和主義者とも、また無政府主義者ともちがう点は、われわれがどの戦争についてもそれぞれその特色を、歴史的に(マルクスの弁証法的唯物論の見地から「歴史的に」)分析する必要をみとめる点である。あらゆる戦争につきものの、おそろしいこと、むごたらしいこと、あらゆる悲惨さ、苦しみにもかかわらず、歴史的には進歩的な戦争、すなわちとくに有害な反動的な制度(たとえば絶対主義との農奴制)やヨーロッパでもっとも野蛮な(トルコとロシアの)専制政治を破壊するのをたすけ、人類の進歩に役立ったような戦争が、いくどもあつたのである。≫『社会主義と戦争』レーニン著 川内唯彦・川上洸訳
このレーニンの戦争観では、「戦争」が「進歩的」か「反動的」かによって、また、「人類の歴史に役立ったかどうか」という規準に照らして戦争の善悪が判断されている。これはある意味では、片一方で語られている戦争にまつわる「おそろしい」、「むごたらしい」、「悲惨」という大衆の一般感情と矛盾する言い廻しである。この場合、あたかも「正義」の戦争があり、それに反して「不正義」の戦争もあるというような倫理がレーニンの戦争観に移入されており、ほとんど、戦争に関する「信仰」告白に限りなく近づいている。なぜなら、レーニンには人類史の将来から圧縮した現在の時間を望み見ているような目的意識が遮って、戦争の論理として主観的に自分の方がより「進歩的」であると信じたり、また、「民主主義」の目的性を先に宣言した方が、「正義」の戦争のイニシアティブをとるようになる当然の盲点をつくってしまっているからである。
事実、レーニンとは正反対の立場であった第二インターナショナル諸国の指導層は、この帝国主義戦争を「正義」とみなして支持していたのである。また、現在のどのような戦争でも、「義」としての「民主主義」や「宗教」をふりかざして、敵国に対して「善」を挑発する限りなく「悪」に等しい存在と決めつけることには変わりない。つまり、この場合、「善」と「悪」は容易にひっくりかえるものなのである。そして、「善」と「悪」とひとびとに語られる戦争にまつわる「おそろしい」、「むごたらしい」、「悲惨」の一般感情は、一平面に並べられたものではなく、ヒエラルキーをもった三角形の台座に張りつけられる。そのため、この一般感情は「善」の側からも「悪」の側からも介入されることで、「善」、「悪」とも一般感情を通じて無限に自己増殖することができるのである。わたしは、レーニンとちがって、戦争に「善」や「悪」の二元的倫理観を結合することを拒否すべきだとおもう。だから、わたしには、帝国主義戦争はもちろん、革命の過渡期には不可欠であるという予定の口実をもうけて行う革命戦争も、無条件に「悪」とおもわれる。
レーニンは、階級対立の消滅は、すなわち国家の死滅だから、階級をなくして社会主義をうちたてない限り、この世界から戦争をなくしてしまうことはできないと述べている。確かに、民族国家が消滅すれば国家間の紛争はなくなる。これは、戦争の「義」の消滅と同じ意味あいだが、問題は「義」のあるなしで戦争への帰趨を決めてしまうこと自体に問題があるといえる。レーニンは民族国家のあるところで、「義」のない戦争(帝国主義戦争)を「義」のある戦争(内乱や民族戦争)に変えようとした。そして、結果的にロシアにおいて革命を成功させたのだが、これは彼の『帝国主義』その他の理論書の見透しや将来の社会主義の名目によって実現したのではない。ドイツとの戦争で疲弊したロシアの一般兵士、農民、プロレタリアートの無言の圧力があってこそ可能であったのである。とすれば、どのような戦争であろうと戦争の帰趨を決めるのは、大多数の「政治的」でない被支配層としての一般大衆の意志である。選ばれた政治主体としてのプロレタリアート、兵士、農民の前衛が決めるのではないことを明らかにしなければならないとおもう。
レーニンは『帝国主義論』にとりかかってから、「世界革命」の展望について、マルクスの命題を変えてしまうテーゼを発表した。彼にとっては、一国におけるプロレタリア革命の可能性と、必ずしも十分に発展しているとは限らない一国における社会主義建設の可能性とが、ますますはっきりとした輪郭をもちはじめていたのである。マルクスとエンゲルスは、少なくとも『共産党宣言』からパリ・コミューンまでは、社会革命は後進国ではなく先進資本主義国において、しかも、個々別々ではなく、ほぼ同時的な革命でなくては勝利がおぼつかないと考えていた。これに対してレーニンは、資本主義国の経済的、政治的発展は不均等に行われるから、革命ははじめ1か国、あるいは数カ国で火蓋をきるという結論をくだしたのである。この法則を世界革命の展望に応用した場合、経済的および政治的発展の不均等性は、資本主義の無条件的な法則であるから、社会主義の勝利は、はじめは少数の資本主義国で、あるいはただひとつの資本主義国ででも可能である、という結論が産まれる。革命が勝利した国のプロレタリアートは、資本家を収奪し、自国に社会主義的生産を組織したのち、他の資本主義国家世界に対して立ち上がり、他の国々の被抑圧階級を自分の味方につけ、それらの国々で資本家に対して蜂起を促し、必要な場合には武力介入しても搾取階級とその国家に反対して行動するであろう、という革命戦争のテーゼを提出したのである。その証拠が、『ヨーロッパ合衆国のスローガンについて』(1915)と『プロレタリア革命の軍事綱領』(1916)にある。
≪一国での社会主義が不可能であるというまちがった解釈と、そのような国と他の国々との関係についてのまちがった解釈を、生みだす恐れがあるからである。経済的および政治的発展の不均等性は、資本主義の無条件的な法則である。ここからして、社会主義の勝利は、はじめは少数の資本主義国で、あるいはただ一つの資本主義国ででも可能である、という結論が出てくる。≫『ヨーロッパ合衆国のスローガンについて』レーニン著 レーニン全集刊行委員会訳
資本主義の不均等発展性は帝国主義時代に、一層、激化したとはいえ、マルクス、エンゲルス時代(自由競争的産業資本主義の時代)にも存在した。それにもかかわらず、なぜ、マルクス、エンゲルスは世界革命を唱えたのか。おそらく、当時のイギリスは世界中を植民地支配して、資本主義世界の中心で先頭的地位にあったため、イギリスを中心にして世界に放射線状に拡散する革命を想定できた。ところが、レーニンの時代は、帝国主義を深く分析して立ち入るにしたがって、世界はより不均等の発展が、一層、激化しており、イギリス一国のみの世界把握を想定することができなくなったのである。そこでレーニンは、世界革命を放棄し、一国社会主義路線に乗り替えたのだ。こうしてレーニンは、「一国社会主義」を唱えはじめたのだが、のちのスターリンの「一国社会主義論」とどこが違うのだろうか。
≪結論はこうです。すなわち、われわれは、西欧における革命の勝利がなくても、自分の力で社会主義社会を建設しとげることができるが、しかし国際資本の襲撃からわが国の安全を保障することは、わが国一国だけではできない-そのためには、西欧のいくつかの国々の革命の勝利が必要である、ということになります。わが国で社会主義を建設しとげる可能性ということと、国際資本の襲撃からわが国の安全を保障する可能性ということとは、別の問題なのです。≫『レーニン主義の諸問題によせて』スターリン著 田中順二訳
対馬忠行は、『スターリン主義批判』の中で、レーニンとスターリンを比較して、同じ一国社会主義化可能論の立場に立っているといっても、レーニンのそれは深く国際主義的(インターナショナリズム)精神に貫かれたものであったが、スターリンのものは必然論で、非常にソ連邦愛国主義的な性質をもっていると述べている。その上、決定的なことは、スターリン主義者においてはその一国社会主義は、実は、「国家社会主義」に変質してしまっている。ここから各民族、各国のプロレタリアートの平等性を破壊するソ連邦に従属的な革命方式が固まったとした。しかし、このような言い方では対馬の伝えようするニュアンスはわたしたちに届かない。対馬はスターリンの一国社会主義の思想は軍事面のみに限って他国の援助を求めており、経済・社会的な世界性、そして国家の解体や死滅の思想をすべて捨象してしまっている。だから、経済・社会的には「国家社会主義」になり、国家機構の抑圧や官僚の廃絶の問題が全く省みられていないと言っていることになるが、レーニンの国際主義的精神というのが言葉だけなら、とても曖昧な言い方である。
それなら、戦争という概念を間に入れて理解するとどうなるか。この一国社会主義論が戦争と向き合う時、レーニンは革命を輸出する戦争を望んでいた。それに引き換え、スターリンは革命の祖国を守るための戦争も辞さないという一国社会主義を選んでいることがわかる。この攻守のすれちがいのニュアンスが、ほんとうは両者の戦争の質を異にさせている原因である。わたしたちはレーニンの天才的な政治的触感が、革命の問題に関して戦争を通じて学んできたことをみてきた。いわば、レーニンは戦争を動態的にながめ、社会主義の実現までは戦争はなくならないという前提のもとに、戦争と平和が交互に交替する世界史を繰り返し、やがて、世界革命と国家の解体へのイメージをめぐらしてきたとおもえる。つまり、必要悪としての戦争を認めてしまったのであるが、「国家」と「社会主義」あるいは「戦争」と「社会主義」が矛盾するところで、スターリンとちがって、おそらくレーニンなら矛盾をうけとる度量があったかもしれない。だが、こういう思想の隙間から、スターリンのような国家理念、つまり、国家をもってコミューン型の半国家の理念をもったボリシェヴィキ党の集団に国家権力を掌握された近代民族国家が形成されたのである。その思想は民族国家を超える思想をもたない限り、いずれ愛国主義的にもなるし、排外主義的にもなってしまったのである。この戦争力学の誕生の秘密は、レーニンの思想の隙間にも入っていた。
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〔opinion1208:130325〕
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