原爆の怖さと被爆体験を語り尽くす -[書評]中沢啓治著『はだしのゲン わたしの遺書』(朝日学生新聞社、¥1300円+税)-
- 2013年 4月 1日
- 評論・紹介・意見
- 『はだしのゲン わたしの遺書』中沢啓治岩垂 弘書評
原爆による被害は言語に尽くしがたいほど悲惨。核爆弾の使用はもう絶対に許してはならない――中沢啓治著『はだしのゲン わたしの遺書』(朝日学生新聞社刊)を読み終え、改めてそう痛感した。広島・長崎の被爆から67年余。この本は、私たちに改めて核兵器廃絶へのたゆまぬ努力をうながしてやまない。
中沢さんは、1975年の発行でこれまでに十数カ国語に翻訳され、トータルで1000万部以上売れたとされる漫画『はだしのゲン』の作者である。目の病気で視力が衰えたため2009年に漫画を描くのを断念。2010年に肺がんを発症、右の肺の一部を切除したものの再発し、昨年(2012年)12月19日、広島市内の病院で亡くなった。73歳だった。
中沢さんは、広島市内で下駄の塗装業をしていた父晴海さん、母キミヨさんの三男として生まれた。小学1年(6歳)の時の1945年8月6日、米軍機が投下した原爆で、爆心地から1・3キロ離れた学校の校門前で被爆した。が、コンクリート製の塀と街路樹の陰にいたため、奇跡的に助かった。しかし、父、姉、弟は爆風で崩れた自宅の下敷きとなり、火焔に焼かれて死亡。4カ月後、原爆が投下された日に生まれた妹が栄養失調で亡くなった。助かったのは、中沢さんの他には母と2人の兄だけだった。その後、焼け野原と化した広島市内で、生き残った家族の苦難の日々が続く。
中沢さんは小学3年の時、漫画家になろうと決意する。中学を卒業すると、看板屋に就職、デッサンの基礎、色彩関係、レタリングなど、漫画に必要なことを学ぶ。1961年、22歳で上京し、漫画家のアシスタントをしながら、自分の漫画を描くことに熱中、63年に月間誌『少年画報』に『スパーク1』と題する、レーサーと産業スパイをからませた作品が掲載される。これが漫画家としてのデビューで、24歳だった。65年、広島県出身のミサヨさんと結婚する。
68年、アシスタントをやめ、漫画家として独立。73年、『週刊少年ジャンプ』(集英社発行)に、同誌編集長の勧めで『はだしのゲン』の連載を始めると、大きな反響を呼び起こし、全国から読者の手紙が殺到した。これは、いわば中沢さんの自伝で、主人公の少年ゲンは中沢さん自身だった。中沢さんによれば、6歳の時に自身の網膜に焼き付いた原爆の姿を徹底的に描いてみよう。戦争で、原爆で、人間がどういうふうになるのかを徹底的に描こうと思って描き始めた作品だったという。その後、掲載誌は変わったが、85年に完結する。
この作品、75年には汐文社から単行本として刊行された。その後、英語、ロシア語、フランス語、ドイツ語、韓国語、ギリシャ語、スペイン語、ポルトガル語、ウクライナ語、ポーランド語、インドネシア語、モンゴル語、タイ語、スウェーデン語、フィンランド語、トルコ語、タガログ語、エスペラント語などに翻訳された。映画、アニメ、ミュージカル、オペラ、芝居、講談にもなった。
『はだしのゲン わたしの遺書』は、加藤明さん(元朝日新聞記者)と佐藤夏理さん(朝日学生新聞社編集者)が、病床にあった中沢さんを昨年3月から何度もインタビューし、それをまとめたものだ。加藤さんらによれば、中沢さんは原爆の怖さと自らの体験を語り尽くしたという。出版されたのは中沢さんが亡くなる1週間前。中沢さんは病室で本を手にとって喜んだという。
『はだしのゲン』では、主人公ゲンの目に映った、原爆が投下された直後の異様な光景が漫画で描かれていた。破壊されて燃え上がる家屋。目玉が飛び出した人や腹の中から腸が飛び出した人。ガラスの破片が肌に突き刺さった血だらけの人々。防火用水が入った水槽に群がる人々。皮膚が垂れ下がった手を前に突きだして幽霊のように行進する人々……。それは思わず目を背けたくなるような悲惨極まる地獄絵図だった。
これに対し、『はだしのゲン わたしの遺書』では、こうした地獄絵図が、中沢さんの口を通して語られている。それは、思わずページを閉じたくなるような凄惨な光景である。それは、漫画とは別な圧倒的な迫力で読者を捕らえて離さない。
本書の中で、中沢さんは語る。
「『はだしのゲン』は、被爆のシーンがリアルだとよく言われますが、本当は、もっともっとリアルにかきたかったのです。けれど、回を追うごとに読者から『気持ち悪い』という声が出だし、ぼくは本当は心外なんだけど、読者にそっぽを向かれては意味がないと思い、かなり表現をゆるめ、極力残酷さを薄めるようにしてかきました」
「漫画家仲間からも『おまえの漫画は邪道だ。子どもにああいう残酷なものを見せるな。情操によくない』と叱責されたことがありました。けれど、ぼくは『原爆をあびると、こういう姿になる』という本当のことを、子どもたちに見せなくては意味がないと思っていました。原爆の残酷さを目にすることで、『こんなことは決して許してはならない』と思ってほしいのです」
漫画が描けなくなった中沢さんは、2011年、それまで描いてきた58作品の原画9500枚、単行本や雑誌884冊などの資料1万441点を広島平和記念資料館に寄贈した。いわばすべての“財産”を手放した中沢さんとしては、遺言を残すつもりでインタビューに応じ、あの時、広島で目撃した光景の真の姿を、残された力をふりしぼって語り尽くしたものと思われる。
本書を読み終えて強く印象に残ったことがいくつもある。
まず、中沢さんが原爆ばかりでなく原発にも反対していたことだ。中沢さんは語る。
「ぼくは以前から、日本は地震列島なのだから、原発に頼るのは非常に危険だと思い、原発には反対でした。『原爆と原発はちがう』と言って、この地震の多い国で原発を増設してきた日本政府、それをだまって受け入れてきた日本人に、憤りを感じてきました。原発がある地域に行ってみると、立派な図書館とか公民館とかができているわけです。みんな金がほしいんです。原発を維持するのも、みんな金じゃないですか。そういうふうに慣らされてしまっている」
「常々、みんな原発のおそろしさをわかっていない、放射能のおそろしさを知った広島、長崎の教訓が生かされていないと思ってきました」
第2は、幼いころ、日本人として朝鮮人を差別したことへの自己批判だ。本書にはこんなくだりがある。
「ぼくの家の裏に、ボクさんという朝鮮人の一家が住んでいました。……当時、広島にはボクさん以外にも朝鮮人の方がいて、子どもの間では、朝鮮人をばかにする歌がはやっていました。『朝鮮、朝鮮とパカにするな。おなじ飯くって、ぬくいクソ出る。日本人とどこがちがう。靴の先がちょとちがう』という歌です。朝鮮の人は先がそった朝鮮靴をはいていました。朝鮮人がしゃべる日本語は片言なので、それをバカにしてからかいながらこんな歌を歌って笑っていたのです。ひどいことです。ぼくも一緒になってはやしたてているのをきいて、おやじは非常に怒りました。日本が朝鮮に侵略してどれだけひどいことをやったのか。強制的に朝鮮人を日本に連れてきていること、安い労働力としてこきつかっていることをこんこんと説教されました。ボクさんも強制的に日本に連れてこられたそうで、ぼくはわけもわからずに朝鮮人をバカにする歌をうたっていたことを恥ずかしく思ったものです」
それにしても、本書を通じて浮かび上がってくる、中沢さんの反戦・反核への思いの強さに心打たれた。
「忘れることはときに必要なこともあるかもしれませんが、戦争と原爆のことだけは、忘れてはいけないことなのです。『戦争は人間のもっとも愚かな業』というのがぼくの持論です。戦争はきっと、忘れたころにまたやってきます。そのためにも、戦争があったら、核兵器が使われたら、どんな事態になるかを知って、それを阻止する力を結集しなくちゃいけないと思っています」
「広島・長崎に落とされた原爆は、本当にまだ小さな、小さな核兵器です。いまは、もつと性能が上がっているのですから、その倍以上のものを想像してみてください。どうなりますか? もう、人類滅亡です」
「ぼくは色紙を頼まれたら、『人類にとって最高の宝は平和です』とかくのです。戦争になったら、人間のもっとも残酷な部分があらわになって、人間の命なんて、あっという間に吹き飛んでしまうのです」
中沢さんのこうした思いが、若い世代に引き継がれてゆくことを祈らずにはいられない。
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