死刑廃止論へのプレリュード (4)
- 2013年 6月 14日
- 交流の広場
- 山端伸英
29. アメリカ合衆国のハリウッド映画では大方「正義が勝つ」。このアメリカ型「正義」の中身はともかく、 その論理が帰結する効果は「勝つものは、従って、正義である」ということでもある。戦勝国の裁判や制裁は、このように理解されてしかるべきであり、そこには戦争中の民衆の「苦労」への見返りが期待され、経済的な効率が為政者内部の必要にもなる。勝つことはめでたく、嬉しくもあるので、間髪を入れずお祭り騒ぎを行なうべきである。勝利に加担し、犠牲を払い、堪えてくれた民衆への成果の証としてイケニエは必要でもあったかもしれない。ユーゴでも、イラクでも、ベルリンでも、東京でも。
30. ここでは、「国家による死刑」と「戦勝勢力による死刑」との間には確実な隔たりがある。立憲体制における「国家の死刑」には、ある意味ではその「目的」として、体制秩序の維持、政治システムおよび制度や国内行政の正統性確保、文化的統合と社会的価値の安定化の問題などが絡み合っている。実際には、教員や公務員、皇族などの犯罪はたとえ軽犯罪でもそれらの価値を脅かすものである。彼らの犯罪が体制価値を脅かすものであっても「死刑」にならないのは「司法権力」という絶えず「国家の利益」にのみ判断を仰ぐ体制が存在するためである。すなわち「国家による死刑」は「国家の利益」が、その裁定の基準ともなっている。「死刑」を通じて「国家」は「社会」への優位をそのつど確認している。
31. では「死刑判決」および「死刑執行」がもたらす被害者の家族や友人たちへの効果とは何であろうか。
A. 死刑判決により正義が確定された。その「正義」は国家保全、社会秩序安寧、のための原則である。しかし、そこにはそれらの原則が守られなかったことに対する国家支配の立場からする復讐と、生きている犠牲者側の加害者に対する怒り、憤り、言葉にならぬ喪失の悲しみなどに対する生きている側からする復讐の気持ちが含まれている可能性もある。多くの隠された加害者や被害者の言い分や情緒の渦は、死刑執行によってゼロに帰するだけである。死刑執行の公開により被害者側は加害者の死を確認できる。しかし、それがゼロに帰しただけに過ぎないことを悟ることができる。
B. 死刑判決により神の正義が実現された。その「正義」はこの世における「善悪」の確定に基を置き、冤罪などはありえない。そこに神の意思が現れ、、、、、被害者たちは神仏の表れを現実世界の儀式と重ね合わせて満足することもできる。そこには冷酷な国家の現実の犠牲となった加害者への同情さえ生じかねない。この場合、時が経ち、死刑になった人間が無実だったとわかっても、その冤罪の問題は次に来る。初めてそのとき「復讐」の未達成に気がつき憤るのである。
32. 裁判員制度の下での死刑判決にはさらにいっそう複雑な問題が絡んでいる。現在の裁判員裁判における裁決には映画「11人の怒れる男たち」などのような筋書きが期待できるのであろうか。一九六〇年代における学校での集団暴行では誰もそれを正式に咎めるものはいなかった。ひとつは時代的な問題がある。私的な次元で「何で黙って殴られているんだ」とか「かわいそうになっちゃうよ」と言う善良な同僚たちはいつの時代にもいるのだが、教師や優等生たちのほとんどは無視していたので社会的問題になることはなかった。つまり、ふたつ目には日本の左翼を含めた知識階級の性格と日本市民の性格の進化の度合いの問題もある。「いじめ」という言葉は当時なかった。もっとも、その「いじめ」と言う言葉を初めて聞いたとき、僕は一種の「共同主観」のイデオロギー性を感じ取ったものだ。すなわち、この次元での「正義の実現」は、三番目の問題だが、ひとつのイデオロギー性への収束と感じる余地を被告に与えるだろう。おそらくは制度の生成過程にある裁判員裁判において、冤罪が生じた際の司法側の言い訳は想像に難くない。反面、死刑囚の死刑執行以後の冤罪調査は、体制の良心の問題と、体制への信頼をもたらしえる。問題は、登校拒否もせず、自衛隊の閉鎖性を告発もせず、死をも恐れず、死に向かって行こうとする人間がしばしばいることだ。神の配剤は死にも傾きえる。登校拒否を問題にするのは事態を転倒させているだけに過ぎない。
33. 死刑判決には「目的」があるはずだ。「目的」のない死刑判決だったら、それはいったい何なのかと聞きたい。僕は実際、「死刑執行」そのものにも法的な事由を見ることができ、その「死刑執行人」そのものの動き自身にも政治社会内の文脈を抑えることができるのではないかと思っている(「夏の流れ」丸山健二)。現在では裁判員裁判の動きを注目できる。
*山形市と東京都江東区で3人が殺害された連続放火殺人事件の裁判員裁判で、東京地裁は11日、殺人や現住建造物等放火などの罪に問われた名古屋市昭 和区の無職、浅山克己被告(47)に求刑通り死刑を言い渡した。平木正洋裁判長は「交際相手を連れ戻したいという願望を実現するために重大な犯行を繰り返 した。刑事責任は極めて重く、死刑はやむを得ない」と述べた。(毎日新聞、2013年6月11日)
*平木裁判長は「交際相手に対する異常に強い執着心から事件を起こし、身勝手で自己中心的だ」と指弾した。(毎日新聞、2013年6月11日)【川名壮志、安藤龍朗】
「刑事責任は極めて重い」「身勝手で自己中心的だ」「死刑はやむを得ない」・・・僕はやはり腕を組んでしまうのだ。しかも、ここにはこの裁判が「裁判員裁判」であることが明記されている。判例をよく読むまではコメントを控えるにせよ、「死刑判決」へと持って行く操作に何か不自然なものを感じ取るのは僕ひとりなのだろうか。
34. もし、それが僕ひとりならば、それが僕が日本を離れている理由のひとつでもある。しかし、僕はそのような日本社会の成員よりも日本人であるという自負を持っている。したがって、死刑廃止後の日本社会へのビジョンを持っている。思えば、憲法第九条の不幸は、国民へのこの条項へのビジョンがわかりやすく解説されず、国民はこの条項の持つビジョンにさえ気がつかず時を過ごしてしまったことだろう。「死刑廃止後の日本社会へのビジョン」と書いて、有象無象がそのビジョンを立ててくれれば、それだけで幸せな情況が生まれるだろう。死刑は存続したほうがいいと言う「左翼」や「リベラル」がいるなら、彼らはその時点で民衆を裏切っているのだ。
35. 国連は2013年6月12日、これを書いている立場では昨日、死刑廃止への声明を行なっている。死刑執行問題についての決議は昨年末になされており、世界のファシスト国家の肖像が明らかになりつつある。
番外:Internet環境の悪いメキシコ中央高原の、しかもパラカイディスタ地域でこれを書いている。二三のネット上の友人たちの支援に感謝する。
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