書評 「大人の平和主義」について
- 2013年 6月 23日
- 評論・紹介・意見
- 宮内広利平和藤原帰一
ともすれば、政治的プラグマチストを自認するものにかぎって、反対に抽象論におちいっていることが多いが、国際政治学の立場から世界の戦争と平和の問題を考えようとすればどうなるか、藤原帰一の穏健な平和主義がよく示してくれる。彼は最近の憲法改正をめぐる動きは、軍隊がなければ平和になるという極端な平和主義が、軍隊がなければ自国は守れないという裏返しの危機感に転換して、ゲームのような軍事崇拝の傾向がでてきた証拠と考えた。それに対して彼はドグマの平和から現実の平和へという方向転換を提示している。
≪戦争を避けるためになにができるかなんか考えなくても平和って言葉は言えるんですよ。それに、自分たちが戦争でひどい目にあった、もう戦争はイヤだっていうのはよくわかるんだけど、それだけだったら、自分たちの安全を守るためにはあいつらやっつけなくちゃいけないって立場に簡単にひっくり返るかもしれない。イヤミな言い方をすれば、いま日本に起こっているのは、そんな平和崇拝から軍事崇拝への逆転でしょう。ぼくは学生運動の世代よりあとに生まれたので、学生時代には反戦平和って言ってた人が平和主義の虚妄なんて言い始めるのをイヤというほど見せつけられました。随分簡単に考えを変えるんだなとむかしは思いましたが、考えてみればこの人たちは前もいまも戦争そのものは見てないんですよ。あるのは観念だけで、それがひっくり返ったわけ。何度も言いますけど、平和っていうのはそんな観念よりも具体的な、目の前の戦争をどうするか、戦争になりそうな状況をどうするかって問題なんです。平和主義を守るか守らないかってことよりも、具体的な状況のなかで平和を作る模索が大事だと思っています。≫『「正しい戦争」は本当にあるのか』 藤原帰一著
一見して「ごもっともです」としかいいようがない論旨だが、要するに、多くのひとは戦争と平和の隙間の構造がわかっていないから、戦争主義と平和主義は簡単にひっくり返ると言っていることになる。この点については同感であるが、わたしは藤原とは幾分ちがって、このような逆転現象は、戦争は現実の人間の生死の問題であり、経済的、心理的な観点、個人にとっての戦争とはなにか、国家のための戦争とはなにかの意味を含め、それらがほとんど解明されていないためにおこってきたと考えている。藤原の戦争の概説にしたがえば、最初、神権政治と宗教が結びつき、宗教戦争が「正義の戦争」として始まった。しかし、近代の始まりは戦争と正義を切り離すようになり、政府の政策の道具としての戦争を認めるようになる。さらに、現代では戦争が政府の手段として利用されていた時代は過去のものになり、その犠牲は経済的にも割の合わないものとする考え方が定着したほか、デモクラシーが世界の隅々にまで浸透したため、戦争は「違法」あるいは「非行」として否認されるようになってきた。
ところが、藤原はこの違法化こそが、かえって新しい戦争をひきおこす引き金になったというのだ。なぜなら、こうして戦争は違法化して排除され、否定すべきものとなるなら、それでも「ならずもの」(にみえる)国家や勢力が世界の平和を脅かしかねないとみなすと、戦争を否定すべきであるからこそ、その危険な存在を放置しておくことはできないことになり、制裁を課そうとして「正義の戦争」の大義がうまれる。つまり、戦争を否定する論理がかえって戦争をひきおこすという逆説が生じたのである。このような逆説は、藤原にとって戦争を否認する観念的な平和主義が逆転して、戦争勢力に対して戦争を仕掛ける論理と同型としてとらえられている。
こうした米国を中心とする「正義の戦争」の行使は、ナチスの時代からはじまっていたのだが、とりわけ冷戦崩壊後、社会主義イデオロギーの凋落の中で一般的な思考方法となってしまった。あの東西冷戦の時代には、米国とソ連はたえず、ベトナムやアフガニスタンなど世界のいたるところで代理戦争をおこなってきたが、全面戦争は核戦争にむすびつくことから危ういながら力の均衡を保っていたのである。ところが、ソ連邦や東側諸国の急激な瓦解とともに、それが自由主義陣営の勝利であるかのように受け取った米国の一国支配がはじまり、あたかも世界の警察を自認する状態になったのである。つまり、冷戦終結時において米ソ両国は世界中でけしかけた戦争責任が問われないまま、その後の世界の混乱に拍車をかけた。そういう時代を背景に米国の突出した軍事力によって「民主主義」に反する国家や勢力は世界の平和の敵との考えのもとに、米国はアフガニスタンやイラクで戦争を仕掛けはじめたのである。こうして宗教国家の正戦観からはじまってパワーバランスの時代を経て、また、「正義の戦争」の考え方が再生されたとされている。
そこで、藤原が最近の地域戦争が多発する世界情勢において、戦争と平和に関して提示するのは、まず、軍事力にたよらないで戦争状態を打開する方法があるかないかをつぶさに考えることである。もうひとつは、武器、暴力の行使を制限する厳密な方策を確立しなければならないということである。たとえば、暴力の行使は自己防衛に限るとか、兵隊以外を殺してはいけないような暴力の制限をともなう法の支配を確立することである。藤原は絶対平和論者ではないらしいから、世界には戦争や暴力をともなわずには解決できない事態のあることを認めている。むしろ、わが国のように憲法によりかかった絶対平和主義こそ観念論であると批判する。彼は戦後憲法に対しては辛辣で、この憲法そのものの出自は連合国にあり、二度とわが国に侵略行為をおこなわせないための足枷に利用したものでしかなく、平和主義の原則からではなかった。国内では憲法はあたかも絶対平和主義の象徴であるかのようにあつかわれているが、海外からみるとわが国の軍国主義を武装解除するために必要だったにすぎないとの事実認識が大勢を占めるとされる。
彼は一足飛びに軍備の放棄にはつながらないから、憲法の非戦条項のように戦争をなくし軍隊をなくす遠大な理想を掲げるのではなく、軍備をなくすには武器にたよらない緊張緩和に向けた方策を定めなければならないという。その前提条件として当事国間の外交的駆け引きや人損や財政的負担に関する計算が欠かせないとしている。つまり、そうした犠牲や経済的負担を考えれば、戦争は割のあわないものだと双方は理解するようになる。そうなれば、その認識が土台となって反戦という目標に向かって、軍隊への依存を徐々に減らしていき、みんなが共に考える状態をつくるプロセスが欠かせなくなる。彼のこのプロセスにおいては、戦争にたよらない状態をつくるための第一歩として、まず、軍縮が先行し、そうすれば緊張を緩和することが可能となり、そのことでさらに武器を減らす循環ができる。実際に、このような循環関係はEUヨーロッパにおいては形成されようとしている。一方、現在の地域紛争はヨーロッパではなくアフリカ、アジアなどの発展途上の国々において深刻であるが、そうした紛争地域に対しては暴力と生活の結びつきを断ち切るモラルを形成するために何が必要かということを考えるべきなのである。これらをさして彼は「大人の平和主義」と呼んでいる。
以上のような考え方は、およそ、彼が平たく世界を見渡した上でつくられた平和段階論だとおもう。戦後は自民党と社会党の相互補完の関係で、憲法をベースにした平和原則論が国民の間にながらく定着していたが、それが米国を中心とする現実世界の動向と摩擦をおこしはじめるやいなや、反対に軍事力に関して楽観主義がうまれた。多くのひとは憲法を守ればわが国が平和になるということが誤りと気づき、その絶対平和主義を一蹴して軍事力によって国際関係を安定させようとする考え方が一般化したのである。そういう風潮に対して藤原はドグマやイデオロギーの幻想性とともに、片方の政治の戦争ゲームの幻想性を露わにして、警鐘を鳴らしているかにみえる。彼は政治プラグマチストらしく両者の表裏した平和の作り方の観念性を剥ぎとり、現実的な平和への道筋を描かなければならないとするのである。
しかし、藤原には内向きといわれそうだが、わたしには、わが国の中国その他の近隣諸国との関係も含め当事国間の緊張関係を緩和するためには、戦争と平和の綱引きに似た論議拡大よりも先に、それぞれの国が平和を実現するための国家像を模索しなければならないとおもえる。政治プラグマチストにとっては既存の国家組織を前提にして、それらの国々が戦争をする瞬間があるかないかというだけで政治が機能的に判断されるのであるが、平和への道筋においては、だれが主体になってこのプロセスを進めていくのかが最大のポイントになってくるからである。そのためにこそ国民による国家像は欠かせないのである。つまり、戦争の意志決定をする方法、軍隊をコントロールできる方法などについて具体的な国家像が問われるのである。憲法に依拠した絶対平和主義の観念性は、このような構成すべき国家像がぼやけており、それゆえ国家から平和へ、平和から国家への往復過程をみちびく論理が欠如していたことから生じているのである。もちろん、軍事バランスの偏重を夢想する側の心の底辺にも、それに相応する国家像があるにちがいないのである。
世界認識や見識の向上そして相手国との関係の検討自体は大切であるが、それらがどんなひとによっておこなわれるか、そのみんなの意識が交わる中身となるみんなは一体誰なのかをはっきりさせなければならないのである。現在のような軍事優先の思想が台頭してきたのは、過去の絶対平和主義の影響もあるかもれないが、それ以上に、不戦や非戦を第一とする国家像を描けていない分だけ、軍事優先の国家像をもとめるひとびとの勢いが増したことを証明しているのである。敵は外にあるのではなく、「誰もが戦争なんてしたくない」はずの誰もの本音を吸収しうる思想の内側において、ゲームのように戦争と平和をもてあそぶ戦略家に対抗できていないことにわたしたちの急所があるのである。また、この場合には誰がどのようにして軍事力を抑制するのかが最大の関門であり、戦争という国家の機能のみを切り取ってみても、なくそうとする戦争の全体像はとらえられない。
おそらく、そこまで踏み込まないと、わが国が傷を負ったかつての戦争の実態を解明することはできないとおもえる。過去の戦争の実態を解明できないということは、憲法論議をぬきにしても、現在の戦争の放棄につながる考え方がうまれる土壌がまるで理解できていないことと同じである。思想の根拠としていえば、藤原の考える平和工作程度なら、あの太平洋戦争に突入していく際、軍首脳でさえ無謀な戦争の拡大については否定的な意見が大勢を占めていたから、政治家、軍人を問わずみんな知っていたとおもえる。この感触は、軍部に影響力があった北一輝や石原莞爾の著書を読んでみればすぐわかることである。それでもあの戦争は開始され、そのあげく尊い犠牲を代償にしたのである。
わたしたちの現在の課題は、まず、あの当時と現在は何がどのようにちがうのかはっきりさせなければならないとおもう。当時になくて現在にあるのは、デモクラシーの浸透によって国民の代表を選ぶことができるようになったことであろうか。しかし、デモクラシーの本家本元である西欧近代国家においても、いつでも戦争は存在したから、それもあてにならない。つまり、この戦争と平和という課題については、各国が横の関係を密にして連帯すれば解決する問題ではなく、それぞれが自らの立場を鮮明にすることがなにより大切なのである。その観点にたって、ほんとうはどのような認識をどのような制度的保障のもとで誰が主体となっておこなえるのかということを考えるのである。そこでは藤原の期待するデモクラシー原理を超えて、さらなる別の原理をうちたちなければならないとおもえる。彼は近代の戦争の縮図の中で考えたから、憲法の限界を観念論と見誤ってしまっているのだとおもう。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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